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ヨコハマ・ラプソディ 16 絆創膏

十六.絆創膏 

一か月半ぶりに志織と逢った日は、朝から冷たい秋雨がしとしと降っていた。
いつものようにMoonで久しぶりに逢った志織は、やけに明るかった。
「機嫌よさそうじゃん。なにかいいこと、あった?」
「このあいだの全国模試がね、結構いい成績だったの」
「ほう、さすが志織。よかったね」
「へへへ」
「でも志織。少し痩せたように見えるけど、ちゃんとご飯食べてんの?」
「ほんと? ちゃんと食べてるよ」
それでも、彼女の笑顔にどことなくぎこちなさを感じた俺に、微かな不安が残った。
志織のことだ。きっと食欲を失くすほどのプレッシャーに耐え、無理して勉強をしているに違いない。でも、今の時期はある程度仕方がないことでもある。
俺は志織と逢うこの日を、ずっと心待ちにしてきた。
そのくせ、今度志織に逢ったらあれも話そう、これも聞いてみようと思っていたことは、あまり口に出せなかった。
やはり俺はいつもの通り、ほぼ聞き役になっていた。ただ単に志織の顔を見て、彼女の息使いを感じる。それだけで俺はほとんど満足していた。

俺は最近、以前と打って変わって、真面目に大学の授業に出るようになっていた。フランス語の勉強にも、熱心に取り組んでいる。もちろんなんとしても四年生に進級するためだ。すんなりと四年生になれれば、来年は就職活動をすることになる。さらに再来年には就職し、俺も晴れて社会人となる。
順調に就職できれば、志織が大学を卒業するのは俺が就職した三年後だ。三年もの期間があれば、結婚資金もある程度できているのでは、と。
いや、そんな短期間では難しいか。
そう、俺はこのところ、志織との結婚ということを意識し始めていた。もし俺が結婚するとしたら、相手は志織以外考えられない。
きっかけは先頃、寮の先輩で俺より二コ上だった黒木さんが、今度結婚するという話を聞いたからだった。あの、いつも髪の毛ボサボサで、しかもダサイ服ばかり着ていた、女っ気なんてこれっぽっちもなかった黒木さんが結婚なんて。
なんでも今年ちゃんとした会社に就職したばかりの黒木さんが、同じ職場で知り合った女性と、今から二か月後に結婚式を挙げるらしい。俺たち黒木さんと親しかった寮生は、これは絶対「できちゃった結婚」だと噂し、笑い合っていた。
もちろん俺も結婚するには就職していることが絶対条件であり、そのためには必ず来年四年生に進級しなければならない。だから留年は絶対に避けなければならない。
そう思うとあれだけ苦手だったフランス語も、真面目に勉強しようと思えるのだった。ほどなく複雑な過去形の文法も、少しずつ理解できてきた。俺だってやればできるのだ。

俺たちはMoonを出たあと、久しぶりに福景飯店で昼食を取った。「あの日の夜」、ディナーを取った時以来だ。
そこで志織が俺の好きな海老チャーハンを注文した。
「あれ? 珍しいね」
「たまには、いいでしょ? いつも信也さんの美味しそうな食べっぷりを見てたから、私も久しぶりに食べたくなって」
それでも俺は、やはり海老チャーハンを頼んだ。俺はある意味、これを食べるために福景飯店に来ているようなものだ。
この日はエビチリではなく、エビと卵の塩炒めを注文した。前から気になっていた料理で、少し気分を変えてみたかったのだ。
「なんだかテーブルの上が海老尽くしね」と志織が笑う。俺はいっそ、エビチリも頼んでやろうかと思った。
出て来たエビと卵の塩炒めは、塩加減が絶妙で抜群に旨かった。やはり福景飯店はいい店だな、とつくづく思う。今まで注文した料理でハズレはひとつもなかったし。

俺は志織に、このあと訪れる予定の三溪園について尋ねてみた。なんでも、志織お勧めの場所らしい。
「で、その三溪園ってどんなところ?」
「あのね、広い日本庭園で、静かでいいところなの。四季折々の植物も楽しめるし。梅とか桜の季節とかもいいけど、私は今の季節の三溪園が、観光客も少なめで静かで一番好きなの。雨でもね、逆にしっとりとした雰囲気があって、とってもいいとこよ」
「へー。なんか良さそうなとこだね」
「前から一度、信也さんと一緒に行ってみたかったの。とっても風情がある、私の大好きなところだから。信也さんにも気に入ってもらえると嬉しいんだけどね」
志織は俺の目を見ながら小さく微笑んだ。

