学生生活最後の4年間

今回は、卒業論文がてら大学生活4年間を振り返り、ここに執筆しようと思います。

うまくまとめれるか不安ですが、気楽にゆる〜くみてくださると嬉しいです!!

では、僕の大学生活4年間のストーリーを楽しんでください!笑


大学1回生

指導者になる

高校サッカーで自分のサッカー人生に終止符を打ち、何か新しいことをしようと思った2020年4月。
高校からそのまま進学し、龍谷大学に入学。
”選手” というものを辞めたものの、スポーツには「する」「観る」「支える」があることを知る。
中学時代に所属していたクラブチームに挨拶に行き、そこで初めて ”支える” という観点からサッカーに携わった。
何故かわからないけど「教える」ということにやりがいを感じた。
純粋に楽しかった。
というか今になって自己分析すると自分は「教える」という行為が好きらしい。笑
そして2020年4月から小学生のスクール・クラブチームの中学生の ”指導者” をすることになった。

指導者1年目の自分と選手

新型コロナウイルス

なんか中国の武漢でやばいウイルス感染が確認されたらしい。
このニュースを見た時は正直、後々世界中がパニックになることなど想像もつかなかった。
毎日感染したとのニュースが耳に入る。
「今日もかよ」「インフルみたいな感じやろ」
そんな感じで軽く解釈していた。
間も無く、世界中でロックダウンが起こり、日本では緊急事態宣言が発令された。
「店も全部閉まる!?」「外出制限?」「人との関わり避ける?」
そんなこと本当に現実になるのかと疑問に思う隙もなく、僕たちは全てのものから遮断された。

楽しみにしていた大学生活

そんなこともあり、大学1回生ではほとんど学校に登校せずにオンライン授業という形態になった。
正直、大学生活は物凄く楽しみにしていた。
なぜなら大学生の4年間は「一番濃くて今でも友人関係が続いている」と色んな先輩や大人の人たちが口を揃えて言っていたからだ。
そりゃそうだ。
大学生はなにをしてもいい。
自分で時間割を決めれるから楽しようと思えばいくらでもできる。
髪型、服装だって自由。
そして1番の醍醐味は死ぬほど「時間がある」ということ。
これ(時間があるということ)に関しては、良いと思う人もいればそうでないという人もいるが。
否が応でも家に居る時間が長くなった。
友達とも会えない、外食すらできない、サッカーもできない。
毎日生きてる心地がしなかった。
食べては寝ての繰り返しで怠惰な生活。
幸い当時はスーパーでアルバイトをしていたのでバイトにはいけた。
今になっては感謝しています!笑
でも心のどこかでこんな毎日にモヤモヤしていた。
普段アウトドアな人からしたら地獄でしょ、、笑
そんなこんなでとにかく色々試してみた。
朝早く起きて散歩、ヨガ、新しい分野の勉強。
見事にどれも3日坊主だった。笑
いや、3日坊主どころか1日か2日でやめていた。

読書との出会い

小学校の時にお世話になったコーチ(kくん)と会う機会があった。
今でも何かあれば連絡し、近況報告をする仲だ。
年は忘れたが、僕とは6個くらいしか変わらないからとても痛しみがあり話しやすい友達みたいなお兄ちゃん的存在である。
その日も変わらず近況報告をした。
・指導者を始めたこと
・日々の生活に満足せず、刺激を欲していること
・何か新しいことを始めたいということ
その時の自分の悩みを全て打ち明けた。
kくんは僕と似ている部分が多い。
たまに怖いくらい似ていることがあるからムカつくが。。笑笑
でも僕が悩んだ時は全力で向き合ってくれ、その時その時に僕がギリできそうなところを的確にアドバイスしてくれる。
kくんは小学生からの僕を見ているし、性格が自分と似ているところがあるのでお見通しなのだろう。
だから的確なアドバイスが言える。
結論から言うと「読書」を勧められた。
自分に読書なんて縁もゆかりもないと思っていた。
まあでもkくんが言うってことはなにかしらのメッセージ性があるし、読んでみるか〜っていう妥協のもとkくんの家にある本棚から自分が興味のある本を取った。
そして怖いのが僕はそこで5冊くらい本を取っていた。笑
それを見た僕にkくんは「どうせそんな読まんから2冊までにしろ」と言った。
自分が選んだ本を潔く捨てきれない自分がいた。(本なんて嫌いなはずなのに笑)
そしてまず初めに読んだのはバビロンという大富豪のお金の話、もう一冊はサッカーの本。
気付けば2冊とも読了していた。
そんな自分に衝撃を受けたのを今でも鮮明に覚えている。
そこからkくんに本を借り続けた。
しかし条件があった。
2週間以内に読了しないとkくんから返却の連絡が来る。笑
2週間以上経つと読まないだろうというkくんの憶測だと思う。笑
読書に慣れていない僕からするとこれがいい感じのプレッシャーになり、それと同時に読書の習慣化に繋がった。
今があるのはこの時のおかげと言っても過言ではない。

