ヨコハマ・ラプソディ 10 いちばん長い日
十.いちばん長い日
迎えた約束の月曜日は、朝からとにかく蒸し暑い日だった。
暑さのせいで朝の六時半頃には、俺はすでに目を覚ましていた。枕元の目覚まし時計を見て、もう一度寝ようと思ったが、それからはもう暑さで眠れなかった。
仕方がないので溜まっていた洗濯物を片付けようと、朝から寮の一階にある洗濯機を回し、干した洗濯物は午前中には全部乾いていた。
ベランダから外を見ると、所々に雲はあるが空はよく晴れている。午後に向けて、これからさらに暑さは増すだろう。でも、そんなことは大した問題じゃない。
なんと言っても、今日は久々の志織とのデートだ。俺はすでに汗ばんでいた下着も含め、洗い立ての服に全部着替えることにした。
午後二時を十分ほど過ぎて寮の玄関を出ようとした時、ちょうど受付の担当は富田で、佐山も受付室にいた。俺は富田に軽く声をかけた。
「お疲れさん。なにか変わったことない?」
「なにもなし。なんだよ、その嬉しそうな顔は。ひょっとして、これから例の彼女とのデートかな」
「まあな。そういえば少し前だけど、志織がお前たちのライブ、また見に行きたいって言ってたぞ」
「おおお、嬉しいねえ。その時はまた来てくれるよな」
「ああ、たぶんな。佐山も当然行くだろ?」
「松崎さんって、最近丸くなりましたよね。前はもっと口数少なくて少し怖い人かなって思ってたけど。富田さん、そう思いません?」
佐山が意外なことを言った。俺って今までどういう目で見られていたのだろう。
「ああ、彼女のおかげだな。やっと松崎も血の通ったまともな人間になったってことだ」
「えらい言われようだな。じゃあ行ってくるわ」
「おー、行ってらっしゃい」
玄関を出て仰ぎ見た真っ青な空に、思わず俺は目を細めた。強烈な日差しも、今日は心なしかあまり気にならない。などと思えたのは、歩き始めてから十分ぐらいまでだった。
中央線から南武線、京浜東北線と乗り継いで予定通り志織との約束の約十分前、午後四時二十分頃に石川町駅に着いた俺は、北口の改札を出てすぐのところで志織を待った。
むわっとする不快な湿度を伴った暑い空気が、俺の全身にまとわりつく。そよとも風が吹かない石川町駅の改札口では、立っているだけでも汗が噴き出してくる。早くも電車の冷房が恋しくてたまらなかった。
それに電車に乗っていた時から気付いてはいたが、空の雲行きが徐々に怪しくなってきていた。
俺は雲の様子が気になり、空が見える道路の方へ少し歩いていき、どんよりとした空を見上げた。見れば西の方角に、気味が悪いほどの大きな黒い雲が立ち昇っている。
(ああ、すぐにでもこれ、大雨が来てしまうな。傘持ってこなかったなあ。失敗したなあ)と不気味な積乱雲を眺めていると、いきなり後ろから、誰かから抱きつかれた。
「えっ? 志織?」
「逢いたかった……」
いつもの、ちょっと甘ったるい志織の声だった。暖かくて柔らかい感触がなんとも心地いい。彼女の黒髪からはシャンプーのようないいにおいがした。
こんなにも、志織が俺に逢いたいと思ってくれていたなんて。そんなことより、志織が人前でこんな大胆な行動にでるなんて。
嬉しいやら恥ずかしいやら。俺はどんな態度を取ればいいのか、わからなかった。
「うん、俺もすごく逢いたかった。とりあえずどっかの店に入ろう。じきに大雨が来るぞ」
俺が志織の手を取ると、彼女も「うん」と言って明るく笑った、と思ったら急に恥ずかしくなったのか、照れくさそうに俯いた。
か、可愛い……。もう、それ以外の言葉はいらない。
俺は志織の少し汗ばんだ手を握りながら、駅の東側の商店が見える方へ歩き出した。
背中に残る、志織の柔らかい胸の感触。その余韻を感じながら。
少し歩いた先にあった喫茶店は、こぢんまりとした、ちょっと古風な趣のある店だった。
この店の前は何度か通ったことはあったが、今まで実際に入ったことはない。
ドアを押し「カランカラン」という音を聞きながら、店内に足を踏み入れた途端、俺たちの口からは「ああ、涼しいー」という言葉が揃って同時に出た。
「ハモったな」
「ハモったね」
俺たちは笑いながら店内に足を進めた。
店の中は壁がレンガ造りで、佐賀市内にあった風月館という喫茶店に似ているが、それよりもっとレトロ感であふれている。
女性店員から窓際の席を案内された俺たちは、ひとまずアイスコーヒーとアイスティーを注文した。
注文を終えた途端、気のせいか志織の表情から、いつもの元気さがスッと消えたような気がした。
あれ? 疲れているのかな。
でも、連日のこの暑さでは無理もない。
「大丈夫? 夏バテしてない?」
「え? 私、高校生だよ?」
志織は首をかしげながら笑ったが、彼女の笑顔には妙なぎこちなさが感じられる。
