4月はもう終わるけれど

4月は自己紹介を、1年で1番する季節かもしれない。
自己紹介をする際、何を言うかいつも迷う。
もっと言うと、自分のどの部分を切り取って見せるのかわからなくなる。


SNSのプロフィール欄を眺めていると、
年齢、性別、学歴、趣味…が並ぶアカウントがある。
何も書いていなかったり、自分の好きな言葉が並ぶアカウントもある。
アイコンも、それぞれバラバラで
Facebookやtwitter、instagramそれぞれに別々のその人が表現されていることもある。
私はそれらを、その人がそこで見せたい自分(の少なくとも一面)なのだと思って眺めている。

わたしはよく自分自身について考えるけれど、自分自身を人に公開することには消極的な方だ。
どんなわたしでありたいかとどんなわたしを他者に見せたいかという問いは似たようで異なるものだし
オンラインにおいて自分自身の公開をリアルよりもコントロールできると感じる時、なおさらどんな自分を見せたらいいのか戸惑う。
リアルとオンラインのつながりも微妙なもので、
こうして書いているnoteだって、リアルの友達や、まして知り合い程度の関係の人には見せられない。
それは自分自身の内面を一方的に晒してしまうことへのこわさ、自分自身が彼らに見せているわたしとは違う「ここに表現されているわたし」を知られることの不安があるからだと思う。


こうして、たった一人存在するはずのわたしは分裂する。
SNS上のアカウントは用途や所属するコミュニティ別に新たに作って使い分けられ、興味関心の意向やコミュニティからのフェイドアウトによってアカウント自体がなかったことにされていく。
その度にわたしは、その時のわたしを置き去りにしようとしている。

大人になると、進学やクラス替えのような定期的な「自分」の更新機会が少なくなるという。
そんな中でわたしはどう生きていったらいいだろう。
今まで自分だけが知っていた過去の自分や一時的なものとして築いていた人間関係をその先ずっと背負わなければいけないのだろうか。
そんな風に自分自身を抱えていくことに、わたしは耐えていけるだろうか。



こうして、わたしはわたしをどんなことばで切り取って、どんな風に自己紹介するかいつも考える。
積み上げてきた自分自身から自分を切り取って、相手に見えるように掲げてみせる。
掲げてみせた自己に合うように、その人の前では常に演じながら日常を過ごす。
そのことに少しの違和感と、でも自分をさらけ出す気持ちにはなれないまま。


ドラマなどの物語でいう台詞、「君は君だから」「わたしはわたしだから」
その君は/わたしは、どのわたしを指し示しているのだろうか。
自分を含む誰一人として、本当の君もわたしも知りはしないのに。


今年はどんなわたしで生きていこうか。



読んでくださってありがとうございます。もしもことばを通じて遊んでもらえたのならば、とても嬉しく思います。