「伝わらなければ4コマではない」4コマにおける代弁主義の時代【#現代4コマ】
こんなに楽しい現代4コマの世界に、ナンセンスな話で水を注さなければならないのは申し訳なく思う。ただ、今回はそういう話をしなければならないのだ。大衆と現代4コマという構図を意識しなければならなくなった為に。
※この記事では「現代4コマ」について解説しています。
※本記事での引用画像はキャプションが元投稿へリンクしています。
活用ください。
作品『3分経った』の衝撃
先日、ITOTOTOの現代4コマが約3万件のいいねを集めた。
彼はいまだに巨匠だ。
この界隈では、4コマの概念の中でミニマルな表現を繰り返す行為を「現代4コマ」という枠組みにして、一年以上もみんなでわちゃわちゃ盛り上げようとしてきた。
しかし、ここまでヒットしたのは相当に久しぶりのことなのだ。なぜだろうか。これは4コマが界隈で「共通言語化」しすぎてしまったのが原因だったと思う。
現代4コマの古典に立ち返る
元々現代4コマというのは、「漫画」に支配されている4コマをその支配構造から開放する革命思想を持った前衛運動だ。
この運動、4コマという枠をどう扱うかによって変わった表現を探る方向から、4コマという概念を分解し噛み砕いてとんち合戦するエクストリームスポーツへと歩を進めていた。
そんなある日、現代4コマアカウントがストック切れかけのピンチから急遽新企画を始めた。
これは、流れていってしまった過去作に焦点を絞って、いわゆる再放送を行うという企画だ。確かに、何千本も新作があるとはいえ、過去作が倉庫に眠ったままでは勿体無いし、思わぬ新展開があるかもしれない。間違いなく、やるべき企画だった。
実際開始してみれば、過去の作品が数百のいいねを獲得し、その威厳をみせたり。注目されていなかった多くの4コマに再度目がいったりしている。良いことである。この企画に関連して、ある一つのあまりに素朴な発見があった。
代弁主義ともいうべき初期の動向
企画の滑り出しにはいとととの初期4コマが採用された。初期4コマとは、この辺である。
これらはいとととの作品の中でも異様なリアクションの多さを持つ。現代4コマがいくら発展しようとも覆らなそうなほどの大記録をもっている。実際、今回再掲されても多数の反応を得ており、名作は何度見ても名作なのだと思わされるものだ。
これらの面白いのは、4コマというフォーマットの中で現象を表現しようとしているところである。要するに、これらは「ピクトグラム」のようなのだ。
伝言ゲームのごとく、シンプルなフォーマットの中で概念を示している。それが伝わる、という面白みが人々をひきつけたのだ。
この頃はまだ「現代4コマ」なんて言葉もなかった。なんとなく、いとととが4コマの概念で遊んでいた。たまにトランプという追随者もそれに乗っかっていた。それくらいである。
無機質主義の台頭
話は変わる。私は、とあるいとととのアンチを自称していとととにミュートされている男と繋がっているのだが、彼がこういう事を言っていた。
まあ彼は割と適当なことを書いていることがしばしばあるので、正確な所が掴めてるかは微妙なのだが、僕はこれを読んで、概念の抽象化が先鋭化して、メチャクチャな画面を作っては「これも4コマだ」って言い張る運動に舵を切った時期のことを想起した。
元々、「現代4コマ」という言葉は最初からあったわけじゃない。2023年3月に唐突に始まった、この手の「現代アートを4コマにアレンジする試み」から始まっていたのだ。一応、これらも「わかる人にはわかる」ものではあるが、現代アートなるものはやはり局所的な概念である。大ウケはしていない。
2022年までの「広く共有された概念を4コマに再構築する運動」からこの「現代4コマ」に移ったわけだが、その後さらに「現代4コマ投稿祭」というイベントがあった。これには様々なユーザーが参加し、作品が寄せられた。
このとき、色々なものが出揃ったために、それ以前の4コマのテイストも現代4コマの一部だとして自然と合流、幅広い表現へと領域が拡張された。
互いの概念は混じり合い、あけすけにいえば曖昧なまま煮詰まった大喜利の状態になっていったのである。
そのことから、現代4コマは必ずしも表現したいものや動機が同一ではなくなった。なんとなく感じられている感覚を明文化する道具にも、4コマ概念を用いた哲学の土台にもなる。ただ、前者はどうも「ポピュラー」なようだ。共感を得ることのできる作品は、共感を得ることができるからこそ一般ウケする。