初めて呼んだ本

大学2回生

本格的な指導者へ

あっという間に2021年になり、2回生になった。
バイトも辞め、この一年はとにかくサッカー1本に全コミットした。
去年の一年間はアシスタントコーチとしてサポート役に立ち回っていた。
そして色んな指導者の元で勉強させていただき、ある程度のコツを掴み始めた。
「こうすればこうなる」という自分の ”パターン” が見えてきた。
自分の武器を知ることでそれを実戦で活かすことができた。
そして有難いことに2021年4月から中学1年生のGKコーチに就任し、初めて自分の学年を持たせて頂けた。
しかし嬉しい気持ちより自分の学年をもつという責任感と重圧による不安の方が大きかった。
指導者としても経験値もまだ全然少ないし、現役時代自分自身選手として大したレベルではなかった。
当時はとにかく自分に自信がなかったと断言できる。
でも任された以上、全力でやる以外の選択肢はない。
4月のオープニング合宿から僕の本格的な指導者生活が始まった。

オープニング合宿での様子(ガッツリ自分がレーニングした)


トレーニングの様子

①練習メニューを考える
②試合の準備、分析をする
③自分の意図を伝える
④選手のケアをする

これら上記のものが指導者をするにあたって最も難しく、やりがいを感じる項目であると感じた。一つずつ解説していく。①練習メニューを考えるまず選手のレベル、能力に応じてトレーニングを構築する。ここで大変なのが人それぞれ得意不得意分野が違うので、そこをうまく噛み砕き擦り合わせる作業がかなりきつかった。自分がこれまでに受けてきたトレーニングを実践したり、時には他のコーチの方にアドバイスを頂いたり、YouTubeなどのSNSを参考にした。②試合の準備、分析をする次の相手のチームを分析する。録画したビデオをみて相手選手の特徴をまとめ、チームで共有する。セットプレーの配置を考える。楽なようで大変な作業だった。それに加え、①のことで手がいっぱいいっぱいなので本当に当初は頭がパンクしそうになった。笑③自分の意図を伝える正直、指導をするにあたってここを一番大事にしていた。自分の意見を自分なりに噛み砕いていかに ”端的” に話せるかが選手自身に落とし込めるかの鍵になってくる。正直、中学1年生はなにから教えたらいいか分からないほど技術面だけでなく、メンタル面も乏しい。なにから伝えればいいか、自分がパニックになった。そんな時に恩師にこう言われた。「指導者がウネウネしてたら終わりや、そんな姿を選手が見てこの人についていきたいって思うか?自分の色を出せばいいんや。」そっか、人それぞれ持っているものが違う。俺は選手を盛りあげるコミュ力、親身になり話を聞けるお兄ちゃん的存在という武器がある。「これが俺の指導者のしての色や。」ここから自分なりの色で指導し、選手に向き合い始めた。

