きしゃこく先生に記事紹介【#しゃかせん】して頂きました!ありがとうございます!
自分の記事を書き、それからフォローしている方々の記事をいくつか読むのが精一杯で、まだ、他の方々の記事紹介をできるに至っていないのですが、私の記事を「きしゃこく先生」に記事を紹介して頂きました。
単純にご紹介頂いたので嬉しかったです。感謝申し上げます。
↓↓↓↓ こちらがその記事 ↓↓↓↓
きしゃこく先生の記事紹介にはこのような事が書かれています。
「『学校の先生』になってくれたら」とのくだりから、考えることがありました。
今回は自分の振り返りを共有いたします。
「先生」と呼ばれること
私は公立高校教師の両親の元に長男として生まれました。両親は二人とも高校の英語の教師でした。
その後、二人は大学へと職場を変えて大学教授になりましたが、定年退職するまで英語の先生でした。
両親は勉強好きです。二人とも大学院に行って学びました。
ふり返って見れば、私も米国に留学し、大学院で修士号を取得するまで学びましたので、教師の子として「勉強好き」として見られるのだろうなと思います。
しかし、実際は全く勉強しない子でした。躾けの厳しい家に育っていたのにも関わらず、親に叱られるような事ばかりでした。
私が日常的に校長室に呼び出されているのを見た父のかつての同僚教師から「『トンビがタカを生む』とは聞くけれど『タカ(父)がトンビ(私)を生む』こともあるんだなぁ〜髙澤先生(父)も大変だなぁ」と嘆かれたこともあります。
そんなことでしたから、「先生」や「学校という仕組み」に良いイメージをもたないまま大人になりました。
「学校」そのものは、友だちと会えるので楽しい場所でしたが、色々な決まり事が一方的に決められていて、自由にならないことが気に食わなかったのです。
大人になって「学校」に対するイメージや学びの大切さを知るようになって、イメージは変わりましたが、「先生」に対する偏見が残ったように思います。
なぜ、先生が学習内容、学習方法、そして学習評価基準も合わせて、生徒に意見も聞かず、勝手に決めているのか、と随分生意気なことを考えていました。
ところが人に研修や講座、セミナー、ワークショップなどで教えると「髙澤先生」と呼ばれるようになります。
最初は、「髙澤先生」で私の両親のことで、私は違います!というような反応を心の中に持っていました。
人に何かを教えたり、上司になることで、自分の高慢さが見えてきたり、教えることの意味や困難さに直面したりしながら、偏見は徐々になくなってきたように思います。
「きしゃこく先生」に「先生になってほしい」に最初で最後かもしれないのですが、記事を紹介して頂いた時に、素直にうれしいと思うことができました。
ここに至ることができたのは、やはり難病を通らされたからなのかな、と思っています。
↓↓↓↓ 難病についてはこちら ↓↓↓↓
書くことより話すことの方が楽
そして、書くことについてですが、楽しく書くところまでは言っていません。話すことの方は大好きです。
書いたものを先に読まれた方が私の話を聞いて、「話す方がずっといいですね。動画向きですよ。」と全員おっしゃるのです。
noteで出会った方とは、まだリアルでお目にかかったことがないので、noteについては分かりません。
でも、自分自身の言いたいことをどれくらい文章に表現できているのだろうかと考えると、5割くらいにはなったのかなと思っています。
言いたいことをうまくかけないというフラストレーションを抱えながら、文字でないとメッセージが届かない方々がいらっしゃいますから、書き続けようと思っています。
「noteではじめる新しいアウトプットの教室 楽しく続けるクリエイター生活 改訂版」では、「時間を決めて書くこと」として、2,000字/30分が目安になっています。
私は2,000字書くのに1時間未満だったことが一度もありません。
タイプが著しく遅いのではないと思うのですが、スラスラとしゃべる時のように言葉が出てこないのです。
話す時は、出て来る出て来る。自分でも良くでてくるなぁと思うことがあるほど出てきます。
また、そのスピードが速くて、場合によっては自分の話している言葉を聴いて次の言葉が頭に出て来ることさえあるほど、口が先に動きます。
そんなこともあって、自分の書いた文章を読んでくださる方々がいらっしゃって、それを「スキ」してくださったり、「コメント」してくださったり、今回のように「紹介」して下さることは、感謝です。
言わんとしていることが伝わったのかなぁと正直嬉しいです。
ありがどうございます。
今後ともよろしくお願いします。
最後までお付き合い下さりありがとうございます。
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