確かに高校生は、夏バテなんてしないかもしれない。俺だって、この年になっても夏バテなど一度も感じたことはない。
ならば、俺は志織が期末試験で無理をし過ぎたのか、もしくは今も受験勉強のために、根を詰め過ぎているのではないかと少し心配になった。
よし、あとで美味しいものでもご馳走してあげよう。この店のメニューには、パフェもあるみたいだし。
彼女は俺の予想に反し、私服姿だった。持っているものも学生カバンではなく、それより小さめのバッグがひとつだけだ。
俺は志織の夏の制服は見たことがなかったので、本当はちょっと見たかったのだが。
女子高生の夏の制服姿というのは、俺の目に、一種独特の爽やかさを感じさせてくれるものなのだ。高校時代も、衣替えで市内の女子高生の制服が一斉に夏服から冬服へ変わると、ちょっとがっかりしたものだった。
「今日は補習だって言ってなかったっけ。制服じゃなくていいの?」
「うん。うちの学校は夏休みの補習中は、私服でも制服でも、どっちでもいいの」
「そうなんだ」
「うん」
できれば制服にして欲しかった。それになにより、今日の志織の服装は、どうにも俺の目には違和感があり過ぎた。
白いノースリーブの服は、まあいいとして、大きな胸元の開き具合には、どうにも目のやり場に困るし、なんといってもスカートの丈が今までで一番短い。
一々憶えている訳ではないが、膝小僧が見えるようなスカートは、志織は一度も履いて来なかったように思う。ところが、今日は膝どころか太腿の大半が露わになっている。これほどまでに露出の多い服装は、今まで見たことがなかった。いくら、今日は朝から一段と蒸し暑いからといって。
まさか、俺を誘ってる?
はは、そんな訳がない。志織に限ってそんなことはない。
俺はバカげた考えを一笑に付した。
いくらなんでも考え過ぎだ。志織は肌を見せて男の気を引くような子ではないし、女の子というものは、意外と平気で露出度の高い服を着たりするものだと、最近雑誌で読んだ気がする。あれは『平凡パンチ』だったか、それとも『ホットドッグ・プレス』だったっけ?
ああ、そんなことはどっちでもいい。
今日の俺はどうかしている。志織に抱きつかれて、無意識のうちに気持ちが高ぶっているのだろうか。
俺は気分を落ち着かせようとストローを口にくわえ、運ばれてきたばかりのシロップなしのアイスコーヒーをひと口、口に含んだ。
「それで、なに? 受験について相談したいっていうのは、どんなこと?」
「……」
「どうかした?」
「……」
「志織?」
「私……、大学受験……やめようかと思って」
「はああ?」
どういうことだ? てっきり受験先の大学選びの話かと思っていた。
「えっ? どうしたの? だって、大学行って、フランス文学の勉強をしたいって言ってたじゃない」
「……」
「なんか、あった?」
「お父さんがね……、お父さんの仕事があまり上手くいってなくて、ちょっと……経済的に……難しくなって……」
「う~ん……」
そうか、そういうことか。辛いな。こんな時、どう声をかけてあげればいいのだろう。
思えば、俺が高校三年の時の同級生にも、経済的理由で進学を断念したやつがいた。俺よりも遥かに成績の良いやつだった。
一学期の頃には、東京のある大学を受験するって張り切っていたのに、秋になって急にそいつから就職することに決めたって聞いた時、あいつは笑っていた。でも、本音では絶対に悔しかったはずだ。
「で、ご両親はなんて言ってるの?」
「……、あんたは心配しないで、……ちゃんと……大学に行きなさいって」
「うん。ご両親がそうおっしゃっているなら、今の時点で諦める必要はないと思う」
「……でも」
「まだお父さんの仕事がどう転ぶかわかんない状況なんだと思うし、志織は少なくともちゃんと準備だけはしておいたほうがいいと思う。あとになって後悔しないためにもね」
「でも……」と、志織がなにかを言いかけた時、窓の外が光った。かなり強い光に思えた。いよいよ雷雲が近づいて来たようだ。でもそれっきり、志織は口を噤んでしまった。
「少なくとも今、志織がやるべきことは、しっかりと受験に備えて勉強すること。それしかないと思うよ」
「……」
外で「ゴロゴロ」と不気味な音が鳴る。
「とりあえず、受けるだけ受けてさ。最悪、あとで入学を辞退すればいいし。国公立だったら学費も安いし、奨学金というのもあるしさ」
「……」
「ね?」
しばらくして、志織は俯きながら、「うん」
それからやや遅れて、「わかった」と、小さくひと言。
本当にわかったのだろうか。
また空が光った。やや遅れて雷鳴が聞こえてくる。
志織はまだ俯いている。なにか気の利いた言葉をかけてあげたいが、俺にはなんにも思い浮かばなかった。