④選手のケア
例えばこれは選手が何かを不満そうにしている時、何か飲み込めていない時に瞬時に見抜き声をかけてあげる必要がある。
しかし、厄介なのは思春期というものだ。
思春期の選手らは時には目の色が変わる。
ここでお兄ちゃん的存在の自分の武器が役に立った。
選手と年が近い分、選手自ら絡みにきてくれた。
他のコーチには言えないこと(サッカーやそれ以外のプライベートのことも含む)を自分には話してくれる。
その点で言えば、自分は選手に恵まれていたし、若くして指導者というものをしてて良かったと感じる。
それと同時に当時の自分達の時代を振り返ると今の環境を羨ましく思う。笑

不安を抱えたままリーグ戦開幕

4月から試行錯誤を繰り返し葛藤の毎日。
「これでいいのか?」「うまくさせれてるか?」
確立した自信が持てないままあっという間に7月末からリーグ戦が始まった。
この府内のリーグ戦は次年度の関西のトップチームが集まるヤマトタケルリーグ昇格参入に繋がる重要な争いである。
毎試合から出た課題をメモし、それを選手と共有しトレーニングで修正する。
ヤマタケ参入を目標に勝ち点を着実に積み上げた。
気付けばリーグも終盤戦に差し掛かっていた。
順位は1位と2位を行ったり来たりしていた。
そして遂に優勝決定戦の時が来た。
直接対決で1位のチームに勝てば文句なしの優勝だ。
こんなに面白いゲームはない。
何よりこのゲームに勝てば自分自身にとてつもない自信がつくことは分かっていた。(正直ここまで来れたことを誇らしく思う。笑)
これまでと同様に相手の分析をし、練習でシュミレーションをする。
試合は先制点を取る激アツな展開になった。
しかし後半逆転され、僕の指導者として1年目のリーグ結果は準優勝で幕を閉じた。
めちゃくちゃ悔しかった。めちゃくちゃへこんだ。めちゃくちゃ泣いた。
もっとああすれば、こうすればが頭によぎる。
1年目が故にとにかくとても悔しかった。
「よくやった」と周りの指導者が言ってくれた。
でもこの結果は選手はもちろん、他のスタッフの支えありきのことである。
大学2回生はもうこの出来事に僕の全てが詰まっている。

リーグ戦最終戦

高校生の指導

チームを勝たせたい。
もっと選手をうまくしたい。
こんなことを思っていた時、高校の時の監督から「空いてる時間で指導してほしい」と声をかけていただいた。
成長したかった僕は「行かせてください」と即答した。
中学1年生と高校生なんてカテゴリーだけの違いじゃ収まらないけど、自分のスキルアップにワクワクしていたのを今でも覚えている。
まず初めは負荷のないように週1、2回指導をしに行かせていただいた。
高校生は高校生で指導は難しかった。
中学生とは違い、ある程度出来るからだ。
指導者として指導してきた対象パターンが1パターンしかないからここでもまた挫折する。
高校生はもう立派な大人だからコミュニケーションも難しい。
中学生だったら笑うノリも笑わない。(これは自分が面白くないだけか。笑)
OBだから少し気を遣われる、、笑
中学生の指導とはまた違った悩みを抱いた。
あくまでもメインは中学生の指導なので高校の指導は初めは少しだけだった。
普通では経験できないことをさせていただいてるということにものすごくモチベーションが高かった。

リーグ戦に帯同

筋トレを始める

2022年3月。ちょうど3回生になる前のこと。
好きなYouTuberの影響に加え、なぜか自分が読む本には全て「筋トレは人生においていい」と書かれていた。
おそらく、無意識的に脳が筋トレというワードを探していたのだと思う。
脳の潜在意識はすごい。
もうこの時から僕は筋トレを始める運命だったと思う。笑
読書をし始めてから思い立ったらすぐ行動する力が備わっていたので、すぐにジムに入会手続きをしに行った。
そして速攻ジムで筋トレをした。
筋トレをしている自分がカッコよかった。
だって筋肉は男の象徴だと思ってるし。(脳筋…)
筋トレ(ジム継続)についてこんな記事を見たことがある。
半年で退会する人が約70%、1年後には約90%の人が退会する。
1年後の継続率は10%である。
「俺は絶対辞めへんわ、めっちゃいいやん筋トレ」って思ってました。笑
これがみるみるハマり、この頃の楽しみがジムで筋トレをすることでした。
ムキムキになりたいその一心で当初は朝5時くらいからジムに入り浸ってました。
高校生の頃から筋トレをしている友達から絶対続かんぞって言われてました。
みんな最初だけ張り切ってやって辞めていくのがオチと。
なんか悔しかったからまずは最低一年以上はマストで続けてやろうと思った。