ある程度その表現が早熟してしまったこともあってか、現代4コマは大衆迎合と逆の「いかにルール違反をするか」の部分へどんどん拡大した。何かを表現するために4コマに落とし込むのでなく、4コマから何かを表現しようという理屈めいた思考の流れに移ったのだ。まさしく現代ナントカの動きである。
そこでは「4コマ」が「共通言語」となっていた。他の共通言語を4コマを通じて伝えるのではなく、他の何かを通じて4コマを伝えるという、前後関係の逆転が起きたわけだ。
一応、その思考自体は、先述したポピュラーな共感を呼ぶ4コマより以前から存在している。「4コマではない」「本当の日常系4コマ」系の動きが代表的だ。
要は、これらは4コマを出来事ではなく、物質的な観点で見ている。冷徹に、4に分かれているかどうか、そういう理屈の部分で4コマかどうかを見て、論じている。
こういった実験は、往々にして大きな反響を得ることが少ない。例えば音楽の世界に顕著だ。
音楽では、作曲家としては音に凝り、技巧を凝らした作品を作るとたのしい。しかし、硬質で前衛的なインストゥルメンタルよりも、エモいコード進行を持ち、歌詞があって人の歌声が乗っている曲の方がウケがいい。これは人が歌っている、ストーリーがあるといった部分に対しての方が解釈を得やすいからだ。
作り手としては手法のこだわりや可能性を追求するのが楽しいし、それにもっと注目してもらいたいと思っていたりもするが、作り手と鑑賞者が同じ部分を見ていることなどない。
こうして参入障壁が限りなく薄いが為の“作り手至上4コマ”が世を席巻する。
共存する相反主義双頭
以降の現代4コマは二つの傾向を行ったり来たり、ないまぜになりながら進んできた。各おのが思う現代4コマを気の赴くままに作っては投げ、作っては投げの繰り返し。どちらも4コマなのだからしゃーない。
作る楽しみに代えられるものはなかなかないともいう。
このように、多様化する4コマ観は様々な表現技法を編み出し、どのような方法で「4コマノルマ」を達成するか、というところに皆は脳みそを回転させていたわけである。
そんな中で転機の一つといえば、気鋭の作家・なむさんが現れたこと。
氏の現代4コマは大きな衝撃をもって迎えられ、これらの作品は大バズりした。
これらの4コマがしたことというのは、皆が4コマ側の視点に立っていたところに、再び強力なナラティビティを持ち込んだ点にある。しかも、無機質主義の持つミニマルさも備えている……。
皆、なむさんのこれらの作品を前にして、あまりの眩しさに呆然と立ち尽くすほかなかった。
それからも、4コマの上に「ブルーレットおくだけ」を置いたりしていたが、再投稿祭も始まり、皆は「やっぱこういうの、いいな」となった。
ただいま ——新代弁主義への帰結
なんとなく、ナラティブへの憧憬や希求が回帰してきた。そんなところに、かつての作品への再注目が始まった。あまりにも短い時期感はあるが、ルネッサンスのような動向である。
この流れに乗じてか、いとととやトランプも迎合的な作品に回帰した。この流れに冒頭の「3分経った」もある。
これらは、概ね反応がよい。どこかで見たことのある概念が4コマのフォーマットの中で動いている。4コマは添えるだけ、添えるだけでいいのだ。
しかし、確実に「現代4コマ」以前のものよりミニマルにはなっているはずだ。物質的な論証の作業に、無駄はない。
たとえば、4コマと4コマ以外の存在の境目は確実に初期4コマに比べて曖昧となった。4コマとメッセージが、同等となったのだ。現代4コマとは、支配構造、主従の関係を断つ革命運動だった。それは、決して4コマが優位になるべきだとの思想ではない。
そのことに皆、まる一年かけて、はたと気づいたのだ。
結局は
必ずしも大衆に迎合するのが芸術ではないし、現代ナントカに関してはそれが本望ではないことの方が多い。「作っていて楽しい」はかけがえのない体験だ。
しかし結局は、その題材に対して最も正しく、最もくだらなくてどうしようもない4コマが、一番「ウケて」「笑える」のだ。そこは認めていかなくてはならない。
あらゆる快楽を認め、高めあうダイレクトで純粋な表現行為の溜まり場であれ。それを踏まえて、我々は自慰行為を示威する。
厭いも、欲求不満も、全てを肯定して形にする。そして製麺機から、うにょんと出すのだ。
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