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見るものと見られるもの:デカルト「方法序説」

「われ思うゆえにわれあり」あるいは「コギト エルゴ スム(cogito, ergo sum)」というような言葉は知っている人は多いと思う。

最近、AI・人口知能やシンギュラリティについての議論は少々下火になってきたように思うが、そもそも知性とはなんだろうか、人間の意識とはどのように生まれるのか、そもそも私がこうして、今、ここに生きている、というのはどういうことなのだろうか、と考えるにつけ、古の賢人を尋ねることは大事だと思い至り、父の書棚から借りてきたまま35年あまり手元に持っているデカルトの方法序説を、今年になって読み返してみた。

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時空を超えて、現代に生きる人こそ、いったん振り返ってみるとよい、名著だと、あらためて思った。

方法序説はデカルトが、「方法的懐疑」すなわち、少しでも疑いがあるものはすべて排除していきまったく疑いのない真実を探求する方法についてその探求の経緯と原則、そして、それよって知りえたことや未来への展開について触れた学術書でありフランス語で出版された。

学術書はラテン語で書かれるのが普通であった当時としては、革新的なことであったということである。またこの考え方によって導かれたさまざまな真実は、当時の通念や定説とは異なることが、出版をためらわせたということである。それでも、なおかつ、学問の世界にとどまらず、広い世界に向けてフランス語によって出版をしたのは、著者に次のような強い意志があったからなのである。第六部から引用すれば:

私はこれを隠したままにしておくことはできない。これを隠しておくことは、人間全体の一般的幸福を、かようなものが私どもの世界に存するかぎりは、これを獲得しなければならぬと命ずる掟に対して私は大罪を犯すことになると信じた。なぜならそれらの自然学的概念は、人生のためにきわめて必要な知識に達することの可能を私に知らしめたからである。

デカルトは、方法的懐疑によって、「見る人」と「見られるもの」を分割し、「見られるもの」を物理的世界として幾何学と数学と観測により客観的に普遍的にとらえることができることを理解し、現代に至る科学的方法の有効性を予言したのである。

デカルトは続けて次のように書く。

その概念から一つの実際的哲学を発見することができ、この哲学によって、火、水、空気、星、天の、その他、私どもをとりまくあらゆるものの勢力と作用を、私どもを判然と認識するのである。
かくてものものの勢力ならびに作用をそれぞれに固有な用法において私どもが用いることができ、私どもを自然界の主人にして所有者のごときものとなしうる。

150億光年といわれる世界の果てまで、またはブラックホールの中、そして、宇宙の始まりから終わりまで、どこでもいつでも同じ物理法則が適用でき、今私達がいる世界もそして私達の過去も未来も、どこの国の人であっても同じ概念と言葉で説明できる、というのは驚くべきことではないだろうか。その考えが正当であるから、科学技術は発達してきた。アメリカで作ろうが、中国で作ろうが、飛行機を設計することができ、飛ばすことができるのである。

私達をとりまく環境は複雑で予測しえないことが起こる。したがって、世界に対する素朴な考え方としては、その中に超自然的な存在とその意思を仮定するなどして、周囲の現象を説明し予測しようと試みる。「見る人」によって経験することも違うので理解も違い、一般的に成り立つ真の法則も見出しがたく、自然の予測やコントロールなどはおぼつかない。「見る人」と「見られるもの」とは分離することができず、日本で適用できることは中国では適用できない、あるいは今起こったことは説明できるが、将来の予測には役に立たない、私にはわかるがあなたにはわからない、ということになる。

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第1部で、デカルトは、数学・幾何学を除いたそれまでの学問は、神学、文学から医学に至るまで、そのような、「見る人」によって違うものだとし、それは、書物による学問をおさめた後に、外国に滞在し、さまざまなものを経験し見てきた中でも明らかであるとした。そこでまず、疑いが少しでもあることをすべて排除し、残った絶対的に正しいと思える原理を導き、再度、学問を再構成し、現代の科学の基礎を提示したのである。

「見る人」と「見られるもの」を分離するには、まず「見る人」を確立する必要がある。デカルトは第1部の冒頭にまず、次のように書く。良識はすべての人に平等に与えられている、すなわち、真理と虚偽とを識別して正しく判断する力が人々すべて生まれながら与えられている。これは重要な指摘である。もし、この力が平等で普遍的なものでなければ、「見る人」によって「見られるもの」が違うことが当たり前になってしまう。良識が等しく全人類に与えられ、共通であるから、全人類が等しく理解できうる学問を構築できるのである。私は知性と読みかえることができると考える。