筋トレを始めた日

一人旅

2022年9月
人生で初めての一人旅をする。
大学生になってから1人で行動することが増えた。
そのうちに独り身の心地良さを覚えた。
そして大学在学中にしたいと思っていたことの一つが ”一人旅” だった。
「コロナも落ち着いたし一人旅しよう」と意を決して旅に出た。
目的地は長野県になった。
ずっと白馬村を生で見たかったからだ。
やっぱり写真や映像で見るのと生で見るのとでは雲泥の差だ。
初めての景色に圧倒され、自然の偉大さを感じたのを今でも鮮明に覚えてる。
初めての一人旅にしては、不安さなんてものは1ミリもなかった。(国内ならどうとでもなるからだ。笑)
結論から言うと、最高の旅なった。
大自然に触れること、ゲストハウスに泊まって旅人と触れ合うこと、現地のローカル飲食店に行くこと、現地の人と交流すること。
一人旅をしたらしたいことを全部できた。
この時の好奇心だけで飛び込んだ自分の行動力を褒めてあげたいし、何より人の温かさをもろに体感した。
そしてついこの間、この時にゲストハウスで出会った旅仲間と食事に行く機会があった。
これがまさに ”一期一会” なんだろうなと思う旅になった。
自分の足で見たことのない景色を見に行く作業は絶えず続けていきたい。

ずっと行きたかった白馬村

大学3回生

指導者3年目

指導者生活3年目に突入。
この年も新中学1年生を担当させてもらうことに決まった。
良くも悪くも去年一年間の経験を活かそうと思った。
良かったところは引き続き継続する、悪かったところは同じことが起こらないように改善する。
とにかくこれを徹底した。
そしてもちろんその中で新しい学びはどんどん受け入れる。
いろんな経験をしたおかげである程度、自分のキャパ、要領を掴むことができ、練習や試合に活きた。
そして「今年こそは」と臨んだリーグ戦。
勝ち点を着々と積み上げ、優勝の行方は直接対決の結果次第になった。
相手は去年3位の相手。
気持ちが強く、粘り強く戦うチームということはもうすでに分析済みだ。
去年と全く同じ状況になった。
両者譲らない中、後半に1点を決められた。
大丈夫。去年の逆転負けをポジティブに捉えた。
絶対にチャンスは来る。そう信じた。
後半ラストプレーで相手のゴール前で混戦した。
ボールが味方選手の足元にこぼれた。
「きた、同点や!」とはならず。。
そこで試合終了のホイッスル。
そのホイッスルは僕たちが負けたことを意味する笛だ。
去年と同じ悔しい気持ちはあったものの、これが勝負の世界、1年生ということを飲み込んだ。

試合後のロッカールーム

僕はこの2年間で、指導者として「妥協」も必要ということを学んだ。
妥協というとネガティブな印象を受けるかもしれないが、ここでの妥協は決してネガティブな意味ではない。
全てが完璧な人間など居ないように、サッカー選手においても技術、メンタルが完璧な選手なんて居ない。
ましてや、指導の対象が中学1年生なら尚更だ。
1年生、2年生、3年生という過程を経て成長していく。
今になって振り返ってみると、自分自身全てにおいて「完璧」を求めていた。
自分は元々完璧主義の人間だ。
本格的に担当を持たせていただいたからには、何としても結果を出したい。
その一心で、自分なりにこれまでの経験を活かしてトレーニングを行い試合を積み重ね、選手と関わった。
チームの監督は良く、結果よりプロセスが大事とよく言う。
「今結果がどうであれ、何年後かに見返してやればいい」
僕も当時はこう言われた。
そんなことは百も承知だったが、気付けば ”リーグ優勝” ここしか見ていなかった。
でもどうしても結果を出したかった僕は、自分の「基準」を物差しにして選手に求めていた。
しかし選手の能力も個人差だし、年代的にもまだまだ育成年代だ。
人は目の前のことに精一杯になると視野が狭くなるということをこのことから学んだ。
選手の能力も十人十色と違いを受け入れるようになった頃から「なんでできひんのやろうか?」と思うことが減った。
「できなくても当然、できるようにさせるのが指導者の腕の見せ所」と気付かされた。(もう少し早く気付けよ自分、、笑)
このような学びを経て、自分にとって指導のコンセプトがアップデートされた1年だった。

