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井筒俊彦「イスラーム文化・その根底にあるもの」

私達が世界3大宗教を挙げてみよ、と問われれば、多くの人は「イスラーム教」「キリスト教」「仏教」と答えることだろう。他に「儒教」や「ヒンズー教」などを挙げて4大宗教、あるいは5大宗教という人もいるだろう。

ところが、イスラームの人にとっては違うということである。すなわち「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」である。

視点によって、こんなにも見え方が変わるものだ、という良い例だろう。

自分の政治音痴・安全保障音痴を少しはなんとかしようと、今年に入ってから入門書を読み始め、末近浩太著「中東政治入門」を読んだ。そして、中東を読み解くにはイスラームを理解する必要があると改めて思い、先週の4連休中に、本書、井筒 俊彦著の「イスラーム文化・その根底にあるもの」を読了した。

イスラーム共同体としての社会と価値観、多様な民族、そして西欧による植民地支配と政治と宗教に対する考え方、現代の国際社会における「国家」という単位、グローバル化していく資本主義と経済活動、これらの矛盾によって現代の中東での様々な問題が引き起こされていると考えることができるのではないだろうか。そのように考え、本書を手に取った。

読んでみると、目からウロコとはこのことかと、やはり、知っているつもりで知らないことばかりであった。

1981年の3回にわたる講演をまとめたものだというが、著者の声がじかに伝わってくるような感があり、読みやすい。一般に、講演をまとめて出版されたものは親しみやすく、分かりやすい。入門書として多くの方に読んでもらいたい本だと思った。

ちょっと長くなるが、「はじめに」から引用しておく。

イスラームとはいったい何なのか、イスラーム教徒(ムスリム)と呼ばれる人達は何をどう考えているのか、彼らはどういう状況で、何にどう反応するのか、イスラームという文化はいったいどんな本質構造をもっているのか、ーそれをわれわれは的確に把えなければならない。それがはっきり主体的に呑みこめないかぎり、イスラームを含む多元的国際社会なるものを、具体的な形で構想したり、云々したりすることはできないからであります。イスラームという宗教の性格、イスラームという文化の機構が根源的な形で把握されてはじめて、イスラームはわれわれ日本人の複数座標軸的な世界意識の構成要素としてわれわれのうちに創造的に機能することができるようになるでありましょう。


どうだろうか、現代でも十分に通用する視点、いや、ますます重要になった視点だと思わないだろうか。

さて、上に述べた理由で、本書は、1. 宗教、2. 法と倫理、3. 内面への道、と題された3章でまとめられている。まず、イスラームの宗教について、成り立ちや思想について解説される。そして、イスラーム法について解き明かされ、最後に、主流のスンニー派とはまったく異なる考え方となるシーア派やスーフィーについて取り扱う。

第1章を読むと私達の持つ宗教観がまず覆されるであろう。また、キリスト教との共通性と鋭く対立する部分とが理解できる。第2章においては、政教分離について考え直すことになるであろう。そして、それが西欧型の政治と相いれないことが理解できると思う。第3章においては、スンニー派とシーア派の違いについて宗派の違いというよりも、根本的な考え方の相違として、コーランに書かれているところの「外面的」な展開と「内面的」な展開という軸で理解できることと思う。

そして、本書を通じて著者の視点は一貫している。すなわち「イスラーム文化は究極的には『コーラン』の自己展開であり、イスラーム文化は『コーラン』のテクスト解釈と切っても切れない縁で結ばれている」という視点を軸に展開されている。

さて、私の目から落ちたウロコのなかから何点か、つらつらと書き留めておきたいと思う。

まず、上述した「イスラーム文化は究極的には『コーラン』の自己展開である」という視点だ。

コーランはよく知られているとおり、単に世界についての考え方や信者の作法を定めただけではなく、生活のすみずみの作法や処し方、商売や金融、政治までに及ぶ。イスラーム法の成立は、コーランとともにハディースと法学者による解釈・整備によるものであるが、立ち返るところは唯一無二の聖典としてのコーランだ。