もちろん、知性を持っているだけで正しく考えられるというわけではなく、正しく使うことが必要である。第2部では、次の4点が大事であると述べている。

1. 明証的に真であると認めることなしには、いかなる事をも真であるとして受け取らぬこと。(即断と偏見を避ける)
2. 研究しようとする問題のおのおのを、できうるかぎり多くの、そうして、それらのものをよりよく解決するために求められるかぎり細かな、小部分に分割する。
3. 思索を順序に従って導くこと
4. どの部分についても完全な枚挙を、全般にわたって余すところなき再検査を、あらゆる場合に行うこと

論理的に、分析的に演繹的に思考し、実験によって正しさの検証が必要ということであり、科学的手法が表現されている。

そして第3部で、方法的懐疑に基づいた2つの規律として、極端な意見や考えを排除すること、少しでも疑いのあることを真理として認めない、ことが必要であることが述べられる。そして、第4部に、このような方法によっても疑いえぬ第一の真理として「われ思うゆえにわれあり」と提示されることになる。これによって「見る人」が確立され、「見られるもの」は、万人が等しく理性によって見ることのできる客観的な対象として確立される。「見る人」それぞれのみが体験できる意味を持つ濃密な世界から、数学および幾何学によって記述が可能な、固有の意味を持たない空間と延長、物質を分離することが可能となったのである。その方法が普遍的なものであるはずであるからして、その進化の先に、「私どもを自然界の主人にして所有者のごときものとなしうる」可能性を見たのである。

第5部では、そのような理性が人間精神の持つ独特なものであるとし、動物の精神にはないものと考えている。人間と動物で持っている肉体の構造や臓器はまったく変わらないが、人間の言語や文化に相当するものを動物は持たないからである。神を完全なもの不変で普遍なものと考えたときに、人間の精神に神を発見し、曇りのない理性こそが神が人間に与えたものであるとデカルトは考えたようである。そして神は宇宙に法則を与え、宇宙は法則にしたがっている、とする。「見る人」と「見られるもの」を分離するうえで、その上位概念として神がいると考え、だからして神が存在するということになる。

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完全で普遍な唯一神がいるという前提であるからこその考え方であるが、この考え方そのものに対して懐疑を抱き批判的に考えて、解決しようと試み、科学技術の発展とは別に、学問としての哲学の中で、カント、ヘーゲル、ニーチェに引き継がれていくことになる。唯一の神がいると信じる文明によって見出された完全と普遍を目指す科学的な考え方によって、結果、神が否定されることとなるのであり、興味がつきないところである。

デカルトが提唱した科学的な考え方は普遍的なものであった。その応用範囲はデカルトの予言どおり非常に広く、まことに実用的であった。現代に至るまで、ますます適用範囲は広がり、それらの成功の中で、宗教と哲学は解体されていく。経験している世界が、客観的な対象として分割され普遍的な言葉で記述され理解されていくなかで、個々の意味を失っていったのである。しかし、人にとって、「見られるもの」は、依然として、それぞれの経験する世界で意味に満ちたものであり、個々の人間の限界の中で理解され、人は、世界との関係の中で、とりわけ、人と人の関係の中で、どうにもならない世界を意思を持った主体として生き抜いていくしかないのである。

よりよく生きるというのはよりよく考えることである。方法的懐疑の精神は現在でもかわらず必要なのではないかと思う。

わからないことや予測しがたい現象に対して、超自然的な存在やその意思を安易に仮定しないこと。
AIのような、直接私達に影響があり、なかつ理解が困難な技術を、安易に崇めたり貶めたりしないこと。
わからないことはわからないとし、普遍的な本質をわかろうとすること。

なにしろ、時空間に普遍的に通用する法則があり、私達には等しく理性があるからして、誰でも等しく理解して使いこなすことができるはずであるからである。

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他にも、たくさんの気付いたこと、重要だと思ったことがあり、書きたいところであるが、いい加減長くなったので、別の機会においておく。


※ Facebook に 2019 年 3 月に投稿したものを採録

Facebook link: https://www.facebook.com/tetsuro.shimamura.1 ← Facebook 連携がうまくなかったのでリンク貼ってみましたが、これでうまく飛べるんでしょうか。。。??


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