タイ旅行

2023年3月、大学3回生の最後にタイに行った。
なぜタイに行ったかは覚えてないが、友達と2人でノリで行くことになった。笑
海外には高校生の時に修学旅行でハワイに行ったきりで、個人的の海外に行くのはこれが初めてだった。
自分でプランを立てて行く初めての海外にとても興奮した。
家を出て空港に向かうまで、飛行機のチェックイン、現地に着いた時のワクワクと不安。どれもが新しい経験になった。
まず初めに正直な感想を言うと、衛生、匂い、空気、雰囲気悪い意味で全てに圧倒された。笑
これまで日本という国でしか生活したことのない身からすれば、かなり厳しい環境だ。
巷ではこう言う。
「東南アジアは拒絶して二度と行きたくなくなるか、ハマるか」のどちらかと。。
昔から隠れ潔癖症の僕は、空港に着いた瞬間から自分は「あ、これはえぐい」と感じた。そして間違いなく自分は前者だと思った。笑
タイには2週間程、滞在したのだが僕はまさかの後者だった。笑
水回りも悪い、衛生面も悪い、交通面も悪い、空気も悪いのにだ…
自分は大学生になってから強くなったと自負する。
ここでいう ”強い” とはフィジカル的ものではなく(筋トレのおかげでフィジカルも強くなったが。笑)メンタル面、マインド面でのことだ。
色んな場所に足を運び、身を投じることで自分はある程度どんな場所でもやっていけると体感した。
自分は綺麗好きで汚いのが嫌いだ。
でも実際にタイに行き「東南アジア(海外)は無理だ」という固定概念は払拭された。
あの世界観、活気、国民性、雰囲気になぜかハマった。
でも後から振り返って分かったことがある。
一番の気に入った要素は ”人” の良さにあると思う。
タイは微笑みの国と言われている。
でも実際に行って本当にみんな優しく、楽しそうにしていた。
そんな光景、世界を見れて良かった。
世界には色んな環境があり、色んな人が居る。
良い人も居れば悪い人も居る。
綺麗な世界もあれば汚い世界もある(衛生面だけでなく環境面も含む)。
多くの世界を若いうちから見ておきたいと思ったタイの旅であった。

タイのストリートスポーツに混ぜてもらった


ジムで仲良くなったブラジル人

Time is money

いつからだろうか。
”時間”というものに対してシビアになり始めたのは。
筋トレを始めてから自分のライススタイルは大きく変わった。
筋トレがフィジカルだけでなく、マインド面も大きく変えてくれた。
筋トレが自分の生活の一部になり始めて、時間の概念が大きく変わっていく。
この頃の主なライフタイルはサッカー、学校、バイト、筋トレ、遊びだ。
何をするにも時間を必要とする。
サッカー指導者の章でも記述したが、僕は完璧主義者だ。
やりたいと思ったことは全部したい。
そして効率が悪いことが大嫌いだ。
自分の趣味においてもこの哲学が自分の行動を決めた。
サッカーの前にジムに行く、授業と授業の合間にジムに行きそのあとはバイトなどのような詰め詰めスタイルが普通になっていた。
時間は唯一平等に与えられた貴重な資源である。
そんなものを無駄にはしたくない。
時間は命の話にも繋がる。
人はいつ死ぬか分からない。
だからこそ怠惰な生活をするのが嫌だし、一日に色んなことをしたい。
出来れば同じ環境に居続けることを避け、一日の中で行動範囲を増やした。
自分はこの詰め詰めスタイルを”充実”と呼んでいた。
大抵の人はこのガン詰めスタイルを嫌う。
でも僕は忙しいのが好きだ。
たまには一日中何もせずぼーっとダラダラするのもいいが、それが続くと人間ナマケモノになる。
程よいレストは必要だが、若さが故の体力を存分に使うべきだと思っていた。
ただガムシャラにサッカーをして、学校に行き、ジムで筋トレをし、遊びも全力でやり、行動し続けた3回生の1年だった。

