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ヨコハマ・ラプソディ 11

十一.気分転換 

その遅く帰った日のお昼近く。
あんなことのあったあとだから、俺はどうせ当分、志織から連絡は来ないだろうと思い、しばらくはアルバイトでもしようと考えていた。けれどその時、寮に来ていたアルバイトの募集はどれも肉体労働系だった。
寮の掲示板に張られていた、三枚のアルバイト募集の張り紙をさてどうしたものかと、寝不足でボーッとした頭で見ていた時、俺宛に電話が来ていると寮内放送で呼び出された。

「もしもし」
「あっ、信也さん? 志織です!」
受話器から聞こえてきたのは、いつもより元気な志織の声だった。
「うん……」
「ねえ、お願いがあるの」
「なに? お願いって」
「私、気分転換がしたい! ねえ、どっか連れてって!」
昨日のことは、まるでなにもなかったかのような志織の弾んだ声に、いささか戸惑いを覚えながら俺は彼女に尋ねた。
「どっかと言われても。どこか行きたいところある?」
「ううん。どこでもいいの!」
「じゃあ海と山、どっちがいい?」
「海!」
「わかった。じゃあ行き先は俺が考えておくから、二日後にまた電話をくれ」
「うん、わかった!」
「じゃあな」
俺は志織との短い電話を切った。

海か。さて、どこがいいだろう。
こんな時に車があれば、気軽に海までドライブに行けるのに、とは思ったが、貧乏学生の俺に車を持つことなど、とても無理な話だった。
志織と付き合うまでは、車にはさほど興味を持っていなかった俺だったが、やはり彼女を隣に乗っけてのドライブ、というシチュエーションには憧れた。
俺が最近注目しているのは、マツダのサバンナRX-7という車だ。
リトラクタブル・ヘッドライトを採用した、スタイリッシュなボディに水冷の2ローターエンジンの自然吸気仕様を搭載。エンジンの最大出力は百三十馬力、最大トルク十六.五kg・m。加速性能を示すパワーウエイトレシオは、一馬力あたり七.七三kgと、かなり魅力的だ。
それらの数字を暗記するほど、俺はサバンナRX-7の記事が掲載されている自動車雑誌を、繰り返し何度も読んでいた。
RX-7の助手席に志織を乗せて海沿いの道を走ったら、それこそ最高の気分だろうな。
でも昨日の車の事故を思い出すと、少し怖くなったりもする。俺は赤い電話器を背に、ひとつため息をついた。

二階のロビーに上がると、珍しく一人で新聞を読んでいる同じ学年の里田がいた。いつも寮の電話で彼女さんと長話をしているやつだ。こいつなら色々といいところを知っていそうだと思って、ちょいと聞いてみた。

「なあ里田。今度電車で、海が見える場所まで彼女と遊びに行こうと思うんだけど、どっかいいところ知らない?」
「電車で海が見えるとこ? 泊まり?」
「日帰り」
「日帰りかあ。そうすると選択肢が限られるなあ。江の島とかは?」
「江の島はもう行った」
「いつ?」
「ゴールデンウイークの頃」
「江の島はやっぱり夏がいいよ。それにあそこって近くていいところだし、また行けばいいじゃん。俺なんか五回は行ってるし」
「江の島はちょっと、な」
「ふ~ん。本当なら伊豆とか房総とかに、俺のおすすめのところがあるんだけど、日帰りだと少しつらいかもな。帰りは相当遅くなると思うよ」
「それはまずい。彼女の門限もあるし」
「じゃあ、鎌倉か、あと城ケ島とか。真鶴だとちょっと遠いか」
俺にとって、鎌倉は海というより寺と山のイメージだ。真鶴はよく知らないが、遠いところはなるべく避けたい。となると。
「城ケ島か。いいところ?」
「まあまあ、いいところだと思うよ」
「そうか。参考にさせてもらうよ。ありがとう」と言って、俺が立ち去ろうとした時。
「なあ、松崎。お前たちどこまでいった?」
「どこまでって……」
「もう寝た?」
「アホか! 相手はまだ高校生じゃ」
「関係ないじゃん」
「関係あるわ! ボケ!」
「案外、向こうも待ってるかもしれないよ」
「……」
「まあとにかく、ちゃんとゴムは着けろよ」
「うるせえ。大きなお世話じゃ! ボケ!」
「あはははは!」

