見出し画像

存在とは何かを問う存在:木田元「反哲学入門」

不思議なタイトルだと、一見、思うだろう。まず、反知性主義の本ではない。そして、哲学を否定する本でもない。ギリシア時代のソクラテスとプラトンから始まり、17世紀のデカルト、18世紀のカント、19世紀のニーチェを経て、20世紀はじめのハイデガーにいたる哲学の歴史をわかりやすくまとめた本である。

私は常々、科学技術に携わるもの、あるいはマネジメントに携わるもの、など、Knowledge Worker であれば、哲学とキリスト教を、触れるだけでもよいから勉強しよう、と言っている。なぜか。それは、現在の科学技術は西洋で育まれ、主に彼の地の人々が作り上げ、発展させたものだからである。そこには、自然や人間に対する独特の見方があり、その独特の見方を背景にして、科学技術の発展を見たからである。

17-18世紀のニュートン力学と産業革命、19世紀の進化論や電磁気学とそのほか書ききれないほどの進展、そして20世紀に入っての相対性理論と量子力学と遺伝子の発見につながっていく科学技術の発展と対応しているのは偶然ではないと感じる。

そして、マネジメントは、この科学技術の成功を、20世紀前後になって経営・管理の手法に応用して発展してしてきたものと考えられる。

さて、てっとり早く、そのような西洋の自然や人間、世界に対する独特の見方を概観しようと思ったら、お勧めできるのはこの「反哲学入門」だ。

とにかく読みやすい。平易な話し言葉なのでわかりやすいのだ。それに章立て、各節もまとまりがよい。編集者による著者のインタビューからテープを起こして、著者が手を入れ書き足したりしながら、1年余り、新潮社の「波」という雑誌に15回連載されたもの、これに一章ぶん足してできた、ということである。哲学とは西洋の文化圏に特有の考え方である。そのことについて述べた部分を引用してみよう。

人生観とか世界観とか道徳思想とか宗教思想とかと哲学とは無関係ではないまでも、けっして同じではありません。そういうものなら、日本にだってあたわけですが、誰もそれを「日本の哲学」とか「日本人の哲学思想」とは呼びません。そういうものが哲学の材料になることはあっても、それがそのまま哲学ではない。哲学はそれらの材料を組み込む特定の思考様式で、どうやらそれは「西洋」という文化圏に特有のものと見てよさそうです。
 では、どういう思考様式かというと、それは、「ありとしあらゆるもの(存在するもの全体)がなにか」と問うて答えるような思考様式、しかもその際、なんらかの超自然的原理を設定し、それを参照にしながら、存在するもの全体を見るようなかなり特殊な思考様式だと言っていいと思います。

つまり、現実に私たちが体験する世界は、常に移ろい、同じ体験は二度とないわけだが、すべてのものや事象には必ず普遍的で永遠に通用する実体と原理があり、それにのっとった原理原則と法則に理解し、ならうことで、誰であってもいつの時代であっても、必ずそのものや事象を得ることができる、という信念に基づいた思考法である。続けて引用してみる。

そのばあい、その超自然的原理は、「イデア」(プラトン)とか「純粋形相」(アリストテレス)とか「神」(キリスト教神学)とか「理性」(デカルト、カント)とか「精神」(ヘーゲル)とかその呼び名はさまざまに変わりますが、しかしどう呼ばれようと、生成消滅する自然を超え出た超自然的なものであるには変わりなく、それに応じて、「存在するもの全体」がそのつど、「イデアの模像」として、あるいは「純粋形相」を目指して運動しつつあるものとして、「精神」によって「形成されるもの」としてとらえられるわけなのです。

しかし、この独特の考え方は、一方で科学技術を発展させ現代の社会を築く礎となったが、他方で、ものの見方は硬直したものとなり、独善的になっていく。究極の真理が、もし、あって、それが世界のどこでも通用し、過去から未来に永遠に通用するものであるならば、それ自身は変化も変形もしないものになるからである。すなわち、もはや生きたものではなくなり、私たち生きるものの実感や実体と、かけはなれてしまうのである。

しかし、西洋の知は、そのような硬直し独善化した知を、自ら批判し、乗り越えていくべく運動していく。

ここでも、中村雄二郎著の「哲学の現在」が参考になる。

真理へと私たちを導くという理性の名のもとにまかりとおる固定した教義や形而上学の不毛なことを、理性そのものの自己革新能力によって照らし出したものであった。つまり、惰性化した古い理性に対しての活動的な新しい理性からの批判、理性による理性の自己批判でもあった。

ここでいう「批判」というのは、私流に言い換えると、「よく考える」である。科学技術は常に自然に働きかけ、現象と照らしあわすことで、常に批判的に自己改革を行い、そのループを繰り返すことで、私たち人間が働きかけることのできる範囲と、制御しようとする現象の精緻さを広げることができた。

