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音楽の聴き方とは
音楽の聴き方を読んだ。現存する音楽の聴き方を紹介しながら、なぜそうなったのかを歴史を紐解きながら解説し、音楽の聴き方とその向き合い方に迫っていく良本。
音楽の枠組みと自分の枠組みの交差を増やす
音楽は複雑な経路で能動的に入り込んでくる芸術
音楽は潜在的な感情を目覚めさせる装置
音楽を語れなくなった分岐点である18世紀後半
音楽が「する」/「聴く」/「語る」に分離していく19世紀
イデオロギーとして使われ、大衆化する音楽
音楽は引き出しの型は叩き込み、取り出し方はオリジナル
音楽の聴き方のマニュアル
1.音楽の枠組みと自分の枠組みの交差を増やす
音楽は決してそれ自体で存在しているわけではなく、常に特定の歴史/社会から生み出され、そして特定の歴史/社会の中で聴かれる。どんなに自由に音楽を聴いているつもりでも、私たちは必ず何らかの文脈によって規定された聴き方をしている。
というように、音楽は我々の持つなんらかの概念や文脈によって聞かれるものである。
「ある音楽がわからない」というケースの大半は、対象となる音楽とこちら側の「聴く枠」との食い違いに起因しているように思う。
よくわからない音楽は、自分の持つ聴く枠組みから外れているものと。
自由に音楽を聴くことなど、誰にもできない。ただし、自分自身の聴き方の偏差について、幾分自覚的になることによって、もっと楽しく音楽と付き合うことができるのではないか。
自分の性癖を理解して、個人の生理的反応の次元と客観的な事実とをある程度分けて聴くこと。これがこの本でいう音楽の聴き方のスタートラインだ。
2.音楽は複雑な経路で能動的に入り込んでくる芸術
思うに音楽は、その場の空気だとか、よくわからない相性だとか、聴いた時の体調や気分だとかに、ひどく左右される芸術である。端的にいって、音楽体験は、何よりまず生理的な反応である。「食べ物の好き嫌いだとか、いわゆる好みの異性のタイプにも似て」と付け加えてもいい。
ここからわかることは、音楽の善し悪しは"1) 客観的な事実判断 × 2) 自分の主観的な好み × 3) その時の自分の気分"の掛け算によって判断されるようだ。これは極めて客観的に判断するのは難しい。
音楽嫌いの三島は言う。「他の芸術では、私は作品の中へのめり込もうとする。芝居でもそうである。小説、絵画、彫刻、皆そうである。音楽に限って、音は向こうからやってきて、私をつつみこもうとする。それが不安で、抵抗せずにはいられなくなるのだ。
と三島由紀夫もこの能動的に複雑な経路で触れてくる得体の知れない音楽という存在を嫌っていたようだ。音楽は感覚/感情のマッサージのように入り込んでくる。
3.音楽は潜在的な感情を目覚めさせる装置
20世紀初頭のドイツで活躍した音楽評論家パウル・ベッカーは下記のように述べる。
「ある芸術作品が私に働きかけるか否かは、ひとえに私がそれを既に自分の中に持っているかどうかにかかっている。一見新しく見えるものも、実はこれまで意識してこなかったものが突如として意識されるようになっただけ、以前から暗がりの中でまどろんでいた内面の領域に突如として光が当たっただけなのだ」
芸術(音楽)体験において、人はあらかじめ自分の中にあるものを再認識しているだけだと。
「そしてそのような個人的体験は、それなりに貴重な温かい記憶となって、僕の心の中に残っている。あなたの心の中にも、それに類したものは少なからずあるはずだ。僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料として、世界を生きている。もし記憶のぬくもりというものがなかったとしたら、太陽系第三惑星上における我々の人生はおそらく、堪え難いまでに寒々しいものになっているはずだ。だからこそ、おそらく僕らは恋をするのだし、時としてまるで恋をするように音楽を聴くのだ。
音楽は絶対的な意味で新しいものを提供するのではなく、潜在的な感情価の目覚めであり、その感情の温もりを愛でるようなものになる。
4.音楽を語れなくなった分岐点である18世紀後半
「音楽を前にした沈黙をことさらに人々が聖化するようになったのは比較的近代になってからのことだ」
現在音楽を「言葉にできない」ものとして表現されることに違和感を持つ人は少ないかも知れないが、この感覚ができたのは18世紀末くらいで最近のもで、ドイツ・ロマン派の詩人たちによるものだという。