「パフェでも食べる?」
「うん、いい」
「いらない?」
「うん」
大好物のパフェでもダメか。こりゃ、本格的に元気ねえな。困った。どう元気付けよう。
窓の外が続けざまに光ると、今度は一段と大きな雷鳴が聞こえた。外も薄暗くなってきている。もう、いつ大雨が降り出してきてもおかしくない。
志織にかけるべき言葉を見失った俺は、白いノースリーブからのぞく彼女の左肩にあった小さな二つのほくろを、ただじっと見つめることしかできなかった。
「あっ、そうだ」
俺は自分のカバンの中から、二冊のコミック本を取り出した。
『めぞん一刻』という、高橋留美子さんが描くビッグコミックスピリッツ連載中のコメディ漫画だ。
ある古い木造アパートに住む男子大学生と、アパートの管理人である若くて美人の未亡人を中心とする、ドタバタ的要素の強いラブコメディである。アパートの他の住人たちも極めて個性的で、主人公は彼らから、まるでおもちゃのような扱いを受けている。主人公の大学生、五代裕作は管理人さんにぞっこんだが、管理人さんの気持ちはよくわからない。基本的には五代に対し、アパートの一住人に対する管理人として振る舞っている。
この管理人さん、きれいで優しいし言葉遣いも丁寧だけど、意外と嫉妬深い人なのだ。それも五代に対して、である。そのくせ、五代にははっきりとした気のある素振りなど、まず見せることはないし、亡くなったご主人のことを未だに忘れられずにいる。さらに三鷹さんという、かっこいい五代のライバルも登場した。三鷹さんは管理人さんとすでにデートをしている。
とにかく、日本のラブコメディ漫画においては、俺が一番好きな漫画だ。志織に読んでもらおうと、たまたま気が向いて持ってきたけど、この漫画なら志織の気持ちを、少しでも明るくさせることができるかもしれない。
「これ読んで、感想聞かせて」
「これ、ひょっとして前、信也さんが言ってた……」
「そう、『めぞん一刻』の一巻と二巻。俺は面白いと思うけど、女性目線でどう思うか、感想を聞かせて欲しい」
「うん。今、読んでいい?」
「いいよ」
また窓の外が光り、続いて雷鳴が轟くと、本格的に雨が降り出した。すぐに雨音は強くなる。
志織が『めぞん一刻』を読み始め、俺は持ってきた文庫本、ジャック・ヒギンズの『鷲は舞い降りた』の読みかけだったところから、文字を目で追い始めた。
しばし、沈黙が続く。外では雷雨が激しさを増してきた。
「ふふっ」
志織が笑っている。よっしゃ! と俺は心の中で叫んだ。
「ふふふふっ」
おっ、思ったより受けてるな。少しはお気に召してくれたかな?
雷の音は相変わらずすごい。雨は一旦弱まったと思ったら、またすぐに強くなった。
「あはははっ」
俺はこの漫画で、なんとか、志織が機嫌を持ち直してくれることを切に願った。
志織はあっという間に一巻を読み終えると、すぐに二巻を手に取った。彼女の目を見ると、時々笑いながらも、真剣に読んでいるのがわかる。
一度すぐ近くに雷が落ちたような、恐ろしく凄まじい音が辺りに鳴り響いたが、志織は一瞬だけ窓を見て、また『めぞん一刻』を読むのに集中し始めた。
やがて。
「あー、面白かった。ねえ、三巻は?」
「まだ発売されていない」
「えーっ、そうなのー」
「どうだった? 感想は」
「面白かった。桃色電話の話と、ま・めぞんと豆蔵(まめぞう)を間違えた話、好き」
「あとは?」
「あと人形劇の話。ねえ、管理人さんと五代君、このあとどうなるの?」
「う~ん、ずっとあんな感じ」
「えーっ、そうなんだあ。うふふっ」
雷はまだだが、どうやらやっと、志織の機嫌の方は収まってくれたようだ。俺は今日偶然『めぞん一刻』を持ってきたことに、これとない幸運を感じた。
「ねえ、管理人さんって、五代君のこと、好きよね」
「なんでそう思うの? 五代君のこと、出来の悪い弟みたいとか言ってたし。それに亡くなったご主人のこと、まだ愛してるみたいだけど」
「だって、やきもち焼くって、そういうことでしょう?」
この二冊の漫画の中で、管理人さんが五代に好意を寄せていると言い切れるシーンはひとつもない。拡大解釈をすればひとつぐらいあったかもしれないが、そのためにはかなりの拡大解釈が必要な気がしていた。
スピリッツに連載されている最新話では、管理人さんが飼っている犬の失踪に絡んだ、五代との印象的なエピソードが展開されてはいる。それでも、管理人さんの五代への気持ちは、まだなんとも言えないと俺は思っていた。
でも、やはり、そうだよな。言われてみれば確かにそうなんだよな。さすが、志織は鋭いな。