これを「批判哲学の立場」とした。中村雄二郎は、哲学による硬直し独善化した知を批判的に乗り越えようとする、そのような動きとして、さらに以下の3点をあげる。

・ 観念や精神といった形式よりは、物質や素材を自ら運動するものとして積極的な意味を見出す「唯物論の立場」
・ 真理を専門的な学問の世界のものとせず、行動とその効果との関係から、実用主義的な観点から捉えなおす「プラグマティズムの立場」
・ 主観と客観という静的な見方ではなく、世界の中に生きる主体として、選択し決断し、世界に働きかける、そのような主体性を真実とする「実存主義の立場」

批判哲学の立場であれば、哲学は、常に反哲学であるわけだが、木田元が「反哲学」とあえて言い、この「反哲学入門」での話の軸になっているのは「実存主義の立場」からである、と理解できる。

さて、哲学書を読んだり、理解しようと勤めたときに私たちが躓く点としては、まず用語である。私たちは、言葉を論理的な定義を理解しないまま、字面や言葉の響きから自分の都合のよいように解釈して、安易に使うことが多いのではないかと思う。哲学という単語だけでなく、理性という単語もそうだ。

われわれ日本人が「理性」というのは、われわれ人間のもっている認知能力の比較的高級な部分、しかしいくら高級でも、やはり人間のもっている自然的能力の一部ですから、生成消滅もすれば、人によってその能力に優劣の違いもあります。
だが、デカルトの言う「理性」はそんなものではありません。それは、たしかにわれわれ人間のうちにあるけど、人間のものではなく、神によって与えられたもの、つまり神の理性の出張所ないし派出所のようなものなので、したがってそれを正しく使えば、(中略)すべての人が同じように考えることができるし、世界創造の設計図である神的理性の幾分かを分かちもっているようなものだから、世界の存在構造をも知ることができる、つまり普遍的で客観的に妥当する認識ができるということなるわけです。

まず、我々が経験する現象から普遍的に永遠に通用する法則を見出す。そして、そのような物理化学法則と数学に基づいて設計され、同じ設計図に基づいて同じプロセスで作られたものは、世界の誰が設計して製造しても、同じものができる。そのように考えるわけだ。

プロジェクトの定義は次のようなものである。

「独自のプロダクト、サービス、所産を創造するために実施する有期性のある業務」

独自であるために、通常業務の範囲では困難なものであり、だからして様々な部門からリソースが集められ、限られた予算のなかで期限付きで実施される。通常は一回きりであり、リスクのみならず不確定要素も多く、したがって、それまで経験したことのないような突発事項も多い。そうであっても、どんな人が担当しても再現性の高い成功のプロセスはあるはずである、と考え、要素に分解し分析し、概念化して一般化する。こうして、プロジェクトマネジメントが生まれる。それは普遍性があり、人間には等しく理性があるからして、世界のどこで実行しても同じ結果が得られるはずである。科学技術のように。

このようにしてグローバル企業が生まれるのだろう、と私は思った。

さて、著者はこの本の最初のほうで、哲学の根本問題は「存在とはなにか」を問うことである、と指摘し、丸山眞男の、創造されてなる、生まれてなる、なりいでる、という世界のありように関する三種の考え方について、言及している。つまり、上の哲学の考え方は、世界が創造されてあるものだ、という信念、あるいは信仰に根ざすものであるであると考えられるのだ。作られてあるからして、それ、たとえば物理法則は、美しくあるべきであり、作られたものであるから目的や意味がある。また、ものや現象は要素に分解したり、逆に要素から構成することができる。そのように考えられるのだ。

ちょっと長くなったので、つたない議論はこのへんで止めておいて、また、後日に同じテーマで、視点を変えて、続きを書いてみたいと思う。もっとわかりやすい文章で書けるようになっていることを期待しよう。その間に、考えが変わるかもしれない。自らの硬直化した考えを、自ら批判的に考え、乗り越えていくことが大事なのだ。もう一度書くが、ここでいう「批判的に考え」は、「じっくりとよく考え」と同義である。

さて、10年前かそれ以上になるか、だいぶん以前になるが、私と一緒に働いてくれていた若い技術者に、期末の成果面談の際に「本質をついて視野を広げるには哲学書を読むといいよ」と勧めたところ、「お勧めの本を教えてください」と返されたことを思い出した。

デカルト「方法序説」、今私自身が取り組み中の2冊、カント「純粋理性批判」とマッハの「時間と空間」もよいが、そのときに勧めた一冊は、久しぶりにじっくり読み返したいポワンカレ「科学と仮説」であったと記憶している。

「反哲学入門」は2007年に刊行された。もし、そのころに読んでいたら、むしろ「反哲学入門」を勧めていたことだったろう。どんな方にもお勧めできる一冊である。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?