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何が"ジャズ"なのか

ジャズの歴史を読んだ。ジャズという言葉は多くの人が知っていると思うが、説明してくれと言われると難しい。その難しさはジャズという音楽が歴史によって複雑に変容した様ゆえのものであることがよくわかる本。


1.ジャズのとらえ方
2.ジャズのはじまり
3.ジャズの黒いパトロン
4.レコードやラジオによるジャズのマス化
5.変容する戦後のジャズ
6.黄金期と言われる1950年代
7.モダンジャズが終わった1960年代
8.モダンジャズ主導の中央集権体制から、細分化された地方分権の時代へ
9.まとめ


1.ジャズのとらえ方

外見がどれほど常識的に思い浮かぶジャズとかけ離れていたとしても、それが誰のどんな音楽に影響ないしは触発されて生まれたのか、さらにその誰それはその前の誰から・・・・という風に歴史を遡っていって、いつかどこかで創成期のジャズ、100年前のニューオーリンズ・スタイルにたどり着けば、それは「ジャズ」なのです。

と冒頭で著者が言うように、ジャズとは、100年前のニューオーリンズを起点とした枝分かれの歴史のようだ。

コレクティブ・インブロヴィゼーション(集団即興演奏)と呼ばれたそのスタイルの他に、後年「アドリブ」や「インプロヴィゼーション」として制度化された即興方法の芽生えがあります。そして、ジャズのごく初期から内在したその即興性が、その後のジャズの枝分かれを促進させる原動力になりました。

ジャズはもともと即興で音楽を作り上げていくものなので、その特色が起源である音楽を枝分かれさせていく理由だ。

2.ジャズのはじまり

ジャズは19世紀の終わり(1890年代)から20世紀の頭へかけて、ニューオーリンズなどアメリカ南部の都市を舞台に、そこに暮らす黒人たちの手で、徐々に形を整えていきました。そのきっかけを作ったのは、アメリカとヨーロッパという全く毛色の違う異文化の出会いでした。

時は南北戦争が終わった頃。もともとヨーロッパがアメリカに上陸した頃から、黒人奴隷が大量に送られてくる流れで、ブルースのような音楽は生まれていたが、このタイミングで軍楽器として使われていた楽器類が黒人の手に渡ったようだ。

アフリカ伝統のバンジョーに手製のドラムやパーカッションを加えて、今でいうストリート・ミュージックをやっていた連中が、南軍払い下げの洋楽器に持ち替えて街をパレードして歩くというジャズの原型の出現です。

この時手にした楽器はコルネットやトロンボーン、テューバ、クラリネット、肩掛け式のドラムにシンバルといったブラスバンドの定番だったようで、それをマーチやカドリーユなどをやっているうちに、だんだん黒人らしいクレオール音楽のスタイルになっていった様子。

これらの楽器はどれも、唇や指の操作一つで音を歪ませたり、ゆすりあげたりして、音色や音程をかなり思うように変えられます。それがヨーロッパ系のブラスバンドの楽器構成をそのまま借りて<新しい黒人音楽>を創生できた大きな要因です。

パレードをして歩く関係上、ピアノがここに持ち込めなかったのが、表現の幅を広げることができたのであろう。ピアノは出せる音程、音色は決まっていて、揺らすこともうねらすことも、曖昧な音を出すことも難しい。

3.ジャズの黒いパトロン

ニューオーリンズは、18,9世紀を通じて南部一の貿易港だった。そこには売買春がOKなストーリヴィルという区画があった。そこでは一回のフロアーで客が酒やポーカー賭博やダンスを楽しんだ後、好みの女性を選んで二階に上がるシステムだったようだ。そうした場所には音楽がつきもの。そういう場所でジャズマンは女将に雇われていた。

しかし、1917年に突然大戦への参加に踏み切ることにより、ニューオーリンズの港湾基地が海軍基地になる。そして、ストーリーヴィルは閉鎖に追い込まれた。

ストーリーヴィルを失ったジャズメンにとって一番手近な働きには、ミシシッピを上下する外輪船でした。アメリカの南部と北部を結ぶ有数な交通手段として観光船も兼ねた大型船には、大抵バンドがいました。ルイ・アームストロングもシカゴに出るまでそこにいました。