志織の意見は、やはり参考になる。他の漫画や小説なんかでもそうだ。必ずという訳ではないが、俺が解釈に迷う場面でも、ポンポンと本質をとらえた意見を言って、しかもそれなりに説得力がある。それだけ文学的素養に富んでいるといえるし、やはりこのまま進学を断念させるには、あまりにも惜しい。
「ねえ、この二冊。もう少しの間、借りてていい?」
「いいよ。三巻も発売されたら、すぐに貸してやるから」
「うん、ありがとう」
そうやって、しばらく『めぞん一刻』の話を続けたあと、俺たちはまたいつものように、他の漫画や小説、映画の話をした。志織は最近読み始めた、村上春樹さんの『風の歌を聴け』という小説がお気に入りらしい。
そのうちようやく、やっと雨が止んだ。雷が収まったあとも、雨はずいぶんと長く降り続いていた。外もすっかり暗くなっている。
「そろそろ帰るか?」
「私、お腹すいたあ」
「ん? お母さん、ご飯作って待ってんじゃないの?」
「今、お父さんとお母さん、親戚のところに行ってて、明日まで帰ってこないの」
「そうなのか。じゃあ、なにか食べて帰る?」
「うん。私、中華料理が食べたい」
「よし! じゃあ、福景飯店、行くか!」
「うんっ!」
それから俺たちは、いつもの中華料理店を目指し、喫茶店から歩いてすぐ近くの中華街へ向かった。
雲はまだ厚いが、所々に隙間も見える。雨のおかげで気温は少し下がったが、逆に湿度は上がったようなムシムシした夜。その変な蒸し暑さが、妙に俺の心をかきたて、乱すような夜だった。
福景飯店に入って、とりあえず海老チャーハンに麻婆豆腐に回鍋肉。エビチリに小籠包に上海焼きそばを注文し、飲み物として志織は冷たい烏龍茶を、俺は生ビールの中ジョッキを頼んだ。今日はなんだか特別な気分だ。
今の俺の財布には、元々持っていたお金に、おとといの凄まじい炎天下でやった肉体労働でのバイト料が加えられている。福景飯店なら、これだけ食べてもそれなりに余裕はあるはずだ。俺は志織との初めてのディナーを、思い切り楽しむことにした。
「志織。他にも食べたいものがあったら頼んでいいぞ」
「どうしたの信也さん。今日はずいぶんと太っ腹」
「おとといのバイト料が入ったからな。今日は余裕がある」
「へーっ、すごーい。でも今はこれで十分だと思う」
「カンパーイ!」「カンパーイ!」
二人で生ビールと冷えた烏龍茶で乾杯したあと、俺は待望の生ビールを一気にのどに流し込んだ。
「クゥーッ! うまーい! う~ん。俺は生きてるなあ」
「信也さん、大げさ」
「最近暑さで苦しんできたからなあ。ホントこないだのバイトでは死にそうになったし」
俺は志織に、おととい成城でやったアルバイトの話をした。そのバイトとは、あるマンション建築現場での肉体労働だった。
強烈な炎天下で、「ねこ」と呼ばれる一輪車で土を運んだり、コンクリートブロックや土のう袋を手で運んだり、コンクリートを混ぜたりといった作業を行った。もう最後のほうはあまり記憶がない。うちの寮からは四人が一緒に参加したが、一人は日射病寸前で倒れそうになっていた。
これで日給一万円だ。今まで行ってきたバイトの中でも、一番高い日給だったが、みんなその日一日が限界だった。
「へー、大変だったのねー」
志織は俺の話を聞いて楽しそうに笑っている。
おいおい、笑いごとじゃないんだが、とは思ったが、志織の笑顔には敵わない。
「アチッ!」
俺は小籠包が苦手である。実は大の猫舌なのだ。小籠包は志織のリクエストだし、味自体は俺も好きなんだけど。
「信也さん。ほら、こうやって食べればそんなに熱くないよ」と、志織は言う。彼女の真似をして、レンゲにのせた小籠包の皮に穴を開けスープを飲むが、スープも小籠包そのものも、熱いものは熱い。
「ふーふーしてあげようか?」
「いやいや、子供じゃないんだから」と断ったが、でも志織の心遣いは嬉しかった。
「アチッ!」
う~ん。やっぱりふーふーしてもらえばよかったかな、と思うぐらい、やはりレンゲにのった小籠包は熱かった。
「すいませーん! 生ビール中ジョッキ、お代わり!」
やはり中華料理はビールが進む。これが三杯目だ。
「私もビール飲みたーい」
「子供はダメ」
「私、子供じゃないもーん」
また、さらっと、ドキッとするようなことを言う。
「どっからどう見ても子供だよ」
「子供じゃないもーん」
やれやれ。でもなんか楽しい。
調子に乗った俺は、急ピッチで生ビールを飲み干すと、とうとう紹興酒まで頼んでしまった。
回鍋肉をつまみに紹興酒を飲みながら、俺は志織の服をチラッと見て、ふと思い出した。
「志織。今度補習の日にデートする時は、制服着て来てくれ」
「ん? なんで?」
「いいから」
「? 変なの」
「ダメ?」
「別にいいけど」
やった! これでまた楽しみが増えた。
でも、志織が不審げというか不満げというか、微妙な表情をしている。