今度、俺たちがいつ逢えるかは、まだよくわからなかったから、今日は目いっぱい二人の時間を楽しもうと、俺たちは志織の門限ギリギリの時間まで予定を立てている。
三溪園でゆっくりしたあとは伊勢佐木町で買い物をし、志織が行きたいと言っていた山下町にあるイタリアンレストランで早めの夕食を取ってから山下公園へ行き、少しの間だけでも志織と二人で夜景を見ようと計画を立てた。
俺は最初、レストランでの夕食は最後にしようと考えていたが、山下公園で夜景を見たいという志織の希望でスケジュールを変えた。山下公園を午後七時までに出れば、志織の門限には十分間に合うはずだ。
夜景か……。まあ、アルコールさえ取らなければ、夜の港の見える丘公園のようなことにはならないだろう、と考える一方で。
展望台での続きがしたい、という願望が俺の脳内にあったことは否定できない。
実際あの時キスして、いやそれより、志織の言葉に甘えて彼女の家に上がり込んでいればと、何度、悔やしさに唇を噛んできたことだろう。
その度に、あれはあれでよかったのだと、幾度繰り返し、自分を納得させてきたことか。
だが、まあ良い。すべては志織が高校を卒業してからの話……、と志織の胸を見つめていた自分に気付いた時、俺ってやっぱりクズだなと思った。
今のこの、志織が大事な時に。

久々に福景飯店の旨い中華料理を堪能したあと、俺たちは三溪園へ行くためのバス停に向かって歩いた。店を出た時にはすでに雨は止み、遠く西の空には少し青空ものぞいている。
三溪園行きのバス停に続く、雨上がりの狭い歩道を、二人で軽い冗談を言って笑いながら歩いていた時。三十代前半らしいちょっと暗い目をした、上下とも黒っぽい服を着た男が前から歩いてきた。やや小柄で痩せた血色の悪い男だ。
なんだかヤな感じの野郎だな、と思いながら俺が志織の手を取って引き寄せ、歩道ですれ違った瞬間、それでも男と志織の肩がぶつかってしまった。
「キャッ!」
志織が小さな悲鳴を上げた。男は謝るそぶりも見せず、黙って通り過ぎようとする。
(あの野郎)
俺が男に声をかけようと、口を開きかけた時、志織が俺の腕にしがみついてきた。よく見ると、明らかに様子がおかしい。目を見開いたまま、どこか一点を見つめている。
「どうした? 志織」
俺の腕を掴んだまま、志織が小さな声でささやいた。
「あの男の人……、女の子を監禁してる」
「なに!」
「『声』が聞こえたの。『あの男、小さな女の子を監禁している』って」
俺は男の方を振り向き、黒服野郎の跡をつけることにした。
「危ないよ。やめたほうがいいよ」
「志織。お前はここにいろ」と俺はできるだけ小さな声で言った。
けれど、志織は決して俺から離れようとしなかった。彼女の目はきょろきょろして落ち着きがなく、太い眉毛も下がって明らかに困っている様子。俺にさっきの「声」の話をしたことを後悔しているが、黙っている訳にもいかなかったということか。
だが、仕方がない。レストランの予約時刻を考えると、志織がずっと前から楽しみにしていた、三溪園へ行く時間は恐らくなくなってしまった。
でも俺は、男をそのまま見逃すことはできなかった。三溪園へは、また行く機会はいくらでもある。

男はすぐに中村川を越え、地蔵坂を登り、その先の大通りに入ってすぐの、三階建てマンションの玄関の中に入って行った。ここまで後ろを気にする様子はまったくない。
そこは管理人がいる訳でもなく、入るのに暗証番号が必要なマンションでもない、誰でも立ち入れるマンションだった。俺たちは足音をたてないようそっと男の跡をつけ、階段最上部の壁に隠れながら、男が入っていった部屋を確認した。三〇二号室だ。

「志織。お前は下にいろ」
俺は小さな声で言った。
「でも」
「いいからそうしろ」
だが志織は動かない。
「頼む。下にいてくれ。そうしてくれたほうが俺は助かる」
「でも」
「大丈夫。こう見えても俺は剣道初段だ」と言って、手に持ったビニール傘をちょっと振ってみせた。
「頼む。それと俺のバッグ、しばらくの間持っててくれ」
志織は俺の目をじっと見つめていたが、ようやく「うん」と言って、俺のバッグを預かって、階段を下りて行ってくれた。

さあ、なんて言ってあの男に玄関を開けさせよう。玄関の表札を見ると「柴田」と書いてある。卑怯な手だが、今回は致し方ない。
しかし、こんなやわなビニール傘一本で、いったいなにができるのか。
だが、今はやるしかない。
俺は腹をくくった。

「ピンポーン」
「     」
「ピンポーン」
「     」
「ピンポーン」
「はい」
やっと返事がした。やはり若い男の声だ。
「郵便局です。柴田さん宛に書留が届いてます。印鑑をお願いします」
「ああ、はい」

しばらく待ったが、印鑑を探すのに手間取っているのか、その後なんの音沙汰もない。
くそっ! なにをやっている。早く来い!
苛立ちがつのるとともに不安が頭をもたげてくる。
まさか、尾行がバレてた? そんなヘマはしていないはず。あいつは一度も後ろを振り向かなかった。それとも郵便局員を装ったのがまずかったのか。俺、変なこと言ってないよな?
ええい、グズグズすんな! とっととドアを開けろ!

