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社会学って何ですか? 第4回 『社会学史』④ ―デュルケーム

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 前回はフロイトについて、およびフロイトとマルクスの共通点と相違点についてまとめた。今回は続いて、デュルケームについて、彼がどのように社会を分析し、どういった理論を打ち立てていたのかについてみていく。

◆デュルケーム

エミール・デュルケーム(1858-1917)
キーワード:社会的自殺の三つの類型、社会的事実、方法論的集団主義、有機的連帯、分業、聖と俗
著作:
『社会分業論』(1893)
『社会学的方法の規律』(1895)
『自殺論』(1897)
『宗教生活の原初形態』(1912)
ポイント:
・デュルケーム(また同世代のヴェーバー)は、大学で実際に職を得る中で、社会学という学問体系を確立した。『社会的方法の規律』にはそのメソッドが教授されている。
・『自殺論』で、デュルケームは統計資料を用いながら、「社会的自殺の三つの類型」を示した。
自己本位的自殺はプロテスタントの個人主義が共同体の分離とセーフティネットの喪失を招くことによる自殺、
集団本位的自殺は集団の大義のための義務的な自殺、
アノミー的自殺は、アノミー=無規制状態における欲望の過度の肥大化とその反動による挫折感の増大による自殺、である。
・『社会学的方法の規律』には、「社会は物である」、即ち社会は個人に対して外在性と拘束性を兼ね備えたものである、という意のフレーズがある。「社会的事実」とは、こうした性質を持つ集合的な現象を指す。(規範や習慣など)
デュルケームのこうしたアプローチは「方法論的集団主義」、つまり社会や集団の性質から個人の性質や行為を説明する(集団➡個人)、ものだ。(⇔ヴェーバーの「方法論的個人主義」)
・『社会分業論』では、部族社会などにおける個人間の共通性・同質性を基盤とした「機械的連帯」から、近代社会における個々人の異質性・特性を基盤とした「有機的連帯」へのシフトを説明し、さらに「アノミー的分業」(恐慌などの無規制状態における混乱)や「拘束的分業」(労使間の階級闘争における混乱)のような状態を社会の解体と道徳水準の低下を招く「異常な分業」とした。
・『宗教生活の原初形態』では、宗教は聖なるものと連帯から構成され、最も原初的な宗教とは、トーテムという聖なるもののもと部族が連帯するトーテミズムだと結論づけた。

※大澤先生は、マルクスとデュルケームを比較し、階級闘争という現象に対する両者のアプローチの違いから、マルクスは階級闘争こそ資本主義社会の本質であり連帯など存在しないとした一方、デュルケームは分業こそ資本主義社会の本質であり、連帯が社会を成り立たせていると考えていたのでは、と考察した。

◆デュルケームの「道徳」

 デュルケームの位置づけに関しては、ジンメルとヴェーバーについてまとめてからの方が理解しやすいと思うので、次回以降に回して、ここではデュルケームの章を読んでいて浮かんだいくつかの疑問点についてまとめておく。
 デュルケームは、社会的事実を個人の外部に存在し、個人を拘束するものだとしている。が、一方で、連帯が社会の本質である、ともする。当然、連帯とは個人の外部に存在するというよりは、あらゆる個人がそれに対してコミットすることで形成されるものだ。仮に分業のような連帯が社会的事実だとすれば、個人と連帯との間に何らかの相互作用が生まれる。
 この章で、初めて「道徳」というワードが登場したが、これは、この相互作用によって生まれるものともいえそうだ。とすれば、道徳の解体という現象もまた、集団レベルでの規範の不在→個人のレベルでの欲望の増幅→集団レベルでの道徳の解体…といった図式で進行していくものなのかもしれない。
 一方で、道徳、というのは個人の外部にあるものをあくまで内面化したものにすぎないという議論も可能だ。以前アダム・スミスの『道徳感情論』を読んだことがあるが、そこでは「公平な観察者」からのまなざしの存在が市場原理のもとでの個人の間での規範を形成するというロジックであった。(ミスリードだったらすいません、、) この「公平な観察者」に対して、個人の行動からの矢印がどのように作用するのかは、ミクロとマクロの往復運動で、やや想像しにくい。ただ、公平な観察者も結局は関係性(あるいはその一形態である連帯。ただ、連帯と関係性が必ずしも一致しないような印象もある。)によって生まれるものにすぎないとすれば、マルクスやデュルケームの議論と通じるところはありそうだ。
 今後、解決していきたい課題。次回は、ジンメルとヴェーバーを扱う。

参考文献:
大澤真幸 (2019) 『社会学史』 講談社


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