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ヨコハマ・ラプソディ 17

十七.ビルの角 

志織と最後に逢った日から二週間過ぎても、三週間が経っても、彼女からの電話はかかってこなかった。
俺は、結局志織は門限に間に合わなくて、親から叱責され、俺への電話を禁止されているのだと思っていた。それまでは必ず、門限に間に合うように気を付けていた。ギリギリになりそうなのは、最後に逢った日が初めてだった。
さすがに心配になって、俺から志織の家に電話をかけようかと何度も思った。
でも万一志織の親が、特に門限に厳しい父親が電話に出た場合、俺の電話が余計に父親の反感を買うことになって、俺たちの交際の妨げになるのでは、と恐れた俺は結局電話をしなかった。仮に母親が最初に電話に出たとしても、俺から電話があったことはすぐに父親に伝わるだろう。

志織と別れてから四週間が経った頃、ついに俺は彼女の家に初めて電話をかけた。
ひょっとして志織の身になにかあったんじゃないかと、俺も、もうさすがに居ても立っても居られなくなったのだ。
しかし、受話器から聞こえてきたのは、「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」という、無機質な声。何度かけ直しても同じだった。
そんな……。この電話番号が間違っているのか。いや、そんなはずはない。一応この手帳に書いた電話番号を見せて、志織に確認してもらったから、間違っているはずはない。
でも、志織が手帳を見た時は、ちらっと見ただけのような気もするし。もしかして、万が一ということはあり得るか。

俺は次の日、志織の家がある横浜の三ツ沢へ向かった。
夏の蒸し暑かった日の記憶を頼りに坂を登っていくと、右手に見覚えのあるタイル張りの家が見えてきた。確かここだ。道の先に公衆電話のボックスも見える。家の門に「長澤」の表札がある。やはりこの家で間違いない。
俺は軽く額ににじんだ汗をハンカチで拭きながら、何度か門の呼び鈴を押したが応答はなかった。
留守か。仕方がない。しばらく時間を置いて、もう一度夕方頃にでも出直すしかない。
しかし、夕方までどこでどう過ごすか。
そういえば確か近くに大きな公園があったな、そちらへ行ってみるか。
とは思ったが、とりあえず念のため、もう一度呼び鈴を押そうとした時、突然後ろから女性に声をかけられた。
「その家、今、誰もいませんよ」

俺に声をかけた、五十才ぐらいで頭にパーマをかけた女性は、「ああ私、隣に住んでいる岸田です」と名乗った。
志織と両親は隣の人に言付けて、旅行かもしくは、また親戚の家にでも行っているのかと思いながら、俺は女性に「長澤さんは今、お留守なんでしょうか」と尋ねた。
岸田さんはこともなげに、「長澤さん、夜逃げしちゃったみたいですよ」と答えた。

夜逃げ?
そんな……、馬鹿な。
俺の足元の地面が、ぐにゃりと傾いた気がした。

「あれは一か月くらい前だったかしらね。ある日の晩、お隣、やけにうるさくってね、なにかあったのかと思って翌朝訪ねてみたの。そしたら長澤さんち、鍵もかかってなくてね、もぬけの殻になっていたの。まあ、ガラクタみたいのはいっぱい置いてあったけどさあ。長澤さん、なんだか仕事が上手くいっていなくて、大変みたいだったからねえ。志織ちゃんって可愛い女の子がいたんだけど、可哀そうにねえ。高校卒業までもう少しだったのにねえ」

志織が根岸の公園で、お父さんの仕事はなんとかなりそうだと言っていた話。あれは嘘だったのか? まさか志織に限って。隠し事を人一倍嫌っていた志織が。なんで?

俺は混乱した頭の中を、まったく整理できなかった。
生ぬるい南風が、俺をあざ笑うかのように俺の両脇をすり抜けていく。

「よっぽど慌てていたのかもしれないけど、表札もそのままだから、よく人が訪ねてくるけど。中には人相の悪い人もいてねえ。あんたはそういう風に見えないけど。あんた学生さん?」
「はい。以前長澤さんにお世話になったことがあって。そうでしたか。ご親切にどうもありがとうございました」と言って、俺は岸田さんに頭を下げた。

