バートランド・ラッセル Bertrand Russel "History of Western Philosophy"
予定より2か月弱の前倒しでカントの「判断力批判」を読み終えた。正確に言うと、下巻235ページ以降の「付録 判断力批判『第一序論』」をスキップすることにして、その手前までなので、ちょっとインチキかもしれない。まぁ、でも、付録とか謝辞、注釈などは、すべて読まなくても許されていいのでないか、と思う。
全著作や書簡や切れ端のメモまでを読んで全てを理解しようとしたとしても、本人ではない以上、自ずと理解に限界はあることだろう。時間も空間も隔たりがあり、文化や文明の背景もまったく違う中で、しかも翻訳である。さらに言えば、すでにある文書の解釈と注釈を厳密にしていく中から新しい何かが生まれるわけではない。どこかで割り切りが必要である(*1)。
「純粋理性批判」を読んでみようと思い立ってから、三批判書をすべて読んだわけだが、足掛け3年かかったわけだ。そもそもは、2019年の3月ごろに、デカルトの「方法序説」を読み返してみたことがきっかけだった。
さらに、木田元の「反哲学入門」を読み返したのも大きな刺激になった。
この記事の中で次のように書いた。
この点は、たびたび「#日曜哲学愛好家」として言及しているが、いまだに私が普段仕事をしている中で不思議が解消できず、むしろ大きくなっている部分もあり、それらは整理しながら今後触れていくことにして、いまだに興味がつきない視点なのだ。
さて、そんなわけでカントの三批判書は3年かかってとても楽しんで読んだわけだが、なんとなくTVの大河ドラマが終わってしまった「ロス」感がある。次はどうしようかとぼんやり考えていたが心が定まらないまま一週間が過ぎた。
フィヒテ・シェリング・ヘーゲルに至るドイツ観念論でもいいし、マルクス・エンゲルスに走ってもいいかもしれない、あるいはニーチェかサルトルか、実存主義、あるいは構造主義とか、あるいはウィトゲンシュタインやゲーデル、それともプラグマティズムもいいかもしれない。35年前に読んだけれども、まったく記憶に残っていないベルクソンの「創造的進化」に取り組んでみようかとも思ってパラパラとページを繰っていた。
それとも、プラトンやアリストテレスを研究するほうが、ずっと実があるかもしれない。あるいは、マッハや C・S・パースを今こそ読み直すのもいいかもしれない。
そういえばだいぶん前に、デカルトに続いてカントを読んでいる、と言ったところ、ある人が「いわゆるひとつのデカンショですねぇ」とコメントされたことを思い出した。「デカンショ」とはデカルト、カント、ショーペンハウアーである。そういえば、ショーペンハウアーってどんな哲学者だったっけ、とちょっと調べなおしてみた。Wikipedia他、ネットで検索すればすぐにいろいろな知識が出てくるのが現代のいいところだ。
そして、バートランド・ラッセルの"Histrory of Western Philosophy"を引いてみた。ラッセルは、イギリスの数学者・論理学者であり、哲学者でもあった知の巨人の一人だ。(バートランド・ラッセル - Wikipedia)
この本は、ソクラテス以前のギリシャ哲学から論理哲学の夜明けまで、押さえておくべき30人あまりの哲学者とそれぞれの説、時代ごとに背景や思想の流れ・前後の関連や重要性について、5-15ページ程度づつ、76章にわたって解説する774ページの大部だ。文体がかっちりして古めかしいせいもあるかもしれない、単語も見慣れないものがあるし、文字がぎっしり詰まっていることもあって、若干読みにくい。
手元に常においている本の一冊だが、いつ買ったのか忘れてしまった。15年前くらいではないだろうか。毎週のように、日曜日の午後に鴨川の河川敷まで本書を手に自転車を走らせ、木陰のベンチで読んでいるうちに気持ちよく昼寝をしていた憶えがある。
何度か読破しようと試みたが、古代ギリシャからアリストテレスまで、第一部の270ページくらいまでは面白く読むのだが、毎度毎度、結局、第二部のキリスト教世界に入るあたりで退屈して挫折している。
ラッセルによれば、ショーペンハウアーの思想で重要な点は2点だという。
