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vol.129「『風立ちぬ』と『三四郎』の共通点。悲劇性こそが名作を生む。」

引き続き、宮崎駿監督についての雑談です。

宮崎作品の登場人物を、三語であらわすと「子ども」「女性」「独立」ですす。主人公の大半は子ども~少年。ほとんどが女性、または男女のペア。重要人物は、ほぼ必ず「力量ある女性」。「強い女性像を描く」のはライフワーク的なテーマなのだろうと想像します。
はぐれた王族か海賊か、無法者か、一匹狼か、だから「独立」は「孤独」、「孤立」と言い換えてもいい。
主要人物でほとんどいないのが男性サラリーマン。「大人」「男性」「従属」。真逆の三語です。例外は『風立ちぬ』、宮崎作品ではじめて、主人公が「男性」「サラリーマン」「実在の人物」でした。
ただし変人天才タイプだったから、そもそも宮崎監督が、ニッポン型のサラリーマン的な職業に魅力を感じないのだろう。
という話をしました。

◆「偶然」生まれた傑作。

宮崎作品では例外的に「男性サラリーマン+実在の人物が主人公」 の『風立ちぬ』。いちばん好きな作品のひとつです。

宮崎氏がやりたかったのは『崖の上のポニョ』の続編だったが、鈴木プロデューサーとしてはいまひとつ乗り気になれなかった。そこで、逆提案した企画が『風立ちぬ』だった。もとになったのは、模型雑誌に連載していた漫画で、あくまで趣味、道楽の延長。本人は映画にするつもりはまったくなかった。元来決断が早い人で、即断で企画を決めてきたが、このときばかりは考えこんでしまった。提案したのが夏、それから氏の中で葛藤が続き、暮れになって「やろう」となった。

『天才の思考 宮崎駿と高畑勲』より要約

『風の谷のナウシカ』の続編。『となりのトトロ』の続編。
ジブリ関連書籍を読むと、過去作品の続編の構想がある云々、という話がちらほら登場します。
今のところ実現しておらず、正式な決定の話もない。
なんだかそれでいいような気もするし、「あの宮崎駿」なら「続編のジンクス(二作目以降は期待を外す)」を打ち破りそうにも思えます。
『風立ちぬ』の製作に、そんな紆余曲折があった。もしかしたら別の作品になっていた、というのは初めて知った。リアルで 良い意味で説明的で(※)、大人の物語で、面白い、という意味ではジブリのなかでも最高傑作だと思っているけれど、「生まれなかったかもしれなかった」。名作の誕生は、あんがいそんなものかもしれない。

※対照的に「説明を省略した大人向けの物語」が『君たちはどう生きるか』だと考えています。「子どもにはわからないでしょ」という話ではなくて、大人が観ても誰が観ても頭を使わせられる作品、といったニュアンスです。また「主人公、準主人公の行動が賛否わかれる」という点では両作品は共通している。

「最初から目指していた道ではない」偉大な成功者、「別の発明の副産物として、偶然生まれた」ヒット製品は少なくありません。

もととなった漫画『風立ちぬ』

宮崎監督が「絶対に単行本にはしない」または「別の作品と併せて(不確定の未来に)収録する」と宣言していたのを、映画の公開から2年あけて、編集部が交渉、お願いに行って実現したのだそうです。
映画では良き盟友として描かれる本庄とは、実際は険悪な仲だった。または交流が少なかった、といったエピソードも紹介されていて、惹き込まれる。鉛筆と水彩絵の具と、ブタの鼻の登場人物たち。そんなことはないだろうことを承知で、宮崎監督が【リラックスしてのびのびと】描いているのだと想像したくなります。