18世紀までの西洋の美学体系において音楽は、詩や絵画と比べて格落ちの二流芸術とみなされていた。それはなぜかといえば、音楽は明晰な概念や形を欠いていて、心地は良いけれども曖昧だからである。
というように、もともと音楽は芸術としての評価はそこまで高くなかった。ただ、時代は貴族の宮殿音楽としての権力と一体化した発展をしたり、宗教に対してダウトがで始めた時代背景が襲う。
音芸術を「言葉を超えたもの」として神聖化しながら、他方でそれについて語らざるを得ないといういう矛盾を、いかにして繕うか。それが近代の芸術批評の直面した課題だったとすら言えるかもしれない。
そうした中で、音楽は礼拝に関連する神聖さをもちながらも、嗜みとして言語化しなければいけないという狭間に置かれ、揺れ動いた結果、言葉を用いながら、言葉の無力さを嘆く形に落ち着いたようだ。それが、「言葉にできない・・・・」という落とし所だったと。
5.音楽は「する」/「聴く」/「語る」に分離していく19世紀
19世紀に入るとともに、ショパンやリストなど、専らプロだけを想定して作曲された演奏至難な曲が急増する。もちろん家庭での連弾など、自ら実践するアマチュアはまだ数多くいたとはいえ、次第に彼らの楽しみの領域は「自分で弾くこと」から、「本職の演奏を恭しく拝聴させていただく」ことへと移動し始めた。
19世紀に入ると、クラシック音楽を「する」ことが、難易度が上がることによって大衆から離れていってしまう。
近代の聴衆が放棄したのは、「すること」だけではない。かつての王侯貴族が作曲家に向かって自分の意見や要求を堂々と口にしていたのとは対照的に、18世紀の後半から生まれてきた市民階級の音楽愛好家は、最初から 一 拍子ないしブーイングをのぞいて ー 自分の意見を直接音楽家に伝える手立てを持っていなかった。
そして、「する」ことから離れると、自然と「語る」ことからも離れていく。聴衆は自分の言葉で音楽を評する手間と権利をジャーナリストに預けた。
産業革命以後の社会システムの最大の特徴である「分業」が音楽の世界でお生じ始めたのだという言い方もできるかも知れない。
分業はさらに音楽を、「する」/「聴く」/「語る」に分離した。19世紀に生まれた音楽産業にとっては、聴衆があまり自己主張しせずに黙っていてくれた方が好都合だったのだろう。
ベッカーが問題視するのが、19世紀に入って生まれてきた音楽産業である。彼は「仲介者」という言葉を使うのだが、要するに聴衆の娯楽ニーズに応じた音楽商品を出来るだけ効率的に供給するのが、音楽出版社だったり、マネージメント業であったりする。」
と批評家もここに厳しく言及する。
6.イデオロギーとして使われ、大衆化する音楽
「単純かつやや大まかではあるが、私は「1800年以前の音楽は話し、それ以後の音楽は描く」と言いたい。前者は、語られるものすべてと同様に<理解>されねばならない。理解が前提なのである。後者は気分によって働きかける。気分は理解する必要はなく、感じるべきものなのである」
指揮者のアーノンクールは、近代社会が目指したのが音楽による感動共同体であり、そのためには国境をこえて「誰にでもわかる音楽」が必要だったとすれば、それを欺瞞に満ちた近代イデオロギーとして手厳しく批評する。
「[フランス革命において]問題となっていたのは、音楽を政治的な全構想に統合することであった。その理論的原理によれば、音楽は万人に理解できるほど単純であらねばならなかったし、音楽はその人の教養の度合いに関わらず、万人を感動させたり、興奮させたり、眠らせたりしなければならなかった」
音楽を政治に取り込むために、音楽は万人に理解できるものに変化していく。言葉を用いずに、神秘的に聞いてくる音楽の助けを借りて、人間に影響を与えることができるということを理解した人間に使われた。
「今や音楽は「群衆に呼びかけ、新しい生の価値それ自体を自らのうちに吸収し、前代未聞の規模で持って[社会]を形成し、教化する力を持ち始めた」
とアドルノが言ったように、無秩序の群衆のカオスを、音楽が持つ人々を鼓舞する力によって、有機的な共同体へと結合するのだ。
7.音楽は引き出しの型は叩き込み、取り出し方はオリジナル
音楽についての解釈は、それが演奏であれ批評であれ、型についての共同体規範を知った上で、個々の作品や演奏の意味を解読しなければならないわけだ。あくまで、事実に基づき、かつ共同体規範を参照しつつ、その中に対象をしかるべく位置付け、しかしそこから「私にとっての/私だけの」意味を取り出し、そして他者の判断と共鳴を仰ぐ。