1点目は、 全ては無であるとする pessimism 悲観論であり、2点目は「意思」が「表象や認識」よりも根源的でありむしろ「もの自体」に属する、とする考え方だ。
前者に関しては、これが西洋の他の思想の多くが optimism であることを思い起こすと、他の哲学者と大きく異なる点の一つであるという。
我々の存在はとるにたるものではなく意味があるわけでもない、そして、それにも関わらず意味を求めるから苦しみが生じるのだ、そこから解放されるには、すべてが無であることを受け入れて、自我を捨てる以外に道はない、とする。これは言うまでもなく仏教あるいはウパニシャッドから得た考え方だ。
後者に関しては、カントが人間の「自由意志」を個人個人の意思として考え「自我」が認識の枠組みから放っておかれていたところを、「意思」そのものは実体「もの自体」(*2)の一部であり、時間や空間に関係のない(したがって複数ではない)「意思」があり、私たちの認識の枠組みによって「自我」ー個人個人の自由意思ーが現れる、というように考えることだ。
私の理解したところでは、後者の意思は生存への意思・欲求とでもいうべきものであり、これが自我として現れることで生きることが悩みと苦しみに満ちたものとなる、と考えることで、pessimism と繋がっているのではないか、と考えた。ただし、この点については、ラッセルが指摘するとおり、pessimism と 「意志・意欲」をセットで考える必要は必ずしもない。
また、ショーペンハウアーの思想は浅くて厳密さに欠けているし、その信じるところと普段の生活・言動が一致していない、とラッセルは指摘する。
とはいえ、影響力は限定的ではあったが、カントの思想を否定することなく引き継ぎ、ニーチェ、ベルクソン、ジェームス、デューイにつながるという点で重要だ、とまとめてある。
木田元の「反哲学入門」では、ニーチェについて論じた第五章「「反哲学」の誕生」の中でショーペンハウアーについて触れている。
「ショーペンハウアーのこの本」とは、主著「意思と表象としての世界」である。この本を読んでみようか思ったのだが、3部構成で重い。英語訳版では、1冊にまとめられていて全1739ページ、日本語訳では中公クラシックスから3冊、計1024ページだ。
時間をかけて読むに値すべき本であるかどうかは、読む前にはわからないし、これから歩むことになる人生によっても大きく変わるだろう。読んでも読まなくても、どちらにしても、未来の私が今を振り返って「それはそれでよかったのだ、そのようにして私があるのだ」と思えるなら悩む必要があるのだろうか。哲学の本を読むのに哲学が必要だというのは不思議なことだ。
永遠に生きるかのように学べ、とはいえ、やはり人生はあまりに短い。
ラッセルの History of Western Philosophy をパラパラめくりながら、ちょっと悩んでいるところである。もっと、いろいろ範囲を広げてつまみ食いしながら、2022年の後半に何を読むか決めていこうと考えている。
私たちはどこから来て、どこに行くのだろうか。
■注記
(*1)もちろん、どこで割り切ったのか、自分の理解と認識の範囲を覚えておくことが大事だろう。読んでいると「たぶん、この人はカントの著作を読まずに『もの自体』とか『ア・プリオリ』という単語のイメージだけに躓いて語っているな」と思うような議論が散見されるように思う。
(*2) こう書くと「もの自体」が実体として存在しているとカントが主張していたかのように読めるかもしれないが、そうではない。カントがはっきりと言っているとおり、あくまで「もの自体」が存在するかどうかは人間にはわからない。
人間は自分の持つ様々な感官器官から受け取る現象を受け取り、認識の枠組みの中で表象として、経験・概念化することができるのみであり、その現象がどこから来るのか、それが本当に存在するのか、存在するとしてどのような存在なのかはわかりようがない。なぜなら、私たちは私たちの内側から私たちの持つ認識の枠組みによってしか、世界を経験することはできないのだから。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?