「別に変な気持ちじゃないから。今着ている服がだめってことでもないよ。ただ見てみたいだけ」
「……」
「あっ、ほら、前に冬の制服は見たことあるけど夏服はないから。俺は志織のすべてが見たいんだ」
う~ん。これはこれで誤解を生むなあ。
「いやなに、冬服だってあんなに可愛いかったから、夏服だったらもっと可愛いだろうと思って」
結局、志織には「いいよ」と言ってもらった。ああ、次のデートの日が待ち遠しい。
出された料理はほぼ平らげ、お腹も満足した。俺は最後にグラスに残った紹興酒を飲み干すと、志織に言った。
「そろそろ帰ろうか」
「えーっ。別にそんなに急がなくっても。今日はお父さんたち、家にいないんだし。そうだ、私、杏仁豆腐が食べたい」
まあ、それもそうだな。時間を気にせずに志織と夕食を共にする機会なんて、そう滅多にあることではないし。
ということで、志織が杏仁豆腐、俺はお店の新作デザートらしい、壁に張られていたメニューのマンゴープリンなるものが気になり、それぞれ追加で注文した。
出てきた橙色をしたマンゴープリンは、見た目は実に美味しそうだった。トロピカルな感じでなんとも濃厚そうだ。そもそも俺はマンゴー自体を食べたことがない。いったいどんな味がするのだろう、と思っていたら、志織の声が聞こえた。
「あっ、それいいなあ。美味しそうだなあ」
一口でも欲しそうな口調だった。
「じゃあ、交換する?」
「いいの?」
「いいよ」
「ありがとう!」
早速、志織がスプーンで一口目を頬張る。
「うん。マンゴープリン、美味しい。やっぱりこっちが正解」と志織は嬉しそうだ。
「ああそう、よかったね」
でも、福景飯店の杏仁豆腐もなかなかの美味で、実は俺のお気に入りなのだ。
「ねえ、杏仁豆腐。一口ちょうだい」
やはり、そうくると思った。志織も、この店の杏仁豆腐は大好きだしな。
「しょうがねえな。一口だけだぞ」
「ありがとう。じゃあマンゴープリンも一口どうぞ」と、志織がスプーンで食べさせてくれた。
ん? これって「間接キッス」か?
それは甘くトロッとしていて、濃厚な味わいだった。俺はこのマンゴープリンの味を、一生忘れないような気がした。
デザートも平らげたら、さすがに満腹になった。それに、もういい加減遅い時間だ。
「よし。今日はこれでおしまい。志織、もう店を出ようぜ」
「えーっ。私の話、まだ終わってなーい」と、まだまだしゃべり足りなさそうな志織をなんとかなだめて、俺はひとまず会計に向かった。
俺が席を立った途端、急に頭がふらついた。店内の壁やテーブルが、右から左にゆっくりと回転する。
まずいな、少し飲み過ぎたかな。紹興酒はうまかったけど、さすがにグラスで五杯は飲み過ぎか。
でも、今日は楽しかったし。まあ、いいや!
「ごちそうさまでしたー!」
「ありがとうございましたー!」
女性店員の明るい声に見送られ、ドアを開けて外に出た途端、俺たちはムッとする蒸し暑さに全身を包まれた。せっかく雷雨直後は下がった気温も、もう元に戻ったようだ。
ああ、今夜もまた、寝苦しいだろうな。でも、今日はいい感じで酔っているし、意外とよく眠れるかもしれない。
などと思うぐらい、俺はこの上なく上機嫌だった。志織との初めてのディナーに、俺は完全に満足していた。
俺が酒に酔っていたせいなのか、それともこの蒸し暑さのせいか。たぶん、両方のせいだろう。俺が改めて見た志織の姿は、涼しい店内にいたさっきまでのそれと、なにかが違って見えた。
なんというか、妙に「艶めかしく」感じたのだ。まだ十七歳の高校生のはずなのに。
ノースリーブの服から伸びる、志織の少しムチッとした二の腕に、胸元からチラチラ見える白い胸の谷間。それにテーブルに座っていた時にはよく見えなかった、短いスカートから伸びる美しく魅惑的な太腿。
夜の中華街のネオンに照らされた志織の肌の色に、俺は本気で誘惑されそうになった。
まずい。やっぱり俺、相当酔っている。どこかで少し落ち着いて酔いを覚ますべきか。
それにしてもまったく、高校生がこんな露出の多い服、着るなよな。
いや、他の高校生はいいが、志織はダメだ。うん。
俺たちは、杏仁豆腐とマンゴープリン、どちらが最強の中華料理のデザートか、などと笑いながら二人で話をしていた。でも俺にとって、実は福景飯店のイチゴのシャーベットもなかなか捨てがたいのだ。
気が付けば、俺たちはいつものデートコースを歩いていた。このまま行けば、港の見える丘公園方面だが、俺たちは今まで夜間にその公園を訪れたことはない。
港の見える丘公園の展望台は、有名な「キススポット」として知られていると、この間立ち読みした旅行雑誌に書いてあった。本来なら、かなりドキドキとしそうなものだけど、この時の俺はそうでもなかった。
