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ひとまず筆を手にとるところから

 きっとそういうところではないのだろうとは思いつつ、無数にある記事に埋もれてくれることを祈りながら、思ったことや悩んだことをここに書いていこうと思った。
 昔はブログもやってて、毎日なんてことない話を投稿してたのに、気付いたらやらなくなってるもんだな……。
取り急ぎ、直近にあったことなどを少しずつ書き留めて行きます。




 現在勤めている会社から転職をしようと思い、いい機会なので、長らく悩まされていた頭の中の騒がしさや、どうしようもなく混乱してしまうことと向き合おうと思い、去年の秋頃から心療内科に通い始めた。
 いくつかの心理検査を経て、結果としてはグレーゾーンではあるものの、かなり寄った立ち位置のADHDであると診断を受けた。加えて、適応障害であるとも。
 淡々と先生の見解が書かれた診断書を眺めて「ああ、またか」と思った。

 7年前くらいのこと。派遣で一般事務に勤めていた時、適応障害とうつのダブルパンチでしばらく身動きが取れなくなったことがある。原因としては、元より苦手な電話対応が全く出来なかったことと、自分に仕事を教えてくれた人の会社に対する不平不満をずっと受け止め続けていたこと。
 もちろん、それ以外に先輩には恵まれていた。悩んだことはなるべく相談するようにもしていたし、とてもよくしてもらったことを今でも覚えている。
 しかし体は正直で、どれだけ逃げ道を作ろうと、ダメなものはダメなんだと悲鳴を上げた。とある日の朝、会社の前で思わずしゃがみ込み、過呼吸になってその場から全く動けなくなった。結果、上の通りの状態になったというオチ。
 我ながら情けないと思いつつ、直属の上司に限界を伝えるときの自分は本当に壊れる寸前で、ひたすら吃り、泣いてた。思い出すだけでも苦しい記憶。

 思えば自分は、これまで生きてきた中で”適応する”というのが本当に苦手だったのだと思う。今までうまくやってこれたのは周囲に恵まれていたおかげだっただけで、社会にポンと投げられた瞬間、自身の粗が露呈されてしまったんだろう。すべて運が良かっただけのこと。
 もしかすると、本能的に上手いこと馴染めるようにしていたのかもしれない。集団社会を生き抜く上での生存本能というのは無意識化で発揮されるものだろうし。というのは、自分の思い込みだろうけど。
 小中高と仲良くさせてもらったグループは確かにあったが、その中にいるときもどこか自分が浮いているような気がしたし、それどころかその付き合いでさえ「ダルいな」と思う時もあった。失礼すぎる。

 それは歳を重ねて大人になった今でも変わらないので、きっと自分は”そういう人間”なんだろうな、と気付いたのは直近数年のこと。
そのわりに悪運が強く、咄嗟の危機回避能力はまあまあある方だったお陰でなんとかここまで食いつないで来たけど、そろそろ限界を迎えたんだろうな。

 最近は投薬も始まり、徐々に思考に落ち着きが出てきた、ような気がしているが、それを変化と断言してもいいのかわからない。
 もっとパッと、効き目がわかればいいのにな、と思うけれど、逆にそれは良くない効き方かもしれないと思うと、結局私はどう在りたいのかと思い悩む。結果、あらゆるマイナスな思考が頭を埋め尽くし、とりとめのない問答に苛まれ、気を落とす。

 もっと気楽に生きれる方法を模索していきたいな、と思う今日この頃。
 ”適応する”というのは、肩の力を抜いて生きていくことを言うのかもしれないと思う今日この頃。