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社会学って何ですか? 第3回 『社会学史』③ ―フロイト

◆社会学の絶頂期の思想家の系譜

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 前回は、社会学の誕生&黎明期の思想家たち、特にマルクスを中心に扱った。今回からは、Ⅱ章へと進み、19世紀から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に社会学史上重要な理論が誕生した時代について、4人の思想家、フロイト・デュルケーム・ジンメル・ヴェーバー、を『社会学史』で紹介された順に見ていき、理解していく。
 初回は、フロイトを、この本を手掛かりに初学者なりに読み解いていこうと思う。

◆フロイト

ジークムント・フロイト(1856-1939)
キーワード:エディプス・コンプレックス、去勢コンプレックス、自我・エス・超自我、死の欲動
著作:
『トーテムとタブー』(1913)
『自我とエス』(1923)
『モーセという男と一神教』
ポイント:
・フロイトは、精神分析から、マルクスの説いた無意識、現実に存在していても人間はそれが何かを認識していないもの、について取り出した。
・「エディプス・コンプレックス」とは、ソフォクレスの『オイディプス王』からフロイトが着想し、男性(男子)は人生のある時期に母への性的な欲望とその障壁となる父親への敵対心を抱く、という概念だ。
・「去勢コンプレックス」とは、男性(男児)が、男根の無い女性(女児)と同じく、自らも父親に去勢されてしまうのでは、と、父親に対して慄くと同時に畏敬の念を抱き、内面化する、という概念で、エディプス・コンプレックスと連続した関係にある。

※『社会学史』において、ラカンなどの議論から大澤先生は独自の解釈を示した。AIなどの領域で挙がっている「記号接地問題」(記号と意味の対応関係を提示する際の課題)をソシュールの構造、シニフィアン(記号)とシニフィエ(意味)を通して論じ、シニフィエなきシニフィアン(固有名)が機能することで記号設置問題は解決する、とした。そして、シニフィエなきシニフィアンとは、去勢コンプレックスにおける男根の不在とつながる。つまり、去勢コンプレックスとは、「象徴秩序が機能するための論理的条件」(大澤 2019, 205頁)を示したものだ。

・『トーテムとタブー』は、未開社会に存在したトーテミズムへのフロイトの解釈であり、そこではトーテム動物を食べることを禁止すること、同じトーテム動物を共有する女性を愛さないこと、の二つが規範とされていた。
・『自我とエス』では、「現実原則」(現実に許可されるか否か)に支配される「自我」が、「快感原則」に支配される外部の「エス」から誘惑されるが、「超自我」が「自我」への「エス」の乗っ取りを禁じる、とした。
・「死の欲望」は、第一次大戦においてトラウマを負った人々を分析した結果、彼らが快感原則を超えて死に接近した経験をフラッシュバックしていたことへのアイデアだ。大澤先生はこれを、『モーセという男と一神教』での、モーセはエジプト人であり(1度目の死)、ユダヤ人に殺される(2度目の死)というストーリーを例に挙げて、フロイトの理論の大きな転回だと論じた。

◆フロイトとマルクスを対比してみての疑問

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 まず、私自身がこの章の論理展開をきちんと理解できていない可能性があるので、ここでは、私なりにまだ解決できない疑問について、答えは出さない形で残しておこうと思う。
 大澤先生は、フロイトはマルクスと同じく、無意識、が形成する秩序について探究した思想家だと仰っていた。そこで私は、マルクスとフロイトを対比しながら、フロイトについて解釈してみようと考えた。
 フロイトに関していえば、エディプス・コンプレックス去勢コンプレックスにおいては、不在、がその効力の中心にある。去勢コンプレックスにおける男根の不在、また『トーテムとタブー』において父親の不在、がそれを示す。ここでの不在が、男性(あるいは人間)に対して、恐れや罪悪感といったネガティブな形で、権威を創り出す。そしてそれは、トーテム動物といったシンボルや、権威に従った人間自身の行動によって現実になる。
 では、マルクスにおいて、不在、だったものは何かといえば、前回まとめた通り、絶対的な権威とされていたもの、つまり神や王、の実体だ。マルクスは貨幣を例に挙げて、そうした絶対的な権威は、それが不在であると意識のレベルでは理解している人間が、無意識のうちに行動、具体的には商品(使用価値)と貨幣(一般的等価価値)の交換によって創出し、貨幣に対して付与したものにすぎない。両者ともに構造は類似している。さらに、不在、という点では、無意識、というのもまたその一例だ。
 一方で、違いもある。マルクスは、貨幣が形式という利点、剰余価値を持ったものとしてポジティブに活用された結果、守銭奴が資本家へと進化した、とする。一方でフロイトは、そもそも未開社会の段階から人間はネガティブな感情としての権威に従い続けてきたとする。前者はポジティブな形での時間軸での変化を追っているのに対し、フロイトはマルクスよりも一回り後の時代の学者ではあるものの、時間軸的には不変の、ネガティブな権威に半ば抑圧され続けてきた人間の姿を示そうとしている。自我、エス、超自我の議論に関しても、構図としてはかなり抽象的で普遍的だ。
 一方で、フロイトは、死の欲動への言及において、普遍的な構図だけでは解釈しきれない現象について新たな発想から捉える必要に迫られていた、ともいえる。第一次世界大戦という未曽有のクライシスにおいて、人々の秩序に何らかの異質な変数が影響し始めた、のだろうか。
 この共通点、相違点それぞれの解釈は、浅い。まだクリアではない。『社会学史』ではまだまだ解決できない部分もある。フロイトの発想に至る経緯などを知らなければ、マルクスとの対比もまた実質が不在な議論に終わるってしまいそうだ。やはり、今後の検討課題として、今回は締めくくろうと思う。
 次回はデュルケームについて扱う。ムズカシイ。

参考文献:
大澤真幸 (2019) 『社会学史』 講談社



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