大学4回生

留学を決心する

2023年4月
大学ラストイヤーになった。
この時には週1しか学校に登校してなかった。
時間があるのは大学生の特権だ。
この大学4回生の期間を有意義に自由に使う為に、3回生まで頑張ってきた。
何をしようと思う隙も与えず海外に行く一択だった。
でもただただ旅行で行くのも前回タイでしたことだから、違うことをしようと思い、フィリピンに語学留学に行った。
理由は、自分の好きなインフルエンサーがフィリピンで語学留学をしておりそこを強くおすすめしていたからだ。(多分案件だとは思うが。笑)
ここで自分の凄いなと思うところはまずすぐにそのインフルエンサーに連絡した。
「返信なんか来ないだろうな」とは思いつつも返ってきたらラッキーくらいの感覚で連絡したのだと思う。
そしたらまさかの返信がきた!!
まさに「なんでもやってみるもんやなぁ」と強く実感した。
そして様々なアドバイスを貰い、すぐに留学先の学校に申し込んだ。
ここまでの行動は本当に早かったと思う。笑
自分の行動力は凄いなと感じたし、自分の好きなインフルエンサー、ロールモデル含め周りの色んな人から良い影響を受けたおかげで、本当に一人間として成長した。
そんなこんなで、いよいよフィリピンへ出発する。

東南アジアのリアル

まさか一年後にまた東南アジアに来ることになるなんて想像もしなかった。
本当に人生何があるかわからない。
これも何かのご縁だろう。
2023年8月、3週間弱フィリピンで語学留学をした。
もちろん3週間足らずで語学がマスターするわけでもないし、そんなことは重々承知している。
何かを得るにはそれなりの労力、時間、お金がかかる。
僕はこのフィリピンという国で語学以上に大切なことを学んだ。
それは ”幸せの価値観は自分で決めれる” ということだ。
是非今一度、これらの問いを自分に投げかけてほしい。
・自分にとっての幸せとは何ろうか?
・幸せの定義は?
・自分の幸せの基準は?

上記のタイ旅行の際にも述べたが、東南アジアの国は特に貧しい。
そして海外に出ると自分の "当たり前" が簡単に覆される。(これが面白い)
例えば東南アジアで言うと、
①水道水が飲めない
②飲食店で水が有料
③バイクはノーヘル(これ結構いかつい。笑)
④トイレットペーパー流せない(国による)
などが挙げられる。

上記のものが原因で東南アジア嫌いになる大きな理由だと思う。
正直、今日本という国に安住している私たちを基準に考えてみると有り得ないことづくしである。
でも彼ら(東南アジアの人たち)からすればこれが彼らの基準であり彼らの普通である。
初めて海外(タイ)に行った時、街の至る光景を見て絶望したこともある。
匂い、人、空気、衛生、街の雰囲気。
そんな光景を見て、そんな現場のリアルを日本人が経験すれば腰を抜かすだろうと感じた。笑
それと比較すると日本は、道路も綺麗に整備されているし、交通ルールも厳しいし、取り締まりもしっかりしているし、電車やバスは基本的に定時にくるし、働いた分の給料は確実に手に入るし、アルバイトですら安定した収入がある。
ご飯は美味しいし、水道水は普通に飲めるし、水回りも綺麗で調整すればしっかりお湯もでる。
日本は素晴らしい国だと思う。
でもそんな日本でも多くの人が不平不満を垂らしている。
「給料が低い」「仕事がつまらない」
日本の平均月収は手取りで25万円くらいだ。
一方で東南アジアの国々の平均月収はタイで言うと約10万円。
年収にすると約100万円。
フィリピンでいうと月収は約5万円。年収は100万円ほど。
日本と比較すると違いも同然。
目を疑いたくなるが、これが世界のリアル。
私たちはその他の国々と比較すると何不自由ない生活ができていると思いませんか?
・安心安全な衣食住がある。
・健康な身体がある。
・好きなことに挑戦できる
これらが何よりも尊くて幸せなことだと思います。