ようやく玄関に近づく足音が聞こえてきた。すぐにチェーンを外す音がし、「カチャリ」とロックを解く音が聞こえた直後、ドアが開いた。
次の瞬間、俺が右手でドアのノブを持ちながら扉を大きく引くと、目の前にいた黒服の男は、明らかにポカンとした間抜けな顔をさらしていた。
だが、ここで躊躇してはいけない。やるならやるで、一気にいかないと。
俺は男の顔面に、左手に持ったビニール傘を思いきり叩きつけた。
男が「ギャッ」とか「キャッ」とか言って手で顔を押さえていたところに、俺は男の腹に、右足のスニーカーの足裏を思いっきり蹴り込んだ。
「ウガッ!」と呻いて、男が玄関の内側の壁に背中を打ち付けながら倒れ込む。まだだ。もう一発。
男が右腕で上体を支えているところに、俺は男の頭に右足で蹴りを入れた。
「ガ〇☆△※〒!」
男が訳のわからない言葉を発しながら、顔を天井に向けて倒れた。
俺は土足のまま、ビニール傘を片手に急いで部屋に上がり込んだ。
「なんなんだあああ! てめえええー!」
背後から聞こえた男の怒号には、強い怒りと憎しみ、それと明らかにドス黒い狂気が入り混じっていた。

夢中で目の前のドアを開けると、そこは意外と広いダイニングルームのようだった。部屋の隅には小さな木製で四角いダイニングテーブルがあり、その上には電気ポットと、ポテトチップスと別のお菓子の袋が全部でみっつ。それと二本の缶ジュースがある。テーブルの下も覗いたが、人は誰もいない。
さらに部屋の奥へ進むと、左右に二つの扉があった。まず右側の扉をスライドさせて開けると、ソファーやテレビがあり、リビングルームかと思ったが誰の姿も見当たらない。俺は左側の扉の取っ手に目をやった。その扉を開けてもいなければ、あとはトイレか、バスルームか。
後ろの奥の方で男が立てるガサゴソといった音が気になり、俺がチラッと後ろを振り向くと、男は後ろ向きで慌ててなにかを探している様子だった。俺は男に構わず、左側の引き戸の取っ手を回し手前に引いた。すると、ベッドの上の乱雑にめくれた青い掛布団が、まず目に入った。

「いた!」
やはり、いた。志織の「声」は正しかった。さすが志織。
女の子の年は四、五歳くらいか。その子は下がスカート、上は下着姿のまま、ベッドの足側、部屋の一番奥の隅に怯えた様子で膝を抱え座り込んでいる。
「おい! 大丈夫か!」と、大声で呼びかけると、女の子は体を一瞬、ピクッと震わせ、顔を膝の間にうずめた。
あの野郎。こんな小さな子を。許せねえ!
「てめえええ! なにもんだあああ!」
俺の背後で男の甲高い叫び声がすると、女の子はさらに身をギュッと縮めた。
急いで後ろを振り向く。そこには男が肩で息をしながら血走った目で俺を睨みつけ、右手で文化包丁を握りしめていた。
「見たな! 殺してやる!」
男の顔は怒りで真っ赤だ。
傘を片手に男の正面に立つと、俺はすぐに体を二歩左にずらした。包丁が間違ってベッドルームへ飛んでいかないように。
俺は傘のハンドルを左手が下、右手を上に握り、左手の小指の先に力を込めた。次に男の目を見据えながら、傘の石突きをスッと男の鳩尾辺りに向け、構えた。

剣道初段とは言ったが、あんなもの、多少の経験を積めば誰でも取れる。
第一、剣道とはお互いが礼にのっとり、ルールにのっとった健全なスポーツだ。こんな変な実戦まがいのものとはかけ離れたものだ。だが現実にこうなった以上、もうしょうがない。
しかも傘は竹刀に比べ長さの丈が短かく、剣道の間合いよりも、かなり相手の懐に近づかなくてはならない。今にも刺されそうな気がする。
おまけに最後に竹刀を握ったのは俺が中学三年の時。もう六年以上も前だ。
なんとかあの頃の勘がまだ、残っていますように。