確かに展望台から見える景色は素晴らしいが、思いのほか狭い上に多くのカップルや観光客が訪れるので、実際はそれほど色っぽい雰囲気にはなりにくいのでは、と考えていた。
「あれっ、門が閉まってるじゃん」
「うん、フランス山を通るコースは今の時期、午後七時で閉鎖されているみたい。信也さん、こっちから行こう」
俺たちは閉ざされた門から右側の谷戸坂(やとざか)の石畳を、汗をかきながら登って行った。俺は坂を登るにつれ、さらに酔いが回っていくような気がした。なにやら宙に浮いた感じが強くなる。やはり、少し飲み過ぎたのだろうか。
「信也さん、大丈夫? だいぶ酔っ払ったように見えるけど。少し休んだほうがいいんじゃない?」
「いやいや、こんなもん酔ったうちには入らない。平気平気」
そんなことより腕時計を見ると、いつの間にか時刻は午後九時半を過ぎている。俺は志織をできるだけ早く、家に帰すべきだと思い始めていた。
ハアハアと、俺の息が荒くなりかけた頃、右側に交番がある坂の上の交差点までたどり着いた。交差点のすぐ左側が、港の見える丘公園だ。展望台は公園に入ってすぐ奥にある。公園内は俺が思っていたより、ずいぶんと暗く感じた。展望台は明るいけど、それ以外はほとんど真っ暗だ。
志織が展望台への階段を、俺より一足先に駆け上がっていく。
「わーっ、きれーい」
志織が喜んでいる。
遅れて登った俺も志織の隣に立って、港の方に目をやった。
そこで見た横浜港の夜景は、見事のひと言に尽きた。今まで見てきた昼間とはまったく違う光景が、俺たちの目の前にきらびやかに広がっている。俺は思わず、志織の肩を抱きそうになった。さすが、キススポットと言われるだけのことはある。俺は周りをチラッと見てみた。
夕方に降った雷雨のせいだろうか、展望台での人影は、俺が思っていた以上に少なかった。周りにいたのは、どちらも社会人っぽい二組のカップルだけで、一組は展望台の右端で肩を寄せ合いながら、立って夜の景色を眺めており、もう一組は展望台に設置された中央付近の腰掛けに座り、密着しながらひそひそ話をしている。だいぶ俺の予想とは違った。
でもここは恋人同士がいちゃつくには、少し明るすぎるかなと思っていると、右端に立っていたカップルが、なにやらもぞもぞし始めた。
まあ、こんな港の夜景がきれいに見えるところで抱き合ったり、キスしたりしたら、そりゃあ盛り上がるわなぁ。それはそうなんだが。
「きれいだねー。昼間とはまた違うね。来てよかったね」と、志織は元気に明るく、無邪気に笑っている。志織が元気を取り戻してくれたのは、大変喜ばしい。
「そうだな」と志織に答えながら、俺は酔った頭で、このあとどうしようかと考えていた。
時計を見ると、時刻はもう午後十時になろうとしている。いい加減早く志織を帰らせないと、と今更ながら俺は焦りを覚えつつあった。
いくら両親が留守だとはいえ、夜遅くまで、おまけにこんなひと気の少ないところにまで、女子高生を連れ回してていいのか? なんだかんだいったって、相手はまだ子供だというのに。なにより、これ以上志織と展望台にいると、なにやら俺も妙な気持ちになりそうだった。
俺は志織をタクシーに乗せて帰らせようかと考えたが、さっき色々と飲み食いし過ぎたせいで、ちらっと見た俺の財布の中身は、思っていた以上に厳しくなっていた。
志織の家までタクシー代がいくらかかるか知らないが、俺の帰りの電車代も考えると、明らかに千円札の枚数は心もとない。紹興酒が余計だったか、と思ってはみたものの、今更どうしようもなかった。
しょうがない。電車で横浜駅まで行って、駅から家まで送るか。
志織が、つかつかとまた歩き出した。この展望台の左側には少し港側に出っ張った、さらに景色がよく見えるところがある。そちらへ行こうというのか。
酩酊し、頭をふらつかせた俺が、志織を後ろから追いかける。
「志織ー。そろそろ帰ろうぜー」
「帰りたくなーい」
なにを言っとるんだ。なにを。
正直、俺は一瞬、石川町駅近くにあるラブホテルを思い出した。中華街へ立ち寄る際によく利用する石川町駅の北側に、何件か、その手のホテルがあるのは知っていた。
もちろん俺にはそんな気などさらさらないが、本当に今日の志織は、色々と俺の心をかき乱してくれる。
やはり志織は一段低くなった、出っ張った場所へと歩いて行った。一番奥の、ライトの光が届かない薄暗いところに立ち止まり、じっと夜の港の明かりを眺めている。
そこには他のカップルなど誰もいない。確かに夜景はこの出っ張ったところからが一番よく見えるかな、とは思った。
志織の肩を抱いて夜景を眺めながら愛を語り合う、なんてことには最高に打ってつけの場所である。
それでも俺は、後ろから彼女に声をかけた。
