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私には「正しい優しさ」のようで。

その空間に人が集まり会話が少しだけ聞こえるようになった時 ふわりと私の中に漂った感覚は、「お話」が本格的に始まった時、より確かなものへと変わった。


「優しさ」の空気が、なんだか息苦しい。


ぶつかってごめんなさいと謝った人に対して「全然大丈夫ですよ」と(やや作り物感のあるほど)爽やかそうに言う人の声がする。
要領を得ない話でも一切口を挟まず、人の目を見てじっと聞き続ける人の横顔が並ぶ。
会場全体が話している人の方に椅子ごとむきなおり、話が終わったらどこからか拍手が広がる。
人の話をしっかりメモを取りながら、ひどく頷きながら聞く。
そういった態度はとても賞賛されるべきものなのだろうと思う。
それなのに私にはひどく息苦しくて、気分が悪くなってしまった。


例えていうなら、小学生の道徳の実演を目の前で見せられているような気分になっていたように思う。
「今まで言えなかったけれど」「他の場所では言えないけど」といいながらプライベートな話を積極的にして行く人々は、どうしてそんなに見ず知らずの人間にオープンでいられるのだろう。
なんら関係のない、興味のない他者の話に、どうしてそんなに真摯に向き合えるのだろう。


人との関係が築けないという、自称も含め「不器用な人」こそいるけれど、基本的にそこにいる人全員が心から「優しい」ように見えた。
彼らの中に座りながら、お話の中でも繰り返される「優しさ」や「素晴らしさ」にあてられて、私は一人勝手にひどく疲れてしまった。
誰も望んでいないだろうに、彼らのもつ優しさや正しさを、ずっと飲み込み続けているような圧迫感ともうたくさんという感情に苛まれ、中身もないのにやさぐれた言葉を使ってみたくなった。
小学生の時、道徳の時間の実演は目配せをしあえるような他者がいたけれど、その実演のような場では一生懸命やる教師や「いいこ」しかいないような気分になった。


もちろん、他者も含めてみんなができるだけ多様な選択肢を持ち、それぞれに選んだ道を、誰にも否定されず自分らしく歩んで行けたらいいと思う。
そんなことを心の底から思えると信じているし、そう思える自分自身をどこかで誇りにも感じている。
そういう世界を作って行く一助に、私もなりたいと思っている。


でも、それとは別に
あの場所にいた人たちが持つ「正しい優しさ」を私は持ち合わせてはいない。
でも、そういう自分も含めて自分なのだと思っているし、嫌な人間たる自分を否定したいとは思わない。
「嫌な人間な自分」を愛せるけれどそれが正しいと思っているわけでもないいびつな私が、「優しすぎる」空間に気持ち悪さを感じてしまう私が、真っ白な光に塗りつぶされていくようで
私はひどく怖かった。


振り返ってみればあの場所は、同質性の非常に高い空間だったのだと思う。
同じものに惹かれて活動をしたいという人たちが集まる場だったのだから。
特にあの日は会場も狭くて、他の参加者との距離も近かった。
だから余計に、あの場所は「優しさ」以外には優しくないようにその時の私には感じられたのだと思う。

私が話を聞くのに苦しくなって、首元をくつろげた時、
手元が気になって手を動かし続けていた時、
「人の話を聞く態度ではない」「真摯ではない」
『優しくない』という気持ちのこもった言葉や目線を感じた。

私の勘違いかもしれないし、私のとった態度が褒められるべきものだったというつもりもないけれど
きちんとした姿勢で聞くことに、こだわる姿勢には優しさがあるのだろうか。
その人がその人らしくいられるようにというコンセプトは、真面目である(ように見える)こと、真摯である(態度をとる)こととイコールなのだろうか。



優しさや倫理的な課題を掲げる人々の話を聞く時、読む時、時折こんな気分になる。
「正しさ」や「優しさ」が必要だから、大事だからという意見は素晴らしいけれど、そんな聖人君子のような理由でなくてはダメなんだろうか。
「便利だから」「楽だから」「自分にとって都合がいいし他の人にとってもそうであるようだから」といった、もっとある種人間らしい理由が「優しい」ことの動機や内実に含まれてもいいように思う。
真っ白の正しい優しさより、むしろグレーや様々な色が混ざった優しさの方が、私は好きなのだけれど。
そういう雑多な優しさを私は追いかけていきたいし、それぞれの人に色も形も違う優しさがあればいいのではないかとどこかで思っている。



読んでくださってありがとうございます。もしもことばを通じて遊んでもらえたのならば、とても嬉しく思います。