社会学って何ですか? 第5回 『社会学史』⑤ ―ジンメル

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 前回はデュルケームの方法論的集団主義を取り巻くキーワードについて順に見ていった。今回は、画像の2人目、ジンメルについて扱い、明日のヴェーバーへと繋げていければと思う。

◆ジンメル

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ポイント
・『社会分化論』で、ジンメルは通時的・共時的な個人の役割の分化の原因を、利害や目標を共有する人間のグループ、「社会圏」の拡大としての都市的経験に見た。ジンメルは、この拡大により、人同士の紐帯は増加するが細くなり、責任は自立した個人に帰せられるようになる、とした。「社会分業論」のデュルケームと対照に、ジンメルは分離の局面に着目している。
・ジンメルは、「相互行為」とは、内容、つまり何らかの目的をもって行われ、かつ目的を果たすために様々な形式がとられるもの、とした。そして、社会は個人の目的の集積には解消できない、内容から独立した形式をもつとする。(「形式社会学」)さらに、人々が相互行為を通じて関係、さらにその集積としての社会を形成するプロセスを「社会化」とした。
・ジンメルは、全ての相互行為は結合と分離の側面(時には両者が相乗効果すら及ぼし合う)を兼備し、両者を目的に適うように調整し、機能させるのが形式である、と論じた。
・ジンメルは、社会は「三人結合」に始まると見出した。「二人結合」(わたしとあなた)に対して分離と結合の境界線上にいる第三者が、関数として二者の関係性を定義、承認して初めて社会(わたしたち)が形成される。

※大澤先生は、この第三者は形式にも通じる、とした。

・『貨幣の哲学』においては、分離と結合の中間、適度な「距離」にある欲望との対象との間に交換の関係を生じさせ、さらに前近代的な人格的支配から近代的な物証的支配へと、人々を意識のレベルで自由にする、とした。
・ジンメルは、18世紀の自由を「量的個人主義」、19世紀の自由を「質的個人主義」と呼び、社会主義のような自由ではないが平等は保証された状態と、特徴ある唯一者にのみ自由は認められるが皆が平等というわけではない状態とを対比した。

◆ジンメルの「分離」へのシンパシー

 今回は、ジンメルが提唱した「分離」のとらえ方に関しての私なりの考察を述べていこうと思う。
 ジンメルは、ベルリンに長く在住してきた経験からして、当時から都市的感性を持った社会学者だと指摘されていたという。彼は都市における社会圏の拡大は、人々の間の絆を増やすが、切れやすく脆いものとする。一見、否定的スタンスにも読める。
 だが、私は彼の分離と結合をセットに考える、というある種の発想の転換が好きだ。分離するからこそ、かえって結合が見えやすくなることもある。『社会学史』の中でもいくつかの例が紹介されていたが、扉が内と外を分離すると同時に内と外の空間的な結合の可能性を暗示する、といった発想で、都市のうちにある人々もまた、簡単に分離もするが、結合の可能性も常に持つ。そしてそれは、社会的な縛りから解き放たれた、一種の解放であるとする。非常にポジティブだ。昨日まとめたデュルケームもセットで、結局、人々は連帯し、つながっていくという未来が想像できていた、ということか。
 緊急事態宣言下での生活、分離を強いられる今日、そして私たちの社会圏はもはや区分が出来ないほどオンライン上でグローバルに拡大した現代において、私たちはどのようにしてこの分離と結合、および両者の性質を持つ相互行為を捉えていくべきなのか、ジンメルの思想は続いている。
 なお、『社会学史』の中では、マルクスは、貨幣は依然として人々を神や君主に代わって人々を無意識に支配している、と警鐘を鳴らしていた、とされる。合わせて紹介しておこう。

 明日は、ヴェーバーへ進む。

参考文献:
大澤真幸 (2019) 『社会学史』 講談社



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