「もう、夜景は十分見ただろ。もう帰ろう」
志織は俺の方など見向きもせず、夜の港の景色を見続けている。
しょうがねーなあ、と俺はひとつ軽くため息をついた。俺はゆっくりと志織に近づき、彼女の手を取って言った。
「ほらあ、帰るぞ」
くるりと、志織がこちらに振り向いた。
黙って、目をつぶっている。
(うっ、志織……)
今までずっと、こういう場面を夢にまで見てきたことは事実だ。それに今、紹興酒が思い切り効いている。やはり、あれは余計だったか。
それにしても、なんという二人を取り巻くこの環境。今の場の雰囲気。さらに志織の服装。もう、シチュエーションばっちりではないか。
据え膳云々とは言わないが、普通ならなんらかの行動に出ないほうがおかしい。この、可憐な志織を目の前にして。
だが俺は、えらく心もとない、自分の不安定な自制心のギアを無理やりフルパワーモードに入れると、もう一度、「帰るぞ」と少し強めに声を出した。
すると目を開けた志織が、潤んだ大きな瞳で俺の目を見つめ、静かにつぶやいた。
「キスして」
その言葉を聞いた瞬間。俺の頭の中で「なにか」が弾け飛んだ。
ずっと、理性とプライドいう重しで押さえつけていたはずのもの。
俺の最終防衛ラインは、志織のたったひと言であっけなく突破された。
俺は志織の身体を、思いっきり強く抱きしめた。
そうだ。俺はずっとこうして志織を抱きしめたかったんだ。この状況こそが、俺が求めていたものだ。
しかし志織の体って、なんて柔らかくて、暖ったかくて、気持ちいいんだろう。
そう、思いながら。
志織も、俺を抱きしめてくれている。彼女の熱い鼓動を感じる。
ああ、志織。この気持ち、もう抑えられない。
志織の瞳を見つめると、彼女はそっと目を閉じた。
俺は、志織のぷっくりとした柔らかそうな唇に、俺の唇を重ねようとした。
その時。
ドッカーーーーーン!
公園の近くでなにかが爆発したような、凄まじくでかい音が辺りに鳴り轟いた。
俺たちは思わずお互いの目を見たあと、その音の方向を向く。すぐに音がした方へと、俺は志織の手を引いて走って行った。
するとさっき通った交番前の交差点で、前方がひしゃげた二台の車が派手に転がっていた。
(こいつは、死人が出たかも)
そう思うぐらいの、酷い惨状だった。
ガラスの破片や車の部品が、辺りに派手に散らばっている。遠目にだが、フェアレディZらしき赤いスポーツカーの、ひび割れたフロントガラスに血のようなものが付いているようにも見える。
いや、考えたくはないが、あれは間違いなく人の血だ。さらにもう一台の白い軽自動車は、運転席部分まで潰れていた。あんな状況で、人は助かるものなのだろうか。
(こりゃ、相当スピード出してたな)
街灯が淡く照らすアスファルト上に、タイヤのブレーキ痕は見えなかった。
(たぶんシートベルトなんか、してねえだろうなあ。ここは高速道路でもないし、そもそも罰則がある訳でもないし)
最近見たテレビで、一般道を含めたシートベルト着用の義務化を、それも罰則付きで進めるべきだ、といった話を聞いたような気もする。でも、この議論はずっと以前からあるが、未だにそのままだ。
どこにこんなに人がいたのだろう、と思うほど野次馬がわらわらと集まり、俺たちを含め、凄惨な事故現場を見つめている。ぼそぼそと周りから聞こえる声からすると、どうやら直進してきたフェアレディZと右折しようとした軽自動車が、交差点でぶつかったみたいだ。
交番詰めの警察官と思われる一人の警官が、あとから来た他の車の交通整理をしている。やっとパトカーと、すぐ続いて救急車のサイレンが聞こえてきた。到着した救急車からすぐに降りた救急隊員が、慌ただしく動き回る。
「行こう。志織」
この先は志織には見せないほうがいいと判断した俺は、今すぐ事故現場から離れることにした。
いつの間にか放していた手を俺が差し出すと、志織はコクリと小さくうなずいて俺の手を握ってくれた。
そのまま二人で、ゆっくりと谷戸坂を下っていった。
俺たちは一気に重くなった両足を引きずるようにして、石川町駅まで歩いた。駅まで十五分ぐらいしかかからないはずなのに、いつまで経っても駅にたどり着かなかった。
ずっと、フロントガラスに付いた赤い血が、俺の脳裏にこびりついたまま離れなかった。石川町駅に近づいても、ラブホテルのネオンは見ないようにしていた。
俺はつい今しがた見たもの。ひび割れた赤いフロントガラスと、潰れた運転席を忘れ去りたかった。そのために、衝動的にこのまま志織の手を強引に引っ張ってしまいそうな悪い予感が、さっきから俺の胸の内を行ったり来たりしていたからだ。
だが、志織の手を引っ張りたかったのは、果たしてそれだけの理由だったのか?