「死ねええ!」
男が包丁を持ち上げ振り下ろした始めた、コンマ数秒後の僅かなタイミング。
俺は左足を外側に一歩動かし上体を左に傾けると、剣道の籠手(こて)の要領で、包丁を握る男の右手の甲を目がけ、思い切りビニール傘を叩きつけた。
おっ! 当たった!
すると、傘で打たれた痛みで男が手放した包丁が、腕を振り下ろした勢いのまま宙を飛び、俺の顔を目がけて飛んできた。
避けられない!
包丁の刃の切っ先が俺の右の頬をかすめていく。直後、後ろの壁に包丁がぶつかる音がした。包丁がベッドルームへ行かないよう、俺の体の位置を左にずらしていたのは正解だった。
そんなことに気を良くする余裕もなく、俺は夢中で傘を思いきり男の頭上に振り下ろした。
心がざらつく、なんとも気持ち悪い感触だ。剣道の面で一本を取った爽快さは欠片もない。
「いってええ!」
男は左手で自分の頭を押さえているが、やはり、頭のてっぺんをビニール傘で叩いたぐらいでは、相手に大したダメージは与えられない。
俺はすぐに右手を傘の石突きのほうに持ち替えると、傘のハンドル部分を、思いっきり男の右の側頭部に叩きつけた。
これは剣道では反則。でも今はそんなこと言ってる場合じゃない。
「ってえ……」
男は右手で右の側頭部、左手で頭の上を押さえたまま、その場に立ち尽くしている。
俺は、がら空きとなった男のどてっ腹に、今度は剣道の胴の要領で、右足を前に踏み込みながら思いきり傘を叩きつけ振り抜いた。
この時ばかりは、ほんのちょっぴり、やり過ぎかなという後ろめたさが脳裏をよぎった。
男は自分の腹を手で押さえたまま、前のめりで跪いている。さすがに胴は効いたか。
しかし、まだ安心するには早い。男を完全に屈服させるには、まだ足りない。
俺はこの隙に、落ちていた文化包丁を急いで拾うと、台所辺りへ向けて放り投げた。
男が包丁を拾い、女の子に突き付け、あの子が人質にでもされたら非常に厄介な事態になる。本当は包丁を窓の外へ投げ捨てたかったが、それはそれで別の問題が起こりかねない。誰か人に当たったりするとまずい。
包丁を放り投げた直後、男が屈辱で顔を真っ赤にして、俺に向かって「コノヤロー!」と叫んだ汚い口の中に、俺はビニール傘の金属の石突きを突っ込んだ。
「おとなしくしねーと、この傘でお前ののど、ぶち破るぞ!」と俺が大声で怒鳴ると、男が涙目になった。
その時、玄関のドアが開く音が聞こえ、「信也さん!」と叫ぶ志織の声がした。
来ちゃったか。しょうがない。
俺は石突きを男の口の中に突っ込んだまま、両手で傘を掴む男から目を離さず、「志織! 女の子いたぞ! すぐ一一〇番してくれ!」と叫んだ。
「わかった!」と志織の声が聞こえたかと思うとドアが閉まる音がし、志織が廊下を走っていく足音が聞こえた。
すぐに男の頭を蹴り飛ばして男の口から傘を抜き、唾液で濡れた石突きを避けて傘を掴むと、ハンドル部分をもう五、六回ほど、男の左右のこめかみに手加減なしで激しく叩きつけた。
そこで、横倒しになった男が、ようやくおとなしくなった。
男は頭を両手で押さえたまま、「勘弁してくれよう、助けてくれよう」と哀れで情けない声を出し、よだれを垂らしながらダイニングルームの床に横たわっている。
でも、まだ俺の息はハアハアと荒く、心臓もバクバクと早鐘を打っていた。
女の子の方を振り向くと、可哀そうに、まだ部屋の隅で震えていた。その姿は、まるで雨の中の草むらで怯える、生まれたばかりの子猫のように思えた。実家で飼っている白猫のミーを、俺が見つけた時のように。
気が付けば、俺の足も小刻みに震えていた。

俺は一旦玄関のドアをロックし、ドアにチェーンをかけた。気休め程度でしかないが、こうすれば男がドアを開けるまでに多少時間がかかって、すぐには逃げられないだろうと考えた。

「大丈夫? お兄さんが助けに来たからね。もう、心配しなくていいよ。お巡りさんも、もうすぐ来てくれるからね」
俺はベッドルームの入口で女の子に手招きをしたが、その子は俺の顔を見ないように目を背けるばかりだった。
そうか、俺の顔から血が出ているせいか。
俺は急いでジーンズのポケットからハンカチを出し、頬の傷に当てながら女の子にもう一度手招きをすると、おっかなびっくりしながらも俺の方へ歩いて来てくれた。女の子は泣いていたが、幸い怪我をした様子は見受けられない。
「よしよし、よく頑張った。きみはえらい子だね」と、しゃがみ込んで女の子の小さな頭を撫でてあげたが、その間も男からは目を離さず、警戒を解かなかった。
男はブツブツと小声で言葉を発しながら、相変わらず頭を抱え床に横たわっている。
もうちょっと派手に抵抗したり、俺の隙を見て逃げようとしたりするかと思ったが、なんだかあっけない。こちらが拍子抜けするほど、まるで根性のないやつだった。
だが、警察が到着するまでは、俺が気を抜くことは許されない。
俺は一旦ハンカチを持ったまま傘を握り、女の子の手を引き、横たわる男を回り込むようにして女の子を玄関の方へ連れて行った。いざという時には、すぐに女の子を玄関の外へ逃がしてあげられるように。
女の子になにか服を着させてあげたかったが、今は男から目を離したくなかった。

