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生命のはずみ・5:ベルクソン「創造的進化」第三章 生命の意義について

ベルクソンの「創造的進化」を読み始めたのが7月(2022年)の初旬、一日5ページくらいの割で読んでいて、章の終わりごとに note に思ったところを投稿しつつ10月末に読了予定としている。

7月頭にたてた計画では先週の日曜日に第三章を読み終わって記事を書く予定だったが、一週間の遅れとなった。とはいえ、計画では読了までに2週間ほどの余裕を見ており、そのうちの1週間を使ったわけで、まだ1週間の遅れがあっても大丈夫だ(*1)。

さて、第三章は「自然の秩序と知性の形式」という副題で、一章・二章を受けて生命活動についてさらに深堀し、知性が世界を認識する形式、すなわち物体、空間、時間を考察し、あらためて生命の流れと衝動のなかにおける人類と知性の位置づけに立ち返る。ところどころ思弁的で観念的、そして多くの部分を占める比喩を用いた説明が、ところどころ理解しがたい部分を残すが、これまでの章と同様に博物学・生物学の当時の知見を具体的に参照しながら、物理学とくに熱力学に言及し、全体としては読みやすく理解した気分にはなれるのがいい。20世紀の夜明けには、すでに広い分野で科学の知が深く蓄えられていたことがよくわかるし、20世紀の科学の飛躍的な発展を予見しているようにも読め、深読みかもしれないが、当時の雰囲気を感じとれる気がする。そんなところが面白く飽きさせない。

第二章を復習すると、知性を本能と比較することを通して、知性と本能それぞれが「意識」一般とでも呼ぶべき同じ下地から分化して浮かび上がったものと捉えるべきであり、知性も本能も、複雑化していく生命のあらゆる形態のなかで、生きていくための手段の一つであると考えた。

第三章では知性の具体的な手段についてさらに考察する。すなわち、直観された世界をある時間の瞬間々々の断面として捉え、空間を境界によって分割して物として捉え、意味を見出し名前をつけて概念化し、概念と概念の因果関係という枠によって過去と現在のそれぞれの断面を繋ぎ、未来においても世界のどこででも同じ関係が存在するという信念のもとに将来を予測しつつ、あるべき将来の断面から逆算して運動する(世界に働きかける)、そのような一連の働きであると考えるのだ。

だから知性の働きの傾向は、より細かい時間単位で分割する方向で、より細かく空間を分割していく方向だ。さらには、時間軸においても空間の拡がりにおいてもより普遍的に適用できるように概念を形成していく。

しかし現実の世界を素直に見てみれば、物体と物体との間の境界は曖昧だし、どの物にしても一つとして同じ物はない。そして、同じ物体も時間とともに絶え間なく変化していく。特に生命が宿る物体は、長い時間の中で時には不連続な変化もする。そして、人間の考えるような収束する秩序とはむしろ逆に発散して複雑化していく方向に秩序が形成されていく。

では、秩序とはなんだろうか、という点も反省してみるべきだろう。

私たちの世界が複雑化しながらも自然にエントロピーの低い状態が形成されるという意味での「自然に形成された秩序」と、私たちがこうあるべきだと考える世界が実現されているという意味での「形成されるべき秩序」とは分けて考える必要があるということに、本書を読むと気が付かされる。

後者は知性が生み出す認識としての秩序だ。つまり他ならぬ私たちが生存していくために形成されるべき秩序なのだ。だからこの種の秩序は、私たちの、私の、生存欲求によって要求される。

だから、ベルクソンは繰り返し主張する。生命の流れは複雑化と自己組織化を止めることなくたゆまなく物質世界を貫いており、人間の知性もその中の一つの形態としてたまたま現代に現れ、たまたま生存のために非常に有効な一手段であっただけなのだ、と。

偶然の果たす積極的な役割を見出していることがさりげなく触れられていることも見逃すことができない。

複雑系や開放系のなかでの自己組織化や偶然による進化、複製と誤りによる情報量の増大、といったことについて、衝動、はずみ、あるいは創造の要求、という概念を持ち込むところは当時の知見の限界が見える、と言ってしまうことは簡単だが、現在の最先端の科学についてぼんやりと知っている程度の単語を振り回している現代の私に対して、比べることのできないレベルの強くて深い知性の働きに感動するばかりである。

そして、今が到達点でもなければ人類が最高形態というわけではないことが繰り返し指摘される。かといって超人類とか神、あるいは超生物のような存在の出現の可能性、そんな予言めいたことはほとんど触れられていないし、そのことは大事ではない。

生命による絶え間ない創造がこれまでと同様にこれからも持続していく、ということが重要なのだ。


意識・知性・直観について、物質・空間・時間について、第三章を読んで理解したところをなるべく私の言葉で書いてみたが、まだまだ未熟でわかりにくい要領を得ないものとなってしまったと思う。ベルクソンやその他の偉大な思想家の捉え方や概念を、わからないながらももっと深めて整理していきたい、と改めて思うところだ。


私たちはどこから来て、どこに行くのだろうか。



■注記

(*1) クリティカルパス上にある各工程に余裕を持たせずに日程を詰め詰めにつめておいて、全体の最後に締め切りに対して一定期間の余裕を持たせておく。

つまり、各工程で1週間ずつ余裕をみると、1週間×工程数の余裕が見込まれてしまう。その変わりに全部を余裕なしで詰めて計画して、日程の最後にある程度、例えば1週間×工程数の5割程度の余裕をプラスしてとっておくわけだ。

この余裕は全ての工程が共有する余裕となる。

そのようにしておけば、クリティカルパス上の各工程に遅れが生じても、その遅れの合計が余裕日数以内になるようにコントロールすればよい。予定より早く終われば余裕日数が増える。つまり「余裕日数がどれだけ残っているのか」を管理していけば、日程が短縮された計画になるうえ、計画の見込み違いに対しても強くなるわけだ。

もっとも、それぞれの計画の精度が高くないと破綻するのは、いずれにしても変わらない。しかも、根拠のない楽観論で詰め詰めにつめた日程よりもさらに前倒しを要求されて、余裕があるどころかすでに納期に間に合わないのにエイヤで契約されてしまい、あとは各自の工夫と気合でなんとか乗り切れ、となってしまうのが世の中の摂理であり、実際にはなかなかそう上手くはいかない。

とはいえ、日ごろからこのようなスケジュール感覚を持つようにしておくと、仕事もしやすくなると思う。


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