俺は自分の部屋に戻り、本棚から地図を引っ張り出して、城ケ島の場所を探した。
城ケ島は江の島からは、ずいぶんと南にある、三浦半島の南端の島だ。大きな橋で半島と繋がっている。

(案外、向こうも待ってるかもしれないよ)
さっきからずっと、里田の言葉が俺の頭の中でリピートしていた。
「待ってんのかな?」
俺は地図を手にしたまま、昨夜の、急に俺に振り向き、目を閉じた志織の顔を思い出していた。それと、「キスして」の言葉。
「うーーーーーん」
俺はベッドの上に仰向けに寝転がりながら、地図を後ろに放り投げた。

高校を卒業するまで、志織には手を出さない。俺の決意は変わらない。
そのはずだったが、昨日のことを思い出すと、俺にはすっかり自信がなくなっていた。
あえていえば、キスまではいいと思う。だが、一旦キスまでいった場合、さらに先へいくことを押さえておく自信は、もうない。
なにかが弾け飛んだ、あの感じ。それまで俺を押さえつけていたはずのものが、あっさりと、どこかへ飛んでいってしまった。
車の事故さえなければ、志織とキスして、彼女を家まで送って、そして……。
そういえば、珍しく志織は昨日の待ち合わせ場所を、石川町駅にしようと言った。石川町駅から中華街までは近いし、いつもの中華の店から港の見える丘公園も、歩いてすぐそこだ。
昨日の展望台での、志織の言動。いや、駅で逢った時から、彼女の様子はいつもと違っていた。
志織の両親は親戚の家に行っていて、昨夜家には誰もいなかった。もしかして昨日の志織には、元々その気があった。なんてことは……。

まさか。
昨日のことは、最初から志織のシナリオ?

いや、考え過ぎだ。そもそも月曜日という日にちを指定したのは俺だし、石川町駅は彼女が通う高校の近くの駅だ。補習があるからって言ってたじゃないか。
でも、志織が俺に電話をかけてきた時点で、俺が言った月曜日には両親が家にいないことは、すでに決まっていた。とか。
それに中華料理店から出たあと、なんとなく志織が先に公園に向かって歩き始めたような……。
また、目を閉じた志織の顔を思い出した。それと、志織が家の前で言ったひと言。
「お茶でも飲んでいく?」
あるいは、志織の言葉に深い意味はなかったのかもしれない。
単に食事をして帰っただけであれば、仮に志織の両親が不在であろうと、俺はそのままの意味に受け取っただろうし、例えそう言われても、俺が志織の家に上がり込むことはなかったと言い切れる。
しかし、あの時の俺には、とても志織のひと言を言葉通りの意味には受け止められなかった。

(案外、向こうも待ってるかもしれないよ)
また、里田の言葉が脳内に湧いてくる。
(関係ないじゃん)

「あーもう! 知らね!」
俺は机の上にあった財布を掴むと、すぐに部屋を出て行った。

それにしても、たった一か月ほど逢わない間に志織はなぜ、急にあんな大胆な行動に出るようになったのだろう。
石川町駅では、いきなり後ろから抱きついてきたし、服も露出が多めに見えた。
中華の店で志織が言ったいくつかの発言、公園での振る舞い、さらに家の前で言った志織の言葉。
なにか、志織の心境に大きな変化が起きているのだろうか。俺との関係を、さらに深めたいと思うなにかが。
確かに、親御さんの仕事のことで大学に進学すべきか、思い悩んでいたことは確かだ。そのことと関係があるのだろうか……。
そうか。今、志織は不安なんだ。だから俺に頼りたいって思ってるんだ。
俺は志織の心情について、すごく単純に考えただけだった。

国立駅前の本屋へ行き、旅行雑誌の中から、関東近辺の観光スポットが書かれた雑誌をめくってみる。城ケ島の記事を読んでみると、なんとなく良さそうな感じはした。俺が好きな磯辺の岩礁地帯もある。
電車で行って、途中からはバスになるが、時間は横浜から片道約一時間四十分といったところか。
よし、ここにしよう。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。