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知の探索と創造:野中 郁次郎(著), 竹内 弘高 (著), 梅本 勝博(翻訳)「知識創造企業(新装版)」

この連休の間に、野中 郁次郎(著), 竹内 弘高 (著), 梅本 勝博(翻訳)「知識創造企業(新装版)」を読了した。本書は1995年に英語で出版され、世界的ベストセラーになった名著で、去年(2020年)末に新装版として出版されたのだ。よいきっかけだったと思ったのでさっそく購入し、今年になってからパラパラと読んでいたのだが、読み始めてみると思いのほか深い内容だと思ったので、じっくりと読もうと先送りにしていたのだった。

本書では、「知識の創造」を、「組織が新しい製品、新しい手法、新しい組織形態を創り出すこと」ととらえ、組織による知識の創造とそのプロセスについて、認知論的視点と存在論的視点から体系的に整理し理論化して記述している。それぞれの要素とフェーズの間でお互いに及ぼす影響と、その影響によって要素やフェーズそのものが時とともに変化していく、そんなダイナミックな関係性を解き明かしているところが特徴だ。

構成としては、まず現在の経営学の背景として西欧と日本の思想史をたどり、知識の創造理論について課題が提起される。そして、著者らによる知識創造理論が提示され解説される。次に日本企業の製品開発におけるいくつかの成功例をそれぞれ物語のように追いながら理論の具体的な例証として示す。最後に、そのような実践例と理論のまとめとして、企業経営としてどうあるべきかが提示されている。

組織学習あるいは学習する組織というのは他にも理論やノウハウは数多く出版されているが、組織が新たな知識を創造する過程を理論として扱ったのは例をみないという。入山章栄著「世界標準の経営理論」にそう書いてあった(*1)。

共同化(socialization)、表出化(externalization)、連結化(combination)、内面化(internalization) のSECI (セキ) プロセスの理論は有名だが、実際の内容は、本書を読んでいただくことが一番だと思う。1995年の本なので、具体的な例は少し古いと思われるだろうけれども。

なお、入山氏と野中氏の対談記事がネット上にあり、とても参考になるので、リンクしておく。

さて、本書を読んでいるうちに「なるほどな、言われてみれば当たりまえだけど、これまでわかってなかったな」という目からウロコな点がいくつかあった。

まず、本書では知識の創造について扱っていて、知識そのものを対象にしているわけではないということだ。

自分たちの持つ知識のみだけで生きていこうとすれば、今のように環境の変化が激しく先の読めない世界で生き残ることはできない。新しい知識を生み出す必要があるのだ。もちろん学習は必要で、新たな知識を探索し獲得して自分の知識の領域をいかに広げるかということは大事である。しかし、既存の知識をいかに積み上げたところでそれらは既存のものでしかない。

この点と関連して、「学習」は「創造」のなかのいちプロセスでしかない、というところが本書で注意ををひくもう一つの点だ。

言われてみれば確かにそうなのだが、創造、イノベーションとか改革というと、いかに学習するか、何を学習するか、といったところに目がいくことが多い。だが、新たな知識の創造をしようとすれば、それだけでは不足であり、既存の知識を発展させたり、別の知識と総合したり、異なった視点からとらえるなど、学習とは異なるプロセスが必要になる(*2)。

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また、新しい知識や概念は個人の中で生まれるものであって、組織によって生まれるものではない。しかし、それらが会社や社会といった組織として生かされなければ大きな力にはならない。そこが組織経営としての解明したいところになる。だから、組織が知識を創造する過程として個人と組織の間の関係性とそのダイナミズムも問われることとなる。

そして、筆者らは、知識には暗黙知と形式知(*3)があると考えるだけではなく、個人だけではなく、組織も暗黙知と形式知を持つと考える。そして、組織の暗黙知も同様に重要であること、ことに組織の知識創造においては組織の暗黙知が重要な役割を果たすとしている。

知識のマネジメントというと、どうしても個人の暗黙知をいかに組織の形式知とするのか、というところに焦点があたりがちで、そうすることで仕事や役割に対する属人性を排除していく、換言すると、どの部門であっても人を置き換えてもよいようにしていく、そういうことが効率がよくてスケーラブル、グローバルにも展開できる(つまり世界中のどの国に持って行っても同じ仕事ができ同じアウトプットが出せる)会社にするという発想になりがちだ。もし、知識の創造理論がすべて形式知化することができれば、どこの国でも、どの時代であっても、コンスタントに新たな知識を再現性よく創造することができるというわけだ。

しかし、本書を読んで改めて思い至ったことは、個人に形式知と暗黙知があるように、組織にも形式知と暗黙知があり、そこに新たな知識の創造のキモがあるのだろう、ということで、納得のいくところでもある。

ということで、いろいろ勉強にはなったし、暗黙知と形式知、内部化と外部化、「見るもの」と「見られるもの」の分離と「生きるもの」としての統合、身体と精神、そしてビューロクラシー、タスクフォース、マトリクス組織などの組織論とその背景にある思想、面白かった視点もいくつもあり、今、私の頭の中ではいろいろな他の知識との間で呼応と相互作用がゆっくりと行われているような感じがあり、その最中の、ぴたっとおさまらない、つかめるようでつかめない、そんなもどかしい感じもしている。

確かに、新しい知識を探索して学習し、知識を広げることだけではなく、消化し新たに創造することが大事なのだなぁ、と実感するところだ。

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さて、みなさんは GW やお盆休み、あるいは正月休みといった大型連休をどのようにお過ごしだろうか。

私の場合は旅行に行くこともなく、ゆっくりと家で過ごすことがほとんどだが、毎年、連休は普段できないあんなことやこんなことを絶対やろう、と毎日の予定表とチェックリストを作って実行しようとしている。夏休みの小学生なみではないか。

が、毎回、思ったことの30%も計画通りにできないうえに、やる気ばかりの気持ちに疲れて連休明けは腑抜けてしまうことが毎回だ。だいたい連休だからといって一日が長くなるわけではない。いくら7連休だ、10連休だといっても最大168時間あるいは240時間しかないのは、普段の日々も休暇も変わらない。自分ができることは普段の日々と変わらないのだ(*4)。

だから、連休中にばっちし勉強して新しい知識とスキルを身につけ、連休後には生まれ変わった自分でバリバリ仕事して皆をビックリさせてやろうと思っても、なかなかそうはいかないのは仕方がない。そういうのは、やはり普段の地道な取り組みがものを言う。

今回の連休も同様で、いろいろ出来た達成感とともに、出来るはずだったこと、出来なかったこと、そしてやらなかったこと、そんなことで少し気持ちはダウン気味だ。



■ 注

(*1) 入山章栄著「世界標準の経営理論」。この本は、現代の経営理論を網羅的に解説したもので、経済学、マクロ心理学、ミクロ心理学、社会学、のそれぞれの分野にわけて詳述していてとても参考になる。これも去年の後半に読み、読んでよかった本の1冊だ。


(*2) 個人の営みとしての知的生産の方法、はいろいろ提唱、出版されている。これは日本の特有の文化のような気がするのだが、どうだろうか。


(*3)暗黙知と形式知

形式知とは「言語化・記号化によって表現された客観的な知」、暗黙知は「言語や記号による表現が難しい、主観的な知」である。

形式知は、物理的な身体から離れた知となり、主体の外に客体としてある。一方、暗黙知は、身体を伴う知であることが多く属人的であり、主体とともにあり、客体として分離できず主客が一体としてある。

(*4) だから、何かをしようというほうが間違いなのかもしれない。何もしない、というのが正しい解なのかもしれない。

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