廊下を走る足音の後、ガチャガチャという音が聞こえ、ドンドンとドアを叩く音がした。警察に通報し戻ってきた志織が、「信也さん!」と叫びながら玄関のドアを開けようとする。
俺はチェーンを外し、ロックを解除してドアを開いた。すると俺の出血している顔の右半分を見るなり、「血が!」と目を見開いた志織が、すぐさま部屋に上がり込もうとした。
「大したことない! パトカーが来る前に、お前はどっか行け!」と、俺は左手で女の子の手を握りながら怒鳴った。
実際、傷は大した痛みも感じなかった。頬からの出血はそれなりにあり、室内のあちらこちらに点々と落ちていて、いかにも事件現場といった様相を呈していたが、血で服をぐっしょりと大きく濡らすほどではない。せいぜい頬から首筋を伝わって、シャツと下着を濡らしている血が気持ち悪い程度だ。上着はいつもよく着る黒のブルゾンだったので血はそんなに目立たないだろうが、下のシャツは今日のデートのためにと、新しく買ったばかりの服だった。でもそんなことはどうでもいい。

「信也さん! 早く怪我の手当てしないと!」
志織が俺に呼びかけたが、「いいから! お前はすぐにここから立ち去れ!」と俺は声を張り上げた。
「イヤ! 私もここにいる! 私、信也さんと離れたくない!」
彼女が悲痛な声で叫んだ。

志織。そんな悲しそうな顔、するなよ。俺は大丈夫だから。
ちらりと見た志織の顔は、まるでこれが今生の別れになるかのような悲愴な表情に見えた。大きな瞳からは今にも大粒の涙がこぼれ落ちそうだ。
それでも俺は「ダメだ!」と、大声で志織を怒鳴りつけた。
すでにすっかり観念した様子で、おとなしく横たわる男にチラチラと視線を向けつつ、できるだけ落ち着いた声を出そうと心がけながら、俺は志織に話しかけた。
「お前はここにいないほうがいいんだ。そのほうが俺としては助かるんだ。だから頼む」

警察は、まったくの他人である俺が、なぜ男の部屋に来たのかを聞いてくるだろう。
女の子がこの部屋にいることを、お前は事前に知っていたのかと尋ねてくるだろう。
だが、志織の「声」のことを警察には説明できない。例え、本当の話をしたところで警察がそれを信じる可能性はゼロだ。
仮に、警察署で俺と志織が別々の部屋で話を聞かれ、二人の話の齟齬を警察につかれると、色々と面倒くさいことになる。
ただ単に話がややこしくなるだけではなく、下手をすれば志織が奇異の目で見られ、志織の名誉が削がれることにもなりかねない。それどころか志織が妙に疑われ、変な嫌疑がかかるかもしれない。そんなことだけは絶対に避けなければいけない。
聡明な志織のことだから、すぐにわかってくれると俺は思っていたが、彼女はなぜか、なかなか引き下がらなかった。

「でも」
「お願いだ、頼む。そういえばここに来る途中で近くに喫茶店があったよな。表の看板にパフェのメニューもあった。あそこで待っててくれ。俺もあとですぐ行くから」と俺が言っても、志織は泣きそうな目で俺をじっと見つめるだけだった。
俺はもう一度男の様子を確認した上で、男から目を離し志織の目を見つめると、できるだけ心を込めて「頼む」と言った。
俺を見返す志織の目には、なにかを訴えようとする意志を感じた。しかし、俺はそれがなにかと考える余裕はなく、声を出さずに心の中で、ただひたすら「頼む」と強く念じた。
それでも志織は唇をギュッと固く結んで納得できない表情を崩さなかったが、やがて力なく「わかった」とつぶやいた。
ゆっくりと俺のバッグを左手で俺に差し出すと、プイッと後ろを振り向き、玄関のドアを開けてすぐに立ち去っていった。
あれ? 俺、嫌われたかな? さっきは強く言い過ぎたかな?
志織が出て行った態度に、俺は少しだけ反省した。
手を繋いでいる女の子を見ると、不思議そうな目で俺の顔を見上げている。
直後、パトカーのサイレン音が遠くから聞こえてきた。

男は先に警察に連行されていった。女の子は、あとから駆けつけてきた女性警察官と一緒に警察署へ行き、そこで保護されることになった。
女の子は部屋の外へ出る直前、一度だけ俺の方を向き、少しだが頭を下げてくれた。それだけで俺はすべてが報われた気がした。でも、黒服野郎への怒りが収まった訳ではない。それに俺にはまだ厄介な問題が残っている。
俺はことの一部始終を一旦警察官に説明したあと、やはり警察署までの同行を求められた。「強制ですか」と一応尋ねたが、俺の目の前に立つ私服の警察官は「あくまでも任意だよ」と、やんわり答えた。不審げに俺を見る警官の眼光は鋭く、どう見ても、俺に対し友好的には思えない。
任意といったって事実上強制だろと不貞腐れながらも、俺はそれ以上余計なことを言わずに警察署へ行くことに同意した。この場でことを必要以上に荒立てても仕方がない。
警官の目の前ではないから、暴行や傷害の現行犯とはならないかもしれないが、やはり一抹の不安はある。
いつぞやの刑法の講義で習った、正当防衛の成立要件はなんだったかと、俺は頭の中のあやふやな記憶を探った。それとも、この場合は緊急避難にあたるのか?
憶えていたはずの正当防衛と緊急避難の違いを、すぐには思い出せなかった。
生まれて初めてパトカーに乗った俺は神奈川県警港警察署へ連れていかれ、そこでまた、色々と話を聞かれる羽目になった。

