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鏡像の敵:Jim Holt ”When Einstein Walked with Gödel”

前々回の11月2日もこの本を紹介した(note記事)が、この本は、アインシュタインとゲーデルのエピソードとそのほか数学や物理学そして哲学を少し、全部で39のエッセイが収録されている。そのなかで "The Looking-Glass War" と題する3ページほどの小エッセイが収録されている。「鏡は左右を反転するのに上下を反転しないのはなぜか」という問いに関するエッセイである。

みなさんは、なぜ、鏡は左右を逆転するのに上下を逆転しないのか、と聞かれてすぐに答えられるだろうか。それほど難しい話ではないのだが、改めて問われると考え込んでしまう人も多いかもしれない。

これは左右の定義の問題であるのだが、生まれつき左右の区別がつきにくい人もいるらしい。


私は、左右はまぁ、区別がつくけれども、右回り左回りと言われると、「時計回り」か「反時計回り」かそのように言ってくれないとわからなくなってしまう。しかも「どちらに向いて」という情報が入らないと落ち着かない。これは少々理屈っぽいだけだからかもしれない。右ねじ左ねじ、そして、右手座標系と左手座標系、という話である。回転操作と鏡像変換、そして左右の区別がどこからきているのか、この点がわかると、鏡の左右と上下の差の問題もわかると思う。

鏡は前後の向きを反転しているだけ、というのが正解といえば正解なのだが、実は、前後の向きが入れ替わっている鏡の中の像は「左右を入れ替えて上下を入れ替えない」とも言えるし、「上下を入れ替えるが左右を入れ替えない」とも同等に言える。後者は私にとってはちょっと発見であった。が、すべての「入れ替える」の用法が、回転による向きの入れ替えでなく、鏡像変換による向きの入れ替えであることに注意する必要がある。

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実際にはできないことだが、鏡の中の空間にもう一枚鏡をおくことを考える。

第一の鏡の面に垂直で「体軸」と平行な面に第二の鏡を置くと、第二の鏡によって映された第一の鏡の像は、鏡像の私ではなく私である。これをもって第一の鏡の像は左右をひっくり返った像と言ってもよい。通常、鏡を見て左右がひっくりかえっていると認識するのはこのように理解することができる。第二の鏡で左右を逆転することでもとに戻るのだから。
また、第一の鏡の面に垂直で、「体軸」と垂直な面に第二の鏡を置くと、やはり第二の鏡によって映された第一の鏡の像は、鏡像の私ではなく私である。逆立ちしているけれども。これをもって第一の鏡の像は上下をひっくり返した像だといってもよい。

なお、ここで「体軸」とは、人間が地面に正立したときに、頭と足をむすぶ、地面と垂直な軸としている。

3次元ユークリッド空間の鏡像変換の行列を作って確かめると簡単にわかる。私とちがって、数学をきちんと学習した人ならば、上のような議論は基礎的な話で常識レベルだと思う。私の手にはあまるので、次元を一つあげれば回転操作と並進操作によって鏡像変換が作れる、とか多次元空間での多次元平面による鏡像変換の場合、といった一般的な場合の取り扱いに関してはここでは問題にしない。

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さて、この小エッセイ"The Looking-Glass War"にも書かれているが、左右の区別というのは非常に微妙で、すでに指摘したように、大人になってもうまく区別つかない人がいるように、子供のうちに覚えるのに苦労する人も多い。そして、多くの人が、左右を間違えたこともあることだろう。前後と上下は身体的に大きな非対称性があるのですぐに覚えるが、左右は自覚できる非対称性が小さいので、前後と上下の方向を基準に相対的に習得するのが普通であるからである。空間にはあらかじめ決まった前後上下左右があるわけではない。人間が区別するのである。

この間、家の本棚を見ていたら、これもだいぶん昔に読んだエルンスト・マッハの1905年の著作「時間と空間」が目につき、これも今年から来年にかけて、カントの「純粋理性批判」中巻と平行して読むことにした。ぱらぱらぱら、とぼんやり読み返していたら、なんと、上の議論が扱われていることに気がついた。なんという偶然であろう。

マッハといえば、超音速の速度の単位で有名だが、物理学から心理学、生理学、そのほか、幅広い分野に大きな影響を与えた。マッハの哲学と認識論は絶対空間を否定し、非ユークリッド空間による物理法則の可能性を指摘し、ニュートン力学の批判をもって、アインシュタインに影響を与えたという。まことに知の巨人といえる。「時間と空間」も約35年ぶりだが、どう読めるか楽しみである。

鏡像といえば、SF作家の神林長平も鏡像を取り扱うことが多く、戦闘妖精・雪風(note記事)でも登場する。

零はマーニーの言葉に、忘れていたことを思い出しかける。鏡、鏡像反転、D型・・・α-アミノ酸。L型の光学異性体だ・・・・零ははっきりと思い出す。たしかマーニーはそう言った。マーニーを見つめる。この女の身体はおそらく、L型アミノ酸で作られたタンパク質ではない、D型ポリペプチドでできた、分子レベルで鏡面反転した逆向きの、人間ではない、化け物だ・・・本当にそうなのか。

神林長平には他に、ずばり、「鏡像の敵」という作品がある。これも面白い。

ところで、私は、人の顔の区別を認識する能力に欠陥があるらしく、全然知らない人を知っている人と思い込んで話しかけたりして、大恥をかくことがこれまでも何度かあった。つい、この間もやってしまった。。。

さまざまな感覚器官からの直観から経験・認識に統合する過程において、若干欠陥のある人は相当数いるのだと思われる。


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