私たちはこれ以上何を求めるのだろうか。

異国の地で学んだこと

お金が全てじゃない。
今ある環境で全力を尽くす。
今日を全力で生きている。
家族を含む大切な人を大事にする。
笑顔は最強の伝達物。

フィリピンに行き、感じたことだ。
日本より貧しいはずなのにみんな笑っている。楽しそう。充実している。不平不満を垂らさない。
自分の仕事に誇りを持っている。
ハングリー精神を持ち続けている。
今日という日を全力で生きている。

今の自分を情けなく感じた。
”安定” は人をダメにする。
人は変化を嫌う生き物だから、安心安全な居場所、環境を好む。
だから毎日の中に刺激が無く、繰り返された毎日に愚痴をこぼすのだと僕は思っている。
明日が生きれる保証がないからこそ、常にハングリー精神を持ち、今日を全力で生きる。
そんな人たちの目は輝いている。
彼らは人生を真っ当している。
そんな彼らをみると自分はまだまだと思わされたし、生きる活力をもらえた。

彼らには彼らなりの幸せの定義があり、基準がある。
幸せは自分で決めれるし、自分で作れるものだ。
何が幸せで何が幸せじゃないかは人それぞれだが、彼らは我々日本人よりも確実に日常から感じ取る幸せの量が多いことは間違いない。
我々が特に幸せと思わないことでも彼らはそれを ”幸せ” と感じる。
だから彼らは我々より物質的に貧しくても ”幸福” でいれる。

何より大切なのはその人自身の考え方、捉え方であり ”生き様” だ。
人は人の生き様に感銘を受ける。
地位とか名誉とかも大事かもしれないが、僕はフィリピンで学校の先生含め沢山の人との交流の中からそんなことを学んだ。
もうこれだけで日本を出た甲斐があった。

これまでの文章を読む限り、日本以外のその他の国が正義みたいな言い回しだったが決してそうではない。
日本を出ることで日本を客観視できる。
日本の良いところも悪いところも日本を出ることで初めて分かる。
人間ずっと同じ環境に居たらその環境が正解であり当たり前という基準が形成される。
しかし十人十色と言う言葉があるように ”十国十色” という言葉があると思う。
色んな国がありそこには色んな世界が広がっている。
だから色んな景色を若いうちから見ておくことに損はないと思う。
「若いっていつまでが若いのか」
今が一番若い!!
今日という日が人生において一番若い日。
「お金は返ってくるが、時間は返ってこない」
この言葉から ”時間” というものが一番大切な資源であることが分かる。

元々海外にあまり興味がなかったが大学に入学し、コロナ禍になってから海外欲が湧いてきた。
しかし大学入学後の2年間はコロナによって日本を出国することは不可能だった。
欲を言えば、もっと早くから海外に行けばもっと色んな知見を得て、色んな経験ができたと思う。
たった2カ国でさえ人生観が変わったのだから。笑
そんなことはタラレバでしかないし結果論なので、海外に行けるタイミングで海外に行く決断をした自分を褒めてあげたい。
それが結果的に今後の人生においてプラスの影響を与えてくれたから。

バッジメイトとディナー
ローカルイベントで仲良くなった人たち
語学学校の先生たち

おばあちゃんの死



今は亡き、おばあちゃん。
2023年12月5日に亡くなりました。
死因は、癌です。
癌にはステージがあっておばあちゃんはもう長くないことは分かっていました。
人はいつか必ず終わりが来ます。
そのことを意識し出してから毎日の過ごし方が変わりました。
いつ居なくなってもいいような接し方を毎日しました。
・よっぽどのことがない限り、毎日会いにいく
・毎日朝起きたら連絡する。
・少ない食欲の中で食べたいものを持っていく
・足腰が強いうちに旅行に行く
・天気の良い日はおじいちゃんと3人でお出かけする