「あの女の子が部屋にいることを知ってたのか?」
「そんなもん、俺が知る訳ないでしょう」
「なぜあの男の部屋に行ったんだ?」
「だから、さっきも言ったでしょう? 通りがかりに肩をぶつけられて、無視されたからムカついて、男の跡をついていっただけです。あいつ、人のことを舐めくさりやがって。人通りの多い道なかじゃまずいから、男が家に着いて油断したところで思いきりぶん殴ってやろうと思って。ドアが開いたら、女の子の『助けて』って声が聞こえたから助けなきゃと思って。で、男と格闘になっただけです」
「一人でやったのか?」
「もちろん」
「一一〇番通報は女性の声だったそうだが。知り合いか?」
「あの子は今日ナンパしてひっかけて、さっき知り合ったばかりの子です」
「その子の名前は?」
「なんて言ったかなあ。ありふれた名前だったけど、確かまさことか、まさみとか。そんな名前だったような」
「その子はどこへ行った?」
「知りませんよ。ごたごたに巻き込まれるのが嫌で、もう帰ったんじゃないですか」
「連絡先は? 電話番号は?」
「さっき知り会ったばっかりの子ですよ。そんなもん、わかる訳ないでしょう」

まったく、まるでこちらが犯人扱いだ。警察とはそういうものだと頭ではわかっていても、実際に自分がやられる身になると無性に腹が立つ。
だがそれよりも許せないのは、俺の運転免許証を見て俺が国立寮の寮生だと知り、いつの間にか寮自治会の執行役員だと割り出した連中が、俺の口から寮や寮生のことを聞き出そうとしたことだ。現寮生や元寮生の名前を出して、あれやこれやと。
学生の手による自主管理寮というものは、かつて学園紛争華やかなりし頃、当時の活動家が多数そういった寮に住んでいたことや、今でも大学当局とぶつかって抗議行動を行うこともあり、警察からはなにかと敵視されることもある。
もうひとつ、国立寮にはずっと以前、新左翼と呼ばれる赤月旅団派の活動家の学生が住んでいたことがあった。その学生が在学中に退寮した翌年、横須賀の米軍基地に反対した放火事件の容疑者として逮捕されたことがあり、警察が国立寮に目を付けているらしいことは、寮の先輩から聞いて知っている。
とはいえ今の国立寮自治会は、赤月旅団派はもちろん、いわゆる「セクト」と呼ばれる新左翼活動家のグループである、いかなる「党派」とも一切なんの関係もない。俺が寮に入ってからも「党派」の人間が国立寮に住んでいたことはないし、そういった人物が寮に出入りしていることもない。
個人的にいわゆる左翼的な思想に興味を持つ寮生がいるかもしれないが、そんなもの、憲法が保障する思想及び良心の自由の範囲内だ。
俺は「寮のことは今回の事件にはまったく関係ない」と言って、寮関係の質問には一切答えなかった。しかし、警察に諦めた様子は見えない。俺は長期戦も覚悟した。
だが、相当ムカつくとはいえ、ここまではある程度予想できたことである。一番許せなかったのは、途中で取調室に入ってきた、一人の小太りで髪の薄い私服刑事だ。

「あんたもせっかくナンパした女に見捨てられて、残念だったね。けどそうやってナンパされてホイホイ男に付いていって、でもちょっとなにかあるとさっさと逃げちまう女なんて、どうせ碌な女じゃないよ。けれど今どきの若い女の尻は軽いね。女子大生はもちろん、今じゃ高校生でも、中には中学生でもメスブタみたいに自分から男を誘うし、昼間から学校サボって、男とヤリまくってるってよく聞くしねえ。まあ今どきの若い女なんて、そんなもんだ。俺が思うに、その子もきっとあれだな、ほら最近よく聞く『ヤリマン』ってやつ。今頃はきっと、もう他の男といちゃついてるよ。でも女なんて結局、そんなもんだ。気にすんな! ははははは!」

よくしゃべる犬だ。
けれど俺のことならともかく、的外れとはいえ、志織のことをちょっとでも侮辱するような発言は、ひと言たりとも断じて許すことはできない。もう少しで「ふざけんな!」と、大声を上げそうになった。お前に志織のなにがわかる。
だが問題はそのあと、薄らハゲが言った言葉だった。
「この間も、売春で補導されてきた女の子は十七才だった。それも初めてじゃない。常習だ。もっともその子は高校生じゃなくて、中学校しか出てなかったけどな。所詮中卒の女なんてそんなもんだ。碌なもんじゃねえ。今どき中卒なんて、大した仕事にも就けないだろうにな」

ダン!

