社会学って何ですか? 第7回 『社会学史』⑦ ―ヴェーバー(後半)

スライド11

 今回は、前回に引き続きマックス・ヴェーバー、そして最重要著作である『プロ倫』を中心に扱い、デュルケームやジンメルと比較しながら考察していきたい。

◆ヴェーバー(第6回も参照)

ポイント(続き):
・ヴェーバーは、理念型の一つとして、「社会的行為の四類型」も提唱した。四類型とは、
感情的行為」(カリスマ的支配と通じる)
伝統的行為」(伝統的支配と通じる)
目的合理的行為」(伝統的行為の否定)
価値合理的行為」(感情的行為の否定)
である。
・『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(以下プロ倫)』においては、ヴェーバーはヤーコブ・フッガー(プロテスタンティズム以前)とベンジャミン・フランクリンを比較して、資本主義の精神においては利潤追求が宗教的な意味を持つ、とした。

スライド12

※大澤先生は、予定説においてなぜプロテスタントが世俗内禁欲という非合理的な選択肢を撮るのかを、ウィリアム・ニューカム(実在せず?)のパラドックス、を用いて、上記の図のように説明している。

・予定説において、プロテスタントは神の予想を想定し、それに従って行動する。これは、マルクスにおける貨幣に関する議論にもつながる。予定説は脱呪術化の最終形態だが、この想定自体は非合理なものだ。この非合理な決断が、価値合理性につながり、その決断へのコミットメントが目的合理性である。
・『職業としての政治』において、ヴェーバーは政治家に対し、ただ努力することを評価する(「心情倫理」)のではなく、結果に対して責任を持つ(「責任倫理」)ことを説いた。価値自由にとどまらない判断を、ヴェーバーは要求していた。

◆デュルケーム・ジンメル・ヴェーバー

 では、最後にここまで数回で取り上げた3人についてまとめていこうと思う。
 まず、彼らの生まれた時代は、第一次大戦に向かって、ヨーロッパが繁栄を謳歌していた頃だ。啓蒙主義と市民革命の結果生まれた近代の社会が深化・成熟した時期を、彼らは現象として観察していた。
 その上で、宗教をその源流とする合理化によって、人々はカリスマ的な支配者や伝統といったくびきから解放され、法のもとで合理的に行動した。
 近代社会では、人々のつながりの規模は拡大し、その量も増大するが、カリスマや伝統といった旧来の共同体的な価値観の存在しない分、一つ一つのつながり、関係性はフレキシブルなものとなるから、分離と結合を繰り返す。ここで、人々の相互行為は両義的なものとなるが、例えば法、あるいはマナーや礼節のような形式をとる行為を通して、人々は調和を保って、目的に適う結果を生む。それは例えば、貨幣という形式を通しての、個々の特性を生かした分業による経済活動だ。
 だが、この目的自体は、一見合理的なものに見えて、実は根源的には非合理であり、恣意的だ。それは世俗内禁欲が資本主義の精神の形成へと連関していく様子からも読み取れる。だが、近代社会の産物、特に西洋社会の産物(新聞、建築、音楽など含めて)は、結果的に、合理的になっている。それは、結局は個人あるいは集団の意図の範疇を超越したものであり、それを分析する学問としての社会学がこの時期に発達したのもまた、意図しない必然だったのだろうか。
 以前、フロイトとマルクスの比較の際に、不在、がキーワードだとまとめたが、これは最終的には、社会におけるあらゆる行為の目的そのものの根源的な不在、とも通じるのではないか。合理的な思考を突き詰めれば、目的が不在だから、それを埋め合わせるために、(まだ価値合理性をきちんと理解しきれていないのだが、、)人々は価値合理性のもとで目的を創出し、それにコミットメントして生きてきた。その結果が、近代社会に意図せぬ副産物的に新たな目的を生み出しているようにもみえるが、その当時もそれ以前も変わらぬ人間の本質とは、個人の目的よりも社会的行為、連帯や関係性にあった、といえるのかもしれない。さらに言えば、マルクスは、その根源的な不在は今も変わらないよ、というために貨幣という形式を取り出したのだろう。
 
 次回からは、社会学がアメリカを中心に回り始めた時代を紹介していく。

参考文献:
大澤真幸 (2019) 『社会学史』 講談社


この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?