とくさ色
何かを決めるとき、気をつけていることがある。 そのうちの1つが、タイトルにした「自分を主語にすること」だ。 誰かのために、とかこれが正しいから、みたいなことは、少なくとも自分に対しては一切言わないことに決めている。 なぜなら、自分以外の理由で決断をするとき、少なくともわたしはその分の見返りをどこかで求めているからだ。 「誰かのために」は美談のようだけど、その分責任をその人に背負わせる。 「ために」は「のに」を呼びうるから、「誰かのために選んだのに喜んでもらえなかった」とい
この頃日記を書いている。 三日坊主を直すための努力が三日続かない三日坊主の私にとっては、かなり珍しいことだと知っている。 日記と言っても2、3文も書けば次には全く違う内容を書いている一貫性のなさで、適当にマス目を埋めるような感想文をこなす以外、書くという行為が得意なわけじゃない。 日記そのものを置いてきたりなくしたりするので、日記はスマホのメモ帳にあったりWordにあったり、よく散り散りになっている。 それでも時折日記を書いているのは私のためだ。 誰かが思い出してくれる時の
以前よりちゃんと(というのも変な言い方だけど)いろんなツールを用いるようになった一方で、以前よりアナログの、紙の手紙を書くこともなぜか少し増えた。 私にとっては、年賀状を書く、年に一度しか書かないあの数行とは違う心の込め方がそこにはあるような気がしている。 手紙を書くのがとくいな訳ではない。 何にも決めずにいきなり書き出すから、文字は最初と最後で明らかに大きさが違うし、最後の一文がうまく入りきらずに2行に積み重なっていたり。 内容も、とにかく感謝の気持ちを伝えようというと
その空間に人が集まり会話が少しだけ聞こえるようになった時 ふわりと私の中に漂った感覚は、「お話」が本格的に始まった時、より確かなものへと変わった。 「優しさ」の空気が、なんだか息苦しい。 ぶつかってごめんなさいと謝った人に対して「全然大丈夫ですよ」と(やや作り物感のあるほど)爽やかそうに言う人の声がする。 要領を得ない話でも一切口を挟まず、人の目を見てじっと聞き続ける人の横顔が並ぶ。 会場全体が話している人の方に椅子ごとむきなおり、話が終わったらどこからか拍手が広がる。
雨は好きではない。わけでもない。 自分が出かける時の雨はそんなに好きではない。 服も靴もそれ用に考えなければならないし、濡れれば寒くて気分も下がりがちになる。 出かける時は、せっかくなら雨でないほうが良いことが多い。 一方で、この間買ったレインシューズがちょっと気に入っているから、前より雨が嫌いではないという単純さもある。 お気に入りの傘があれば出番が来るのは嬉しいし、逆になんとなく気分が上がる。 自分が出かけない時に家の中からきく雨音は静寂を夜より早く手に入れた気分になれ
人はことばを用いて思考する。人と繋がるときにもことばの果たす役割は大きい。 そう思っているので、どんなことばを持っているか/どんなことばの感覚を持っているかというその人の「ことば」で相手をみているところがある。 先日人と話していて気がついたのだけれど、わたしは今言葉に対する軸を大きく分けて3種類持っている。 それはおそらく、 ・ことばの綺麗さ ・ことばの正確さ ・ことばの柔らかさ の3つだ。 1つ目のことばの綺麗さは、わたしが昔から気にしていたもの、かつ以前のn
「夜だけは私のもののような気がする」 そうSNSで投稿して、実際にそういう感覚を持ったまま、わたしは今膝を抱えている。 人と話している時はあんなに気持ちが乱れてどうしたらいいかわからなったのに、1人になった瞬間すっと冷えていく。この心と頭は、どうして人といる時間と自分だけの時間の働き方を逆にしてくれないのだろうと苦笑する。 人に気持ちを伝えなければ否定的な感情が蓄積し、伝えれば後悔して嫌われただろうかと怯えることを繰り返し、自分はつくづく人との付き合いに向いていないなと思う