ジャズマンは大型船に身を寄せたりしながら、

とはいえこの手の仕事は数に限りがあります。そこでジャズメンの多くは、ミシシッピの流れを逆に辿ってゆっくり北上をつづけ、最終的にはシカゴに落ち着きました。キング・オリヴァーもその一人です。

結果シカゴに北上していく。これがシカゴジャズの誕生だ。シカゴはマフィア王国のいわば首府に当たり、のちにアル・カポネが活動の足場としたもの。禁酒法のタイミングも相まって、ジャズは女将からギャングへ庇護を受けて生きながらえることになる。

4.レコードやラジオによるジャズのマス化

レコードが変えたのは、ジャズを面と向かって<聴く>新しい人種を作り出したことでした。それまでのジャズの主な役どころは、もっぱら踊るためか、酒を酌み交わす場を盛り上げるうるさめのバックグラウンド・ミュージックが通り相場でした。

レコードの登場により、ジャズは聴くものにもなった。また、ラジオが一般家庭へ浸透すると、ジャズは一躍全米中産家庭に知られるようになり、土曜夜の番組「レッツ・ダンス」でベニー・グッドマンのような著名人が生まれるようになった。

一つ問題が起きました。<ジャズ>という語のひびきが、禁酒法時代の裏社会とのつながりや、もともとが黒人音楽であることへの偏見などから、中産階級の家庭には入れたくない。不適切なイメージとして敬遠されていたのです。

こうやって、ファン層が白人中産家庭にまで広がったことで、それまでジャズに比べてポップス寄りの作品や演奏が目立つようになり、ジャズがスイングと言われるようにもなる。

5.変容する戦後のジャズ

戦後のジャズはとにかく変容をしている。

<ザ・ストリート>を舞台に、ミントンで培われた新世代のジャズが大きく花開きます。ガレスピー、パーカーを急先鋒として疾走するその音楽は、最初は<リ・バップ>とか<ビ・バップ>とか呼ばれ、最終的には<バップ>という略称に落ち着きました。

バップというジャンルや、

個人プレイを柱とするアドリブ一辺倒の演奏が飛び交う中で、抑制された密度の高い表現にたどり着いたマイルスは、バップの成果に編曲を投入して新しいサウンドをもたらす方法を模索していました。

<クール>というのはもともと、ジャズ特有の強いヴィブラート音<ホット・トーン>に比較して、あまりヴィブラードをつけない吹き方を<クール・トーン>あるいは<クール・サウンド>と呼んだことに由来する言葉です。

クールというジャンルや、

クールが音楽としての見てくれや感触の違いを超えて、バップの延長線上にあることが見えてきます。それに対して、ウエストコースト派には、どういうルールや仕掛け(曲作りや編曲)を施せば、ゲーム(演奏)を面白く楽しむことができるかという、いわばクール派とは逆向きの発想が目立ちます。

聴いて区分するのは難しいが、発祥地や思想が異なるウエストコーストジャズというジャンルや、

モダン・ジャズ系の白人ビッグ・バンドをまとめてく<プログレッシブ・ジャズ>と総称することもあります。

プログレッシブジャズというジャンル…

50年代の中期になってハードバップの勢いが急上昇した背景には、アメリカ社会全体にみなぎり出した人種意識の昂揚がありました。そういう時代の空気が黒人ジャズのアイデンティティとしてのハードバップにスポットを当てた。

戦後に、アメリカのために戦った黒人が未だ差別されるという怒りから生まれたハードバップというジャンル・・・。

6.黄金期と言われる1950年代

1950年代はよくモダン・ジャズの黄金期だと言われます。その理由の一つは40年代の終盤に始まったLP制作が軌道に乗って、ジャズのアルバム作りが盛んになったことにありました。