だから、イスラム教にとって、世界は、「聖なるもの」によって一切が浸透された世界であって、この存在界への神の介入がすなわち歴史だということになる。ちょうど、P.K. Dickの「聖なる侵入」を読んだばかりだったので、このような見方はツボだった。ディックの目が、ユダヤ教ではなくイスラム教に向いていたら、イスラム色の強いストーリーになったかもしれない。


イスラームにおける死生観については、単純に知らなかったので、興味深かった。特に終末論や最後の審判、魂や肉体の復活という考えはキリスト教特有の考え方だと誤解していた。簡単に書くと、人生は一回きり、そこで行った善行、悪行はすべて記録され、人は一度死ぬ。やり直しはきかない。そして終末の時に、肉体とともに復活し、神の裁きによって、現世の行いによって来世が決まる、ということだいう。本質的に来世も含んだ世界であり、だからして、現世を真剣に正しく善く生きよ、ということになる。では、正しいこと善いこととは何か、ということになると、コーランに書いてある、ということなのだろう。

また、因果律についての考え方も面白かった。もし、神が唯一にして全能であるならば、事物の関係に因果律というような関係は考えられない。空間的にも時間的にも世界は互いに内的の連絡がなく、バラバラであって、神の意志が反映されているだけである、と考えるのだそうだ。だからカルマもなければ因果応報もない。世界は神によって創造されるものであって、創造は最初の一回で終わるのではなく、どこまでも瞬間ごとに世界が新しく創造されていく。このような考え方は「イスラームのアトミズム」というのだそうだ。

因果律というのは、3次元空間と時間という認識の枠組みを持つ人間が、感官器官を通じて受け取る現象を概念化する枠組みである、というのはカントが説いたところだが、入口となる思想・世界に対する見方がまったく違うことがわかることだろう。・・・というようなことは、もう少しよく考えてみたいと思う。

すなわち、そのような唯一絶対な存在としての神は、人間の理解を超越していて、人間にとって無限に遠い存在であり、本来、人間と意志を通じ合う人格的関係を結ぶことはできないはずである。しかし、そのような神と人間をつなぐのが預言者であり、計り知れない神の意志を人間の言葉にしたものが預言書ということになる。だからコーランは人間と神をつなぐものであり、コーランと信仰を通じて人格的関係に入ることができる。そして、人間の社会の中ではコーランがイスラム法として体系化され、制度化され、実践されていく。イスラームの世界ではそのような考え方が基本になるということである。

神と人間の間のそのような関係から、人は神の前で平等であるというのは自然である。預言者ムハンマドでさえ、自分は「めしを食い、市場を歩き回るただの人間である」とする。だから、イスラム教においては僧侶、聖職者という特別な階級はないという。全員が神を唯一の主人・支配者とし、他の何ものにも支配されないのだから。

すべてが神の意志のままであり、自分の仕えるものは神のみである、と考えるのは究極に不自由だと思うかもしれない。しかし、一方で、無法な上司や無茶ぶりする同僚に隷属することもなく言いたいことも言えばいいし、自分の欲望に振り回されることもなくなる。どんな運命だって受け入れるのであれば、何をしたっていい。コーランの命ずるところさえ守っていれば。となると究極な不自由を認めることで、究極の自由を得ることもできるわけだ。・・・ちょっと行き過ぎかもしれない。とても面白いと自分では思ったが、もう少し考えてみる必要がありそうだ。

さて、冒頭に世界3大宗教について触れた。イスラームの人にとっては「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」である。

それらはアブラハムの神を受け継ぐセム的一神教または啓示宗教( Wikipedia )であり、「存在界を無から創り出し、創造主の資格においてそれを絶対無条件的に支配する生ける神、唯一無二の人格神のほかは一切の「神」を他に認めない宗教」ということが共通点だ。

ただし、言い方はちょっと極端で正確ではない。たとえば善と悪の2神を信仰し火を崇めるゾロアスター教も認められている。これは、彼の地で古くからあり広く信仰されていた宗教であり、イスラーム他の啓示宗教に大きく影響を与えた宗教として、配慮されたものなのだろう。実は、認めるのか認めないのか、という根拠はコーランなのだ。

