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てるてるさんが微笑むように

雨は好きではない。わけでもない。
自分が出かける時の雨はそんなに好きではない。
服も靴もそれ用に考えなければならないし、濡れれば寒くて気分も下がりがちになる。
出かける時は、せっかくなら雨でないほうが良いことが多い。

一方で、この間買ったレインシューズがちょっと気に入っているから、前より雨が嫌いではないという単純さもある。
お気に入りの傘があれば出番が来るのは嬉しいし、逆になんとなく気分が上がる。
自分が出かけない時に家の中からきく雨音は静寂を夜より早く手に入れた気分になれるし、木の葉から下に落ちていく雫はとても綺麗だ。


わたしの家にはだいぶ前に好きな人が一緒に作ってくれた てるてるぼうずのてるてるさん がいて、一回きりではお役御免とならず、作って以来ずっと窓際にぶら下がって空を見守り続けている。
顔は滲んだペン先の跡が目立つし、不器用なわたしの手が入っているので形も不恰好な、でも素材はちょっと高級なてるてるさん。
そんなてるてるさんに明日ちょっとでも晴れないかなと相談するのが我が家の梅雨の風物詩で。

今年も、そんな風景を繰り返してきた。




けれど、この梅雨もじきにあけるだろう。この梅雨が明けて夏が来て、また秋が来て季節はうつろう。
今年はわたしにも少し変化の気配が訪れていて、梅雨があけるだけでなく変化も否応無く、あるいは意図的に訪れてくるとのだろうかと感じる。
変化の大小にかかわらず変化の分適応を求められるし、必ずしも自分にとって良いことばかりではないかもしれないと知っている。

近しい人が言うように、1つの変化が周囲のネガティブな変化をもたらすこともあるし、
今だってこれからどうなるのか、自分が選ぼうとしている道は正しいのか、
そもそも自分が目指す正しさとはなんなのか、
それで大事な人たちを一時的にでも傷つけることはないのか、それほどまでにする価値のあることなのか。
ずっと梅雨の、煙たさの香る雨の中で迷っている。



今年の梅雨に予感するような変化は、意図的にでも偶発的にでもこわい。
このささやかながら幸せな日々がずっとつづけばいいなと思うし、わたしの好きな人が健やかにさえあってくれれば永遠の持つ恐ろしさなんて平気なのに、と変わることをやめてくれない世界に恨みを込めたりもする。あけない梅雨があってもいいような気もして来る。

この「まだ見ぬ変化を乗り越えられるように」という不安はこれから来る未来への祈りにも似た感情で、結局今やれることをやるしかないし、毎日わたしは明日雨になることを一応想定して荷物の準備をするしかない。
そんなことはとうにわかっている。それでも、自分ではどうしても制御できないものには祈りを込めたくなる。



この朝があけた時、雨は止んでいるのかな。梅雨は来週にはあけるかな。天気の祈りさえ誰もちゃんとは叶えてくれないなんてケチだなと思いながら
明日の雨についてだけは、今夜も相変わらずうちのてるてるさんに頼み込んでいる。
変化が自分の希望通りになるように、変化をうまく乗り越えていくようにと、あまり変化しない(ように見える)てるてるさんに頼むのはもしかしたらちょっと不思議なことかもしれない。
それでも雨の日が永遠に続くことはないし、てるてるさんに祈った晴れへの願いは遠からず夏の眩しさとともに叶うだろう。それがもしかしたら同時に、望まない変化を連れて来るものだとしても。




てるてるさんは今日も窓から外を眺めている。
てるてるさんだって永遠ではないし、少しずつそのちょっと高級な布も裾がよれてきて、頭の上には埃の帽子もかぶったりもしている。
てるてるさんが実際には雨が好きなのか晴れが好きなのかもわからないけれど、そのちょっと線の曲がった不器用な微笑みはわたしの祈りを受け止め、そっと支えてくれる気がした。







読んでくださってありがとうございます。もしもことばを通じて遊んでもらえたのならば、とても嬉しく思います。