こういった流れから、モダンジャズ(=ハードバップ)の古典名作は1950年代に集中しているようだ。そのほかにも、

最初にシュートを放ったのは、サックス奏者でコミカルな歌いっぷりが人気のルイ・ジョーダン。<ジャンプ・ブルース>と名付けられたそのスタイルは、その後様々なブラック・ミュージックと合体して、50年代の<リズム・アンド・ブルース(R&B)>に引き継がれました。

のちのR&Bへつながっていく道のりをルイ・ジョーダンが作ったり、

マイルスの狙いは、バップ以降の音楽性の高まりや、派手なアドリブの競い合いによって複雑化したコード進行の束縛を逃れて音色とメロディーラインの美しさが活きる演奏に道を開くことでした。そこで入り組んだコードワークの迷路に変えて、モードというゆったりした直進道路を用意し、ゆとりを持ってその中を歩き回るシステムを採用しました。

マイルスデイビスも新しい道を作ったりとのちにつながる時代の流れを作った期間だったのだろう。

7.モダンジャズが終わった1960年代

フリージャズは60年代とともに終わった、というのが大方の見方です。

これまで外から注ぎ込まれる力をエネルギーに変えて、代謝機能を高めて前進してきた、ジャズの進化にストップがかかる時期にさしかかるという。

エネルギー代謝を司る即興機能をフル回転させて加速を続けてきたジャズは、コルトレーンの「アセンション」に至って、ついに臨界点に達しました。

モダンジャズ神話の崩壊は、モダンジャズ最大のカリスマとして、常にメインストリームの頂点に位置していたマイルス・デイヴィスの足取りからも伺うことができます。危機を感知した帝王マイルスは即座に次なるステップへ向けた試行錯誤の旅に出ますか、周囲はなかなかがそれを理解してくれない。

このタイミングからビートルズをはじめとするロックがメインストリームとして流れ込んでくることも関係があるのかもしれない。

8.モダンジャズ主導の中央集権体制から、細分化された地方分権の時代へ

神話が崩壊した事でモダンジャズの求心力が急速に衰えたため、中心と周縁、本流と脇道という構図ーメインストリームを軸にジャズの全体図を描くことはおろか、メインストリーム(という考え方)そのものが画面から消えます。

ここが一般的にうジャズの分かりにくさなのだと思う。

そこに入れ替わって登場したのが、シカゴのAACMをはじめとする<非メインストリーム>だったわけです。モダンジャズ主導の中央集権体制が崩れて地方分権の時代へ。そう考えると分かりやすいかもしれません。

核を持たないままジャズが分散していったのだ。web3のようにも見える。

やがて、かつてアメリカのジャズ市場からはじき出されたフリー派がヨーロッパのあちこちにばらまいた種が、それぞれの土地柄・民族性と化学反応を起こしてクレオール化し、新しいタイプの即興音楽が生まれます。

70年以前の<大きな物語>はますますアーカイブ化し、サンプリングやリミックスが盛んになった80年代以降は完全にデータベース化します。乱暴な言い方をすると、駄作名作ひっくるめて過去の作品は、そこにアクセスして新しい解釈を加え、分解再構成して再利用する対象、リサイクル素材になったということです。

このような形で、タテのつながりやヨコの連携が希薄化して、ものごとの判断基準や価値観が相対化してコンセンサスが失われていく中で、解き放された解釈の自由だけが一人歩きする時代となったのだ。

9.まとめ

バンド活動がジャズの目玉だった何十年というもの、トップクラスのミュージシャンに求められる大事な資質は、バンドカラーに埋没しない自分だけの<色>ートレードマークになるような<スタイル>ーを持つことでした。<主体性><柄><個性>・・・言い方は色々ありますが、何れにしても、それには強い意志の力(エゴ)が必要でした。

ニューオーリンズから脈々と続いたジャズは、エゴによるカラーで牽引されてきた。

ポストモダンの波は、それをなし崩しに解体して<エゴ>の力を弱め、次なるキーワードとして<多面性>をスポット・ライトの下に引き出しました。

しかしそれが最終的にはエゴを弱めた多様性へと散らばって、ジャンルの壁がなし崩しに崩れていった。

これがジャズとは何かという問いであり、難しさなのであろう。



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