コーランによって認められているそれらの宗教は、重い人頭税が課されるものの、イスラームの支配地域では保護の下におかれる。反政府活動や争乱・煽動などの目立ったことをしなければ存在を認められるということだ。また、重要な収入源となっていたために、積極的に改宗を勧めなかったということである。

では、その他の宗教の民衆はどうなったのだろうか。それらの人々は異教徒とされ、改宗するか、さもなくば死、ということだったそうである。

私達日本人は、「宗教」という言葉を私達は日常なにげなく使っていて、上にあげたような宗教のほかにも身近に宗教団体はたくさんある。宗教法人数は、政府の統計調査によれば18万強(2019年)、なんと全国コンビニの5万5千軒強の3.3倍だ(*1)。

現代日本に住む私達の宗教観が、西欧やイスラームの人々の宗教観と大きく異なることは、「異教徒」を考えるとよくわかるな、と考えた。

だから、私達が「宗教」という言葉の意味するところは、イスラームの人達とまったく異なるという点も、なるほどと思わされた。要約して引用しよう。

私達の頭にはすぐ神聖という言葉が浮かぶ。私達にとって存在そのものが聖なる次元(神の国)と俗なる次元(人間の国)とにきっぱり二分される。
・空間的には、例えば神社仏閣などの聖域。人間の日常的、世俗的生活が営まれる場所とは特別の、神聖なところとして截然と区別される。
・時間的にも神々の時間と人間の時間、聖なる歴史の流れと俗なる歴史の流れが区別される。

ところが、イスラームという宗教では存在に聖なる領域と俗なる領域とを、少なくとも原則としてはまったく区別しない。生活のすべてが宗教。
・イスラームでは宗教はいわゆる聖なるもの、存在のある特殊な次元としての神聖な領域だけに関わることではない
・世俗的、俗世間的と考えざるをえないような人間生活の日常茶飯事まで宗教の範囲に入る。


もう一つ、ペルシャ人とアラブ人、そしてトルコ人やクルド族などの他の民族を一緒にしてはいけない、ということも改めて意識した。中東とイスラーム、中東とアラブ、アラブとイスラーム、それぞれを混同してはいけない。本書によれば、「アラブとイラン人(ペルシア人)ーイスラーム文化を文字通り代表するこの二つの民族はあらゆる点で対蹠的」「その世界観、人生観において、存在感覚において、思惟形態において、アラブとイラン人とは多くの場合、正反対の性格を示す」ということだ。そこが、スンニー派とシーア派の相いれない根深いポイントだと理解できた。

しかし、それもコーランに帰る。どんな次元で、どんな分野で、どのように解釈したか、そしてそれをどんな形で実践に移し、制度化していったか、そのバリエーションということになる。

イスラームの決定的な特徴としては、普遍性と世界性である、と著者は説く。しかしながら、西欧社会、あるいは私達が馴染み深い現代日本の考え方とあまりに異質であることがわかる。近代から現代において中東で大きな問題が発生し、私達にそれらが理解しにくいのは必然と言えるかもしれない。

このようなイスラム教が、インドネシアやマレーシアといった国々でどのように展開され、歴史と社会を作って来たのか興味がつきないところだ。


私達はどこから来てどこに行くのだろうか。




■注記

(*1) 実は私は、ずいぶん昔に読んだ記事で「宗教法人の数は、全国の理容室(床屋)と美容室(美容院)の合計より多い」と覚えていたのだけど、改めて統計調べてみたら違っていた。やっぱりFact checkは大事だと改めて思った。
 2020年で理容室が12万件弱、美容室が25万件強。それにしても宗教法人の数は多い。
 ちなみに、理容室と美容室を区別するのは、法律上それぞれのできることできないことが区別されているからで、だからして、免許も異なる。
私の行きつけの京都の床屋さんは、ご主人が理容師免許、奥さんが美容師免許を持ってらっしゃるので、両方OK。



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