◆里見と里見。

『風立ちぬ』、二郎の妻は「里見菜穂子」でした。漱石の『三四郎』のヒロインが「里見美禰子」です。

名が堀辰雄の『菜穂子』から採られた話は関連記事にあったけれど、姓は『三四郎』にちなんだのではと想像しています。
ただし『風立ちぬ』のWikipediaには「三四郎」の記述はみあたりません。
宮崎監督の漱石好きはインタビュー記事にも登場するし、『崖の上のポニョ』の「宗介」は『門』の主人公(野中宗助)から取られたと聞きます。宗助は「崖の下の家にひっそりと暮らす」だから間違いなさそう。
そこからすると 『三四郎』→『風立ちぬ』説 はありえることだと思えるけど、どうでしょうか。
ためしに「風立ちぬ 三四郎 里見」と検索すると、同じことを考えた人がほかにもいて、ただし「堀辰雄→芥川龍之介→その師匠 夏目漱石」というアプローチでした。

宮崎監督の「飛行機に乗るときに持っていく一冊」は『草枕』で、「どこから読んでもよくて、全部は理解できなくてもよい本」だからだとか。「全部は理解できなくてもいい」は、氏の作品にも言えることだと思います。何かを伝えるとき、どこまで説明して、どこから省略するかは難しい問題だけど、「ビジネス」←→「芸術」という軸があって、「芸術」へ寄るにつれて説明が少なくなる、とざっくり考えています。
あるいは「精度」←→「育成」の軸で、「育成」に寄るにつれて説明を少なくする、という見方もできるかもしれません。

◆「天才=教育者」ではない。

ジブリ作品ファン、というと、何百万人でしょうか。何千万人でしょうか。宮崎監督が好きです・尊敬してます、という人もたくさんいるでしょう。

「失敗作」を観客に提示することになりかねないので(あるいは自分で作りたくなって)、ついつい口を出す。手も出す。権威や権力で押すのではなく、能力ある相手が熱意で迫ってくるので、新人監督は逆らいようがない。周りも「またやってるよ」と思いながら、止めることが出来ない。実際、駿のアイディアや絵コンテのほうがよかったりするのだろう。だが、それでは新人監督は育ちようがない。

『「ポスト宮崎駿」論』より抜粋

庵野秀明氏が「宮さんにおんぶにだっこのジブリの環境では、後継者は育たない」と指摘したという話が同書に登場します。1990年代半ば時点、というから先見の明というのか、庵野さんのすごみを感じたくだりです。

かといって二人は犬猿の仲、ということでもないらしい。
のちに庵野さんは堀越二郎の声優に起用されている。ドキュメンタリ番組で、宮崎氏と鈴木敏夫氏が声優を探してて、「庵野どう?」「庵野だ!」と意見が一致。ためしに本人を呼んで声を当ててもらい、「いいね!」となって話が決まった。ドキュメンタリ番組でみて、率直に「カッコいいな」と思ったシーンでした。
一流のプロどうし、特になにかを創る仕事の世界で、「互いに実力を認めているがベタベタはしてない。批判もするが仲が険悪だとか絶縁するわけでもない」という関係は、しばしば見聞します。宮崎氏と庵野氏はその一例なのだろうと想像する。「乾いた関係」の重要さを思います。

スポーツでもビジネスでも学問でも、「好きになる/尊敬する/リピーターになる」人たちの共通点が、『教育に熱意をもって取り組んでいる』です。後進の育成の観点を持ちあわせている。部下の話や意見を受け入れる姿勢を持ち合わせている。
「教育する」と「任せる(権限委譲)」は、自分のなかで(僭越だけども)対象を"評価"する際の、優先度の高い項目です。

「任せる」「育成する」ことができない。宮崎駿氏のファンだけど、前述の"判定基準"からすると、例外だということになります。
長くなってきたので続きは記事をわけます。


『風立ちぬ』のユニークさを、「はじめての男性サラリーマン、実在の人物」だと思ってたのだけど、もうひとつ。
「悲劇だからだ」と、いまさら思いあたりました。
『ハムレット』も『西部戦線異常なし』も、悲劇だから不朽の名作になった。宮崎駿の「初めての悲劇」も、永く残り評価される名作になると想像しています。

最後までお読みくださりありがとうございます。

スケッチは、ラストシーンからカプローニ伯爵と二郎。DVDを絵コンテ版で再生して、スケッチしてみました。


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