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絶対からの解放:エルンスト・マッハ「時間と空間」

今年の6月から、カントの「純粋理性批判」を読んでいる。上中下の3巻構成の上を読み終わり、中のちょうど中間地点くらいだ。カントは、直観と悟性そして理性の働きを批判的に考察し、物質の客観的な実在や認識のありかた、そして概念の形成と分類を論じることを通じ、理性の限界を理性によって明らかにしようとしている。全部を通じて読み終わるのは、来年の中ごろまでかかるだろう。

11月の初め、もう2ヶ月前になるか、ふと、本棚を見ていたところ、35年前に父親の書棚からこっそり抜き取ってきたマッハの「時間と空間」が目にとまったので、この1ヶ月くらいか、平行して読んでいる。

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これはなかなかタイムリーであった。最初にパラパラとめくったときは、そのときに少し考えていた鏡像に関して、私が考えていたことと同じことが書いてあり、そこに偶然とは思えない何かを感じ、手元において平行して少しづつ、大事なところを抜書きしながら読んでいる。


カントの没後約100年、その間に飛躍的に進んだ数学と物理化学の理解から、あらためて人間の認識に関して考察しなおした時間と空間の理解の仕方に関して、あるいは私たちの直接の経験、直観と概念の関係が、わかりやすく書かれている。たとえば、次のような感じである。

人間の生理学的構造に根差して空間直観が生ずる。物理学的な空間経験の理念化を通じて幾何学的諸概念が発達する。獲得された概念的素材を論理的に整序することによってついには幾何学の体系が作り出される。
(略)
われわれがごく幼い自分、意識がすっかり目覚めきった時点には、われわれはすでに、自分を取り巻き自分の身体を囲っている空間の表象を所有しており、その空間内ではさまざまな物体が、あるものは変化しながら、またあるものは大きさも形態も変えずに運動を行っている。いかにしてわれわれがこのような表象に到達したのかを示すことは、できない相談である。

まさしくこれはカントが長々と論理を駆使して分析して言わんとしているところである。マッハのほうが分かりやすいのは、生理学的空間の記述や、例にあげてある幾何学の例、また、空間の測定の起原についての議論も、具体性が高いので、納得性が高いところにあると思う。

さて、デカルトが方法序説により「我思うゆえに我あり」とし、「見るもの」と「見られるもの」を明確に分離し、対象を直交座標による絶対空間と絶対時間の中に位置づけたのが1637年であり、ニュートンが1642年に生まれる。ライプニッツと同時期に微積分学を確立し、万有引力の法則およびニュートン力学を発表したのは 17世紀の後半であり、方法序説の約50年後であった。

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そうして、力学的世界観のもとで、産業革命がおこったのが18世紀の中ごろから19世紀にかけてであり、カントが生きた1724年から1804年とは、そのような時代であった。

「我思うゆえに我あり」-人間理性を第一の出発点として、絶対空間や絶対時間の実在、物質と精神の実在、を主張し、科学万能論をもとに、実際に人間の外にあるものを道具と機械によって変革し、人間理性の思いどおりになんでもできるという考え。あるいは、人間理性は唯一の存在であり、物質世界はすべて幻である、という考え。これらの思想に対して、理性が本来理性を適用できない領域に自らを適用した例であり、誤謬であるとして、批判を加えた。

「我思うゆえに我あり」を否定し、絶対空間や絶対時間というのは外にあるのではなく人間の持つ認識の形式であることを示したのだ。カントは理性の限界を理性による論理展開によって明らかにしようとしたまでで、非ユークリッド空間の可能性について明確に言及はしていないが、カントの議論は、ユークリッド空間を前提としていない。この思想は、ドイツ観念論に継がれていく哲学だけでなく、自然科学にも大きな影響を与えたのではないかと想像する。

カントの約50年後、1777年から1855年に生きたガウスは数ある革新的な数学・物理の業績の中に、当時は発表されなかったが非ユークリッド空間の可能性を示した。デカルトとニュートンの関係のようだと言うと、ちょっと言いすぎかもしれない。

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そして、1801年に生まれ1879年に没したマクスウェルが電磁気学を確立したのは19世紀中ごろである。ほぼ同時期にリーマンがリーマン幾何学を、ロバチェフスキーがロバチェフスキー空間を提唱し、空間の概念を拡張したのだ。これらをふまえて、マッハがこの「時間と空間」に収められた論文を発表したのが1900年の初めである。アインシュタインが相対性理論を構築する際にマッハに強い影響を受けたといわれるのは広く知られるところである。また、マッハの思想は、当時の哲学者や科学者に大きく影響を与え、その後のウイーン学派の結成のきっかけとなり、論理実証主義につながり、20世紀のヴィトゲンシュタイン、ゲーデルへとつながっていく。


マッハは言う。

われわれが生理学的空間の分析を進めて行く際に出会う主要な困難は、以下のような所にある。それは、われわれがこの主題について考え始める時、教育を受けた人間としてすでに科学的・幾何学的表象を身につけており、いつでもこの表象を自明のものとして受け取っている、ということである。(略)この分野を研究する人は、偏見のない見方に達するために、作為的に素朴な立場に身を置き、まずもって多くの習い覚えた事どもを忘れるように努めねばならない。

私たちが様々な直観を通じて経験する現象は、空間と時間という枠組みの中で認識される。

世界は、創られたものでも、生まれたものでもなく、そこにあるものであり、人間は現象を直観することしかできない。そして人間の持つ限界にしたがってそれを経験して認識する。

これらの経験と認識が概念化されて、人間の外部に具現化することで、計測したり加工するなど、人間の生体の限界を超えて世界に働きかけ、その世界でより広く通用する概念が発達していく。このようにして、経験し認識できる現象の範囲が広がり、したがって、さらに広く通用する概念が発達していく。つまり、私たちが働きかける空間的な時間的な範囲が地上から地球へ、そして宇宙へと、広くなればなるほど、そこで得られる現象を説明するために修正が必要となる。また、分子から原子へ、素粒子、そして標準模型の素粒子へ、より精密で微小な部分に働きかけることになるとその段階ごとに修正が加えられていくのだ。


ちょっと理屈っぽくなったし、まだまだ私の理解不足のところもあるに違いない。だが、17世紀から現代に到る思想の流れと、19世紀の自然科学の爆発的とも言える発展、それを受けた20世紀の知のありよう、これらを理解することは、私たちの未来をよりよく生きることにつながるのではないか、と思っている。

A.I. 遺伝子工学などが発達していくこれからの社会は、私たちとは誰なのか、知性とは、理性とは何なのか、生きる意味や働く意味はどこにあるのか、こういった古からの答えのない根源的な問いを私たちに突きつけるものだからである。


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