「ごめんなさい」「ありがとう」という言葉を、 わたしは多分、いちばん残酷な言葉として使うことができる 他者にとっても、自分にとっても わたしの身近にいた人、今も身近にいる人は、多分ひとの話を聞くことが得意ではない。 口論になればその人の思っていることが次から次へと、嫌だという感情で結ばれて溢れ出す。 それとこれとは違う話で、とか あなたがわたしを責めることと同じことをあなたは今しているじゃないかという反論は、その人の熱をさらに高めるだけだと わたしもさすがに、学習するよう
・理性と感情を切り離すということ ・建前と現実をどちらも受け入れるということ こうしてわたしはわたしをやり過ごしている。 この2つの「分離」と「信頼」、「許し」がわたしとして生きていく、わたしと相棒とのお約束だと思う。 数年前に比べて、わたしは自分が変わったという自覚がある。 それは周りからも言われることがあるけれど、多分わたしが一番そのことを自覚している。 そう変わったきっかけがなぜだか知らないけれど、今より昔のわたしの方が、わたし自身に苛まれていたように思う。 こ
そういうつもりで書いたnoteです。 スマホを変えた。 ますます、その人の写真を撮ることが増えた。 そのことが、ほんの少し不安な気持ちを香らせる。 わたしはなぜだか 昔から別れというものを強く意識している子どもで 自分が家族をなくしてたった一人になる将来すら、ごく小さい頃から現実のものとして想定していた。 だから家族と過ごす時間は今しかないかもとの思いで可能なかぎり優先してきたし、 友人や先輩・後輩と過ごす時間には、(自分が写りたくなかったということもあるけれど)別れた後
4月は自己紹介を、1年で1番する季節かもしれない。 自己紹介をする際、何を言うかいつも迷う。 もっと言うと、自分のどの部分を切り取って見せるのかわからなくなる。 SNSのプロフィール欄を眺めていると、 年齢、性別、学歴、趣味…が並ぶアカウントがある。 何も書いていなかったり、自分の好きな言葉が並ぶアカウントもある。 アイコンも、それぞれバラバラで Facebookやtwitter、instagramそれぞれに別々のその人が表現されていることもある。 私はそれらを、その人がそ
ある程度以上おとななんだから、 自分の機嫌は自分でとらなきゃいけないことくらい、わかってる。 でも単純に生きているだけで色んなことにぶつかる日々の中で、 おはなしができる/はなせるということに、 最近ほっとすることが多い。 おはなしができる、というのは結構難しくて ・自分の思っていることを繕わずに発することができるということ それは自分の言葉をきちんと受け止めて、頭から否定するのでも無批判に肯定するのでもなく、 さりとて相手の話すという行為にただ単にお付き合いするのでな
鏡を覗いて自分自身と思いがけず目があうと、わたしはびっくりする。 そういう感覚を他の人も持っているだろうか。 ほかの方々がどうなのか人と話をしたことがないのだけれど、わたしはいつも別のわたしを抱え、自分で自分を覗き込みながら生きている。 わたしの中にはつねにわたしがいて、わたしの行動や思考を眺めている。 そんな感覚を、わたしは抱いて暮らしている。 わたしのきもちはしばしば思うようにならなくて、その人がそんな意図を込めていないとわかっているのに、誰かのことばになぜかどうしよ
なにから書こうかちょっと悩んだけれど、このノートを書くきっかけをくれた人から連想してタイトルはラブレターにしてみた。 と言ってもいわゆる恋愛としてのラブレターなんて書いたことはないし、なんなら本物を見たこともないままだいぶ大人になってしまった。 そういう時代でもなかったのかなぁ。うーん。 いわゆるそういうラブレターは見たことがない一方で、最近わたしはラブレターを書くような気持ちで人に言葉をおくりたいと特に強く思っている。 わたし自身は昔から言葉というものにややうるさい性質
せっかくこうして何かを書くのは初めてだから、初めましての気持ちを置いておこうと思う。 初めまして。こんにちは。 お元気ですか。 或いは、ご無沙汰しております。 緑と青の好きな人間です。 挨拶と自己紹介として、今ここにかけるのはこの程度だろうか。 これから少しだけここに、わたしの一部を言葉にして置いて行く試みをしていくつもりでいる。 わたしが普段から使っている ことば がいつか、いつもより少し遠くの誰かに届いて、お話をすることのできる人が増えたらいいなと思って また、自分