アンサーソングのような。

そういうつもりで書いたnoteです。





スマホを変えた。
ますます、その人の写真を撮ることが増えた。
そのことが、ほんの少し不安な気持ちを香らせる。


わたしはなぜだか 昔から別れというものを強く意識している子どもで
自分が家族をなくしてたった一人になる将来すら、ごく小さい頃から現実のものとして想定していた。
だから家族と過ごす時間は今しかないかもとの思いで可能なかぎり優先してきたし、
友人や先輩・後輩と過ごす時間には、(自分が写りたくなかったということもあるけれど)別れた後も思い出すきっかけになるようにと進んで多くの写真を残してきた。
その一方で一時的な付き合いの人間関係では写真は撮らないし、連絡先もいつでも消せるものを使っていた。
ラインのアイコンも、不要な人と繋がってしまうから自分とわからないもの。
名前も多くは明かさないしSNSでも不用意には繋がらないことにしてきた。


わたしは
  いつかくる別れを想定して、いつも準備してきた。


 家族といくら喧嘩しても朝いってらっしゃいというのは、それで少しでも万一の時の後悔を減らせたらとどこかで願っていたからだし
 どんなに仲良くなっても人間関係で裏切られる可能性はいつも頭にあって、そうなっても傷つかないように、常に予防線を自分の中で張っておいた。
 それがわたしなりの処世術だったし、そうすることにさほど苦しさを感じないようにやってきた。
 その背景には断絶された繋がりの過去があるし、そこから学んだ自分の切り捨てられやすさもある。


そんな風にわたしの中で写真と別れというのは密接に結びついていて、
今、写真を撮ることが 記録に残しておくことがこわいのは
矛盾しているようだけれど

わたしが同時に、捨てることが苦手だからだ。


今はとても仲のいいその人と、喧嘩をするかもしれない。
連絡を取らなくなるかもしれない。
もう思い出したくもないと思われるようになるかもしれない。わたしがそう思うようになるかもしれない。

そんな風になった時、それでもわたしは思い出を納めておいた写真を消してしまえる自信がない。
自分が心から楽しんでいたと、心を傾けていたと思えば思うほど傷つくと知りながら、写真を眺めてしまう自分の姿が容易に想像がつく。
思い出は別フォルダに分けてしまいこんでおくことなんてできないし、人と密接に関われば関わるほど、思い出は物としてもわたしの日常に常設されていく。
そうやって自分の中深く浸透した思い出を、丸ごと捨ててしまうのは難しい。

なくしてしまうかもしれないと最初からわかっているものに、
心を傾けてしまうのは、こわい。


それなら最初から一人でいる方が、傷つかなくて楽だ。
自分の時間を思い切り自分のためだけに使えるし、とはいえそこそこの距離感で会える人もまだいるし。
未だに、どこかでそう思っている。



だからわたしはその人の写真を撮りながら、この写真がいつか苦い思い出になった時のことをどこかで考えている。
今この瞬間写真を撮る楽しさをやめられないから、どうにかして自分がその時に傷つかない方法はないかなと きっと探っている。

今、それでもわたしが心を傾けるその人と

またわたしから、それともその人から
距離を取ることを切り出すこともあるかもしれない。
お互い予期しない形で、さようならという瞬間が訪れるのかもしれない。
いつかやっぱり、君ともそんな時が来るのだろうと想定はしている。



だから、ね。
だけどそんな未来が来なかったらいいな とわたしは今とても思っているよ。
それをできる限り先延ばしにしたいと言ってくれるその言葉を、気持ちを信じていたいなと願っている。


会いたいと伝えることや、こうやって写真を撮ることがむしろ、別れを先延ばしにしてくれればと祈りを込めるから。


どんな形でも別れは来るけれど、いつかそんな日が来るまで
せめてそれまで、一緒にいてくれたら嬉しいな。



読んでくださってありがとうございます。もしもことばを通じて遊んでもらえたのならば、とても嬉しく思います。