というように、音楽解釈の真骨頂は、型からの自分なりの解釈をするものだと。
知覚枠がわからなければ、音楽は音楽に聞こえない。ただのサウンド/シグナルにしか聴こえない。ある音楽を聴いてどうもよくわからないというケースの大半は「音を音楽として知覚するための枠組を持ってないことに起因する。
まずは音楽を自分に取り込むために引き出しとなる型を作るべき。そのためにも音楽は幅広く聴いて、自分の中でカテゴライズできる必要があろう。また、
音楽を上演する場もまた、一つの形式である。バロック時代からモーツァルトあたりまでの器楽合奏曲の多くは、貴族の祝賀会の類で鳴り響くことを想定して作られた。それと入れ替わるようにして、18世紀末の市民社会の成立とともに生まれたのが、私たちに馴染みのあるコンサートホールである。
第一次世界大戦が終わった1920年代になると、多くの音楽家がキャバレーなどに理想の音楽体験の形式を見出すようになる。
というように、音楽を聴く場所も引き出しのカテゴリーになるのだろう。
8.音楽の聴き方を取得するために
「音楽の聴き方」は相当な程度、「音楽についてどんな本を読んできたか」に規定される。どんな思考回路、どんな語彙、どんな価値観を持って音楽を聴くか、その少なからぬ部分が、読書によって形成されるのかもしれないのだ。
と、この本ではいいほんと出会い、ジャンルのアーカイブについての方向感覚を得ることを勧めている。
歴史を知り、価値体系とそのメカニズムと含蓄を理解し、語彙を取得すること。端的に言って「音楽の聴き方がわかる」とはそういうことだろう。
体系だった本を読みながらじっくり引き出しを作っていく作業をするのだ。
クラシック音楽のかなりの部分、そして前衛音楽のほぼ全てが多くの人々にとって「退屈」な理由は、「参加できない」ということに尽きるように思う。
というように、クラシックが現代マス化しないのは、参加できなからではないかという。「する」ができないから、「語る」こともできない。「聴く」だけになってしまって退屈ということだ。
おそらく自分で音楽を「して」見れば、いくらでも語ることは出てくるはずである。
まずは音楽を「する」行為が大事で、そのためには、音楽体験をする社会を作っていかなければいけないというのがベッカーの論だった。
最後に、著者が挙げていた聴き上手マニュアルを羅列する。
他人の意見は気にしない →自分が感じたことが出発点
世評には注意 →他人との違いを大事に
自分の癖を知る →自分の好き嫌いを知る
理屈抜きの体験に出会う →問題なくこれ!がくるまで聴き続けよ
明らかにお粗末な音楽も大事 →ダメな経験も比較対象として大事
有名な音楽家を神格化しすぎない →有名人もダメなところある
「絶対に素晴らしい!」と「明らかにひどい!」の中間段階がある
絶対的な傑作を除いて、多くの音楽は「語り部」の良し悪しにより、面白く聞こえたり、退屈になってしまったりする
「聴き上手」とは聴く文脈をいろいろ持っている人のことだ。
音楽には「本来の」文脈があり、伝承過程で形成されてきた文脈があり、別の文化/時代に移植されることで加わる文脈がある
名曲(名演)とは、どんな文脈を当てはめても(文脈に関係なく)、やっぱりすごい」となる確率が桁外れに高い音楽のことだ
そのジャンルに通じた友人を持つこと
定点観測的な聴き方をする
「固定客」の反応(例えば拍手)に学ぶ定点観測的な聴き方が勉強になる最大の理由
音楽は視なければわからない
「立ち去りがたさ」を大切に聴く
音楽を言葉にすることに躊躇しない
音楽についての本を読むことで、聴く幅が飛躍的に広がる
音楽の文法を知る
興味のある音楽があれば、その国の言葉を少し学ぶ
音楽に「盛り上がり図式」ばかりを期待しない
その音楽が「傾聴型」か「聴き流し型」か適切に判断する
美しくて、人を癒し、快適な気分にさせ、あるいは感動させ、勇気づけるものだという固定観念を捨てる
ある音楽がわからないときは文脈を点検する
ある音楽を身近なものと感じるには、それが生まれ育った文化を知るのが一番だ
そのジャンルのアーカイブを知る「ジャンル」として確立されている音楽の場合、必ず観客が暗黙の前提にしている架空の図書館がある
場を楽しむ。音楽とのもっと幸せな出会いは、「音楽」と「わたし」と「場」とがぴったり調和したと思える瞬間の中にある。
自分でも音楽をしてみる。
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