それは、手で机を叩く音だった。気が付けば、俺の拳が灰色の机の上を叩きつけていた。
すると、さっきまで馴れ馴れしく俺に話しかけていた刑事が、俺の行為を反抗的と受けとったのか、態度を一変させ口調も変化した。
「ああん? 怒ったか? すまんなあ。そうか、あんたがナンパした女も中卒だったのか。中卒じゃあ尻が軽いのも納得だわ」
刑事は椅子にふんぞり返り足を交差させると、自分のタバコに火をつけた。
俺は奥歯を噛みしめながら、黙っていた。
俺の母親は農家出身だったこともあり、中学校しか出ていない。佐賀のような田舎の、当時の社会情勢では、それはごく普通のことだった。だが、学歴がどうであろうと、俺にとっては最高の母親であることは、断じて間違いない。
「あんたさ、そんなに怒りっぽいから、女にも見捨てられたんじゃねーの? あんたは女に愛想尽かされて、嫌われて捨てられたんだよ。そんな様子じゃひょっとしてあんた、寮の仲間たちにも嫌われているんじゃねーのか? なあ、心当たり、あるんじゃねーの? ハハハ!」
こいつは俺を挑発しようとしている、と思った。そうやって寮の情報を聞き出すつもりか。その手に乗るか! 舐めんな!
「そもそもなあ、親の金で大学まで行かせてもらっているのに、自治寮だかなんだか知らんが学生運動にうつつを抜かして、女ナンパして遊んで。あんたも大した、いい身分だよな。だいたい大学行ったからって、それがなんだってんだ。偉そうにしやがって。俺はなあ、お前みたいなお坊ちゃまが大嫌いなんだよ!」
こいつは、ただの学歴コンプレックス野郎だ。そう思って怒りを鎮めようとしたが、無理だった。

結局、俺が警察から解放されたのは、連れ込まれてから四時間半以上、五時間近く経ったあとだった。
レストランの予約時刻など、もうとっくに過ぎている。もっとも、今はただでさえなにも食べる気がしない。とてもおしゃれな店で、優雅に食事をする気持ちには到底なれない。
警察の話を聞いているうちに、黒服野郎を痛めつけたことで俺も傷害の罪でパクられるかもしれないと、一時は覚悟した。
しかしながら俺の行動が結果的にせよ、監禁されていた女の子を救出するための正当防衛にあたる、と最終的に警察が判断した。と俺は理解する。
警察は、「また連絡するかもしれないが、とりあえず今日は帰っていい」と言った。

港警察署から出た俺は、目線の先に俯いて心細げに立っていた志織の姿を見つけた。
さすがに五時間近くもの長い時間、喫茶店に一人ではいられなかったようだ。申し訳なかった。
けれど警察の対応と言葉に、心の底からむかっ腹を立てていた俺は黙って志織の手を掴むと、予約したレストランでも最寄りの関内駅でもなく、警察署から少し離れた山下公園へ向かって歩いていった。
俺の頭を冷やす、時間と空間が欲しかったのだ。志織は俺と一緒に黙って付いてきてくれた。
それでも山下公園に着く頃には、自然と俺の興奮も冷め、だいぶ落ち着きを取り戻していた。志織の手のぬくもりが、俺の心をなだめてくれたような気がする。

辺りはもうすっかり暗くなっていた。夜景はきれいだったが、きらびやかな光景を楽しむ心の余裕は、俺にはまだなかった。
俺たちはベンチにも座らず、周りに誰もいない薄暗い芝生の上に立ったまま、しばらく黙って、夜の港の風景を眺めていた。

ふと、志織の方を見ると、彼女は俺を睨んでムッと頬を膨らませていた。
まずい。相当怒ってる。
ずっと、ほったらかしにしてしまったからなあ。でも許して欲しい。悪いのは全部あの黒服野郎と警察だ。志織、あいつら全部ぶん殴っていいぞ。俺が許す。
俺が志織の方を向いて手を合わせ、「志織。結局、喫茶店に迎えに行けなくてごめん」と謝った途端。

「信也さんのバカあああ!」

志織が突然、俺に向かって大声で叫んだ。
「志織……」
「もう、あんな危ないことしないで!」
志織に怒られてしまった。しかし、俺には、あのまま知らんぷりをしておくことはできなかった。
「心配かけてすまん。けど、女の子を……」
「それはわかる……わかるけど……私……信也さんになにかあったら……」
「ごめんな」
「もし、もしも……」
「?」
「信也さんに……もしものことがあったら……、私……、私……」
「志織?」
「私! もう生きていけない!」
志織が叫びながら、俺の胸に激しく抱きついてきた。
「信也さんに逢えなくなるなんて、イヤ!」
彼女は泣きじゃくっていた。