癌というものはステージがあって、ある一定のところまで行くとそう簡単には治りません。
定期検査の結果で悪化なしだった時は本当に嬉しかった。
2023年5月の春頃には「10月の誕生日までは厳しい、夏を越えれるかどうか」と言われていた。
でも病院の先生方、家族、色んな人の支えがあり、無事に10月の誕生日を迎えれました。
この時のことは一生忘れません。

そんな日々を繰り返し、体調がいよいよというところまできました。
それが11月末のことでした。
ついに歩くのもトイレに行くのも困難になり、入院することになりました。
「医者からは入院したらもう長くはない」と言われていました。
「ついに来たか」と心の中で思いました。
入院の間も面会制限の関係はありますが行ける日は必ず顔を出しに行きました。

そして12月5日の朝、6時半頃に病院から1本の電話がありました。
「あと15分程だと思われます」と。
急いで準備し、家族みんなで病院に行った。
そこにはほとんど目を開けずに頑張って呼吸をしているおばあちゃんの姿がありました。
何も考えられないまま15分が経った。
よし、まだ生きている。
でもいつ息を引き取るか分からない。
気付けば時刻は昼の12時になっていた。
そして見守り続けて気付けば夜の20時になっていた。
15分って言われていたのにプラス14時間も生きた。
おばあちゃんは昔から強い。笑
病院の先生も闘病中も「弱音を一切吐かずに頑張っていた」と仰ってくれた。
死ぬ時、患者は最後まで「声」は聞こえると言う。
みんなの気持ちがおばあちゃんんに届いていたと思う。
最後までみんなのために生きてくれたのだと思う。
最後の最後まで強いおばあちゃんだった。
寂しいが、後悔はない!!
後悔ないほど尽くしてきたし、後悔しないような行動、接し方をしてきたから。

人は「死」を意識すると毎日に行動が変わる。
僕は運良くこのことを読書などを通して強く心に刻んでいた。
体現できてよかった。
失ってからでは遅い。
誰に対しても後悔ない接し方をしようと改めて痛感した。
おばあちゃんの分まで、強く生きます。

ばあばありがとう。
ゆっくり休んで!!

終わりに

ここまでご拝読ありがとうございました。
4年間の大学生活をもちまして学生生活が終了しました。
まず初めに幼稚園から今に至るまで何不自由なく生活させてくれたこと、学校に行かせてくれたこと、とことん好きなことをさせてくれたこと(特にサッカーは本当にやってよかった)に両親含め、おじいちゃんおばあちゃんに感謝です。
海外に行ったからこそ、この幸せな環境が当たり前ではないことが痛いほどに分かります。
当たり前のように衣食住があること、争いごとの心配がなく毎日を安全に暮らせること、学校という学びの場に行き勉強ができること、自分の好きなことをやらせてもらえること(習い事や趣味等)、今私たちが当たり前に出来ていることや当たり前のようにやってきたことは誰かにとっては当たり前ではないことを頭の片隅に置いて生活すれば、必然とたわいもない日常に感謝をするようになるし、”幸せ” と感じることが多くなるはずだと思う。
人それぞれ色んな悩みを抱えている。
もちろん僕自身もそうだ。
でも、健康な体があり大切な人が側に居て今日という日を生きれることが何より大切で素晴らしいことだと思う。
ある程度の人はもうみんな必要なものを持っているはずだ。
その所有物の有り難みに気づいてほしい。
今の自分の環境を今一度見つめ直し、些細な日常に感謝できる綺麗な心と余裕を持とう。
幸せの形は自分で決めれる、作れる。

そんなことをこの4年間で学んだ。
コロナなど色んな障壁があったが、全てプラスにできた。
そしてそれが大きな価値となり、人生の財産になった。
この先も変わらず、たわいもない日常の中からたくさんの ”幸せ” を感じて生きていきたい。
今日という日を全力で生きる。
一度きりの人生を最高のものにする。
最高の1日を積み重ねる。












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