そのあと志織の家の前から少し歩き、岸田さんの姿が見えなくなったところで、足音を立てないよう静かに志織の家に戻り、俺はそっと敷地の中に足を踏み入れた。
岸田さんが嘘を言っているとは思わなかったが、あの人は鍵が開いていたとも言っていたし、俺は志織の家の中をどうしても自分の目で見て、確かめずにはいられなかったのだ。
しかし、俺の小さな望みが叶えられることはなかった。
玄関近くに生えていた木に遮られ、門からは見えなかった玄関の取っ手は、何重にも針金でぐるぐる巻きにされ、すぐ横の郵便受けには茶色いガムテープが張られていた。
「夜逃げ」という言葉を実感するには、もうそれだけで十分だった。
俺はまた音を立てないよう道路に戻り、最後にもう一度だけ志織の家を見て、静かに無人の家をあとにした。

気が付けば、俺は喫茶店Moonのドアの前にいた。扉を開き何度も店内を見回したが、当然の如く、志織の姿はない。
俺は二人がよく好んで座った窓側の席に座り、いつものようにホットコーヒーを頼んだが、結局十分も経たずにコーヒーを残したまま、Moonを出た。
そのあと英文堂書店に入り、二階の文庫本売り場に行った。
すぐに海外文学の新潮文庫の本棚まで行ったが、あの時、志織が見つけてくれたソルジェニーツィンの『収容所群島』は、一冊たりとも、どこにも見当たらなかった。
まるで、志織の存在そのものが、幻であったかのように。
だが志織は幻などではなく、れっきとした、現実に存在した、一人の女性だ。
俺が抱きしめた時の志織のぬくもり、志織の唇の感触は、今も俺の肌に、唇に、強く深く刻み込まれている。

また気が付くと、俺は初めて志織と出逢った、志織とぶつかった、あのビルの角にいた。それからしばらく、同じところに立っていた。
そこは志織とぶつかった時とまったく変わらない、なんてことのない、都会の一角。
このビルの角にいれば、初めて逢った時みたいに、制服姿の志織がひょっこり現れるのではないか。どうしても、そんな気がしてならなかった。
疲れた俺は、そのビルのコンクリートの出っ張りに腰を下ろした。
時折、制服を着た女子高生がすぐ近くを通る。その度に、志織じゃないかと顔を見るが、当たり前だが全部違った。
いつしか辺りは暗くなり、夜になったが、俺はまだビルの角にいた。

俺はふと、思った。
あの日。一か月ぶりに逢った志織が、急に大胆な行動をするようになった、夏の蒸し暑かった日。実はあの時からいずれ今日のような日が来ることを、志織は密かに気付いていたのではないだろうか。
あれだけ勘が鋭く、洞察力に優れた志織のことだ。親御さんが言っていた言葉の裏で物事が今後どういう状況に進んでいくのかを、志織にはすでに予測ができていたのではないのか。いずれ俺たちは二度と逢えなくなることが、恐らく志織には薄々わかっていたのでは……。
あるいはひょっとしたら今回のような、夜逃げになるような事態は、実はもっと早くに訪れそうになっていたのかもしれない。
でもいつか志織が言っていたように、お父さんの仕事について一旦は目途が付きそうになった。けれど、結局ダメだった。
きっと志織は、今のうちに、俺たちが逢えるうちに、俺との関係を深めておきたかった……。
だとすれば、露出の多い服を着ることまでしたあの日の、彼女が取った言動にも納得がいく。
志織……。お前。

ひょっとして、「声」が教えた?
そうかもしれない。十分あり得る話だ。
でも俺には知り得ない話だし、もし「声」によって、お父さんの仕事について、志織が本当のことを知ったとしても、今ではなんの意味もない。

もうひとつ思い出した。最後に逢った日の、横浜駅の改札で見た、別れ間際の志織の寂しそうな顔。
山下公園でも、門限が近づいていても、志織は頑なに帰ろうとはしなかった。
あの時、すでに俺たちがじきに逢えなくなることが志織にはわかっていた。たぶん、間違いない。

なぜ黙っていた。なぜ、俺に話してくれなかった。
もし、話してくれていたら俺はもっといっぱい、いっぱい……。

だが仮に、志織と両親が家を捨てて逃げ出すことを、俺が事前に知ったところで、どうする?
俺になにができる?
できることなんてなにもない。俺は無力だ。
無力でちっぽけな男だ。
無力でちっぽけで、どうしようもないゴミクズ野郎だ。

やがてそろそろ、終電という時刻になった。
明日の寮の受付。その朝一番の担当は俺だ。
国立寮自治会の委員長である俺が、率先して寮の受付当番をすっぽかす訳にはいかない。

俺はやっと重い腰を上げ、あとは一度も後ろを振り返らずに、黙って薄暗いビルの角をあとにした。


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