志織、それは俺のほうだよ。俺のほうこそ志織になにかがあったら、もう、俺は生きていくことはできない。
志織がいない世界なんて考えられない。
俺にとってお前は誰よりもかけがえのない、たった一人の、この世の中で一番大切な人だ。
それに、もうとっくに俺の命よりも遥かに大事な人なんだ。
志織のためなら俺の命、いつでも喜んで差し出してみせる。
俺の思いに、一ミリの嘘も誇張もない。

この気持ち。どうすれば志織にわかってもらえるだろう。

俺たちはそのまましばらく、抱き合ったままだった。
けれど、なんだろう。以前の夜の展望台での、俺が酔っていた時は違うこの感じ。
勢いや、場の雰囲気にのまれた感じとはまったく違う。
熱い気持ち、と同時になぜか穏やかな気持ち。こうして俺たちが抱き合っていることが、ごく自然で当たり前のことのような気がする。

やがて、志織が俺の右頬の絆創膏を、指でそっと撫でてくれた。
俺が志織の目を見つめると、大きな瞳が涙で潤んでいる。
ああ、志織。やはり、君は世界で一番可愛い。

志織が涙で濡れた瞼を、そっと、閉じる。
俺の心に、もう迷いはなかった。
志織の唇に、俺の唇を優しくそっと触れさせると、一気に志織の唇をむさぼった。
ずっと。
長い間。

海側からひとつ奥まった、ひと気のないベンチに二人並んで抱き合って座り、俺たちはしばらく黙って夜の横浜港を眺めていた。海からはひたひたと、波の音が静かに聞こえている。
突然、志織が口を開いた。
「さっきはごめんね、バカなんて言っちゃって。やっぱり、信也さん、カッコよかった」
志織は穏やかに微笑んでくれた。
「カッコよくなんかねえよ。それに実際バカだし」
「ううん。そんなことない。やっぱり私、信也さんと出逢えて……、よかった」
そう言いながらもう一度、志織が俺の頬の絆創膏を撫でてくれた。
俺たちはまた、キスをした。

こういうことにはなったが、俺には志織との、キスから先の段階へ進むことを抑えておく自信はあった。
監禁されていた女の子を助け出したことが、俺の自信に繋がっていたのかもしれない。
警察の話によると、あの子は二日前から行方不明になっていたそうだ。それも横浜からはずいぶん遠く離れた別の県から、黒服野郎の車で連れ去られてきたらしい。
警察から、今のところ女の子に大した怪我はないと聞いて、俺は少し安心していた。できれば完全に無傷でいて欲しいと願った。女の子の手を握った時の、か細い指の感触が今でも忘れられない。

俺が取った行動は、下手をすれば、自分が大怪我をしていたかもしれない。
それに場合によってはビニール傘も立派な凶器だ。剣道の有段者である俺が傘を使ったことで、正当防衛とは見なされず過剰な危険行為だと判断され、俺まで警察にパクられる羽目になった可能性は十分にある。
もしも自分が逮捕された場合、寮のみんなにも迷惑をかけることになっただろうし、それだけでは済まず、他の色々なところに迷惑が及んだかもしれない。
だが、俺はまったく後悔などしていない。もし、もう一度同じことをやれと言われれば、必ずもう一度やるだろう。あんな小さな子供を。絶対に許せない。
でも、志織が心配するのも、もっともなことだ。今から冷静に考えれば他にもっと、いい方法があったような気もする。

何気なく俺が腕時計を見ると、針は午後七時を少し過ぎていた。志織の家の門限は午後八時だ。今から帰ればたぶんギリギリで間に合うはず。
俺は思い切ってベンチから立ち上がると、「そろそろ帰ろう。今から帰れば門限にはなんとか間に合うはずだよ」と志織に声をかけた。
けど志織は座ったまま、下を向いている。
「帰りたくない」
「帰んなきゃダメだって。志織のお父さんって、門限に厳しいんだろう? 遅れるとお父さん怒って、もう俺とは会っちゃいけないって言ってくるかもしれないぞ」
それでも志織は座ったまま。
「私、タクシーで帰る。だから、もう少しここにいたい」
「タクシーって、そんなお金の無駄遣いしちゃダメだよ」
「無駄遣い?」
困惑げに言った志織は俺の顔を見上げた
「そうね。やっぱりお金は大切だもん、無駄遣いはダメだよね」
志織はまた、俯いてしまった。
俺は志織の手を掴み、「さあ」と言って、無理やり引っ張り上げた。かなりの力が必要だった。
立ち上がった志織は、今にも泣きそうな顔をしていた。
でもその顔は、本当に可愛かった。
そして、もう一度だけ、俺たちはキスをした。

横浜駅の西口に出る改札の内と外に分かれ、俺たちは別れの挨拶をした。
「じゃあ、またな」
「うん、またね」
「気が向いたらまた電話して」
「うん、電話する」
「じゃあな」
「バイバイ」

小さく手を振る志織の顔は、いつもより寂しげに見えた。
やはり、あんなことのあとだからだろうと、俺はあまり気にしなかった。

《そして、この日を最後に、志織からの連絡は途絶えた》


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