本当は車の事故とは関係なく、未遂に終わった志織とのキスを、さらにもっと先をと、展望台から事故現場まで走っている時から、ずっと考えていたのではなかったのか? 志織は「帰りたくない」と、はっきり言ったのだぞ。
俺に否定するつもりはない。今の俺がそう考えるのは、ある意味当然ともいえる。
問題は、俺の考えを実行に移す心理的ハードルが、今は著しく低下しているということだ。なにもラブホテルは、石川町駅だけにあるものではない。横浜駅付近にも数軒あるし、実はたまたまではあるが、いくつかの詳しい場所も俺は知っている。
ただ、今の俺は、自分の心理状態をきちんと自覚している。あとは、弱ったよれよれの頼りない自制心をうまくなだめながら、志織を家へ送り届けるまで、なんとか保つことだ。それぐらいは、そう難しいことではないはずだ。
やっと俺たちは石川町駅にたどり着き、来た時と同じ北口改札を通った。すぐ目の前の道路近くで志織が俺に抱きついてくれたことが、ずいぶん遠い出来事のような気がした。
ひと気の少ないホームから根岸線の電車に乗って、俺たちは座席に並んで座った。
事故現場からずっと、俺はもちろん、さすがに志織の口数も少ない。俺は隣で静かに座っている志織に、「人間はそう簡単に死なねーよ」とひと言、自分の願いも込めて言った。
でも、黙っていた志織がその時、交差点の事故のことを考えていたのかは、俺は知らない。
電車が横浜駅に着く直前に、俺は志織に声をかけた。
「もう遅いし、俺、志織を家まで送っていくよ」
「うん。ありがとう」
やっと、志織が笑顔を見せてくれた。彼女の人の心を包み込むような柔らかい微笑みに、俺の心は大いに救われた。
志織の家は西区の三ツ沢公園の近くだという。俺たちは横浜駅西口から出て一旦地下街を通り、階段を登ったところにあるバス乗り場で、三ツ沢公園経由のバスの時刻表を見た。よく見ると、バスの最終便はとっくに終わっていた。
「しょうがない。歩いて行こう」
「途中に坂があるけど、信也さん大丈夫?」
「構わんよ」
横浜駅前のビル群から商店街を通り、住宅街に差し掛かると、そこから先は坂になった。たいそう急な長い坂道だ。志織の家に行くには、この長い坂を登りきらねばならないという。
横浜は山手を始め意外と坂の多い街だが、なんとも今日はよく急な坂道を登る日だ、とため息が出そうになった。
夜中とはいえ、蒸し暑さの中で大量の汗が噴き出てくる。すでに俺のハンカチはぐっしょりで、あまり汗は吸ってくれそうにない。
志織は「私は慣れてるから」と言いながら平気そうに歩きつつも、やはり盛んに額の汗をハンカチで拭いていた。
「……」
「……」
「蒸し暑いね」
「そうだな」
「……」
「……」
「ねぇ」
「うん?」
「……、なんでもない。信也さん、すごい汗」
「うん」
「……」
「……」
「寮って、クーラーあったっけ?」
「ないよ。そんな気の利いたもん」
「うち、あるけど……」
「へー」
エアコンは必ずしも、どの家庭にもあるものではない。当然俺の実家にもないし、近所の友達の家でもほとんど目にすることはなかった。
今でこそ、ごたごたしているけど、やはり志織の家はお金持ちだったんだなと、俺はただ単に思っただけだった。
そうやってぽつりぽつりと、暗い坂道を歩きながらとりとめのない会話を続けていた俺たちだったが、やっと坂を登りきりそのまま少し歩いていくと、前方に赤い屋根をした公衆電話のボックスが見えた。ひょっとしてあれが、志織が俺に電話をする時に使っている、いつもの公衆電話なのだろうか、と思っていた時。
「うち、ここなの」と言って、志織が足を止めた。
門には「長澤」の表札があり、電気の点いていない、壁がタイル張りのきれいな二階建ての家が堂々と建っていた。
立派な家だなと思って眺めていると、二階のベランダに干されたままの洗濯物が、俺の目に飛び込んできた。
(さっきの雨で濡れちまっただろうな)
ちらっと見えた下着らしき物から、俺が目を逸らした時。
「お茶でも飲んでいく?」と、やや伏し目がちの志織が言った。
今日の出来事を経た上での、この言葉の意味。
実際、俺はものすごくのどが渇いていた。
「じゃあ、ちょっとだけ」という本音が、俺の喉元のすぐそこにまで来ていた。
あとに続いた沈黙。短かったような、長かったような。
その間に、一度完全に燃えカスとなったはずの、おのれの自制心になんとか再点火することに成功した俺は、「いや、今日はこれで帰る」と、辛うじて口にすることができた。
ちょっと声がかすれてしまったのが、我ながらみっともなかった。
少し俯いたままの志織が言った。
「わたし、しん…………」
「え? なに?」
志織の蚊の鳴くような声は、俺の耳にはよく聞き取れなかった。
でもすぐあと、志織が顔を上げて言った言葉は、はっきりと聞こえた。
「なんでもない。うん。わかった。じゃあ、おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
「送ってくれてありがとう。気を付けて帰ってね」
「うん。じゃあな」
そうして俺たちは汗だくのまま笑顔で別れた。
俺と志織の、これまででいちばん長い一日が、ようやく終わろうとしていた。
日付が変わり、寮にたどり着いた俺が朝まで一睡もできなかったのは、もちろん寝苦しさのせいだけではない。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。