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写真はなにを写してる?
私にとって、写真というものは、機械によって描かれたリアリティだと思っていました。
写実性の物凄く高い、報道に使われるもの。
真(実)を写すので、写真。
しかし写真は絵と同じように自己表現のツールにもなります。切り取ることも、レタッチして自分の思うように色形を変更することも可能です。
これは一体なんなのでしょうか。
どんな人が機械的に撮っても、写真です。
撮ったものを加工して絵のようにしても、写真です。
客観的に、俯瞰的に、具体的に撮っても構わないのです。
主観的に、近視眼的に、幻想的に撮っても写真になるのです。
どう撮っても写真として、世間では評価されます。その中には私にとってはつまらない、ワクワクしない写真も多くあります。
そういった写真が評価されている軸は何でしょう。何故それを撮影者が撮ろうとしたのでしょう。
そんな風に思うのは、きっと私の知識が足りないせいだと思います。(もっとのびのびと、写真を見たいなぁ……)
カメラを買いたての頃に撮った一枚。
そこで、ホンマタカシさん著の『たのしい写真 よい子のための写真教室』を読んでみました。
この本は現代美術から広告まで幅広く活躍する写真家、ホンマタカシさんが書いた写真論です。(2008年には日本人現代作家として初めてニューヨークのApertureから写真集も出しています。)
私の息苦しいような、写真鑑賞時の疑問はこの本の冒頭で、呆気なく崩れ去りました。
〈真を写す〉というスゴく強い言葉のせいだと思うのです。そもそもPhotographという単語の語源に「真実」という意味は含まれていません。
photo=光 graph=描く、あるいは画
ですから、普通に訳せば「光画」ぐらいの訳が妥当でしょう。
そう、写真とは光で描く画だと思えばよかったのです。機械が作るのではなく、カメラというツールを使って光で画くもの。
上記のことはカメラの構造を考えれば当たり前のことです。私は「写真」という言葉に思っていた以上に縛られていたことを実感しました。
また、近代写真の歴史を紹介してくれる中で写真とはこのようである、とさらりとおっしゃっていました。
自分を取り巻く世界をとらえる方法
世界をどう見ているか、その見え方を伝える・表現する方法として撮っているのです。
私にとって退屈だと思える写真にも「私には世界はこう見えている」という明確な意志がありました。
そして私のワクワクしない写真、なんの変哲もない場面を撮ったものついて、最も捉え方が変わった一文がこちらです。
絞りが小さければ、手前から奥まであらゆるものにピントを合わせられるようになる。つまり画面の隅々までを等価値に表現することが可能になるのです。
レンズを絞っていない写真は被写体すべてを「等価値」であると考えて撮っている、と捉えることができるのです。
全てにピントを合わせることは、フレーム内の被写体全てを等価値に愛していると言えます。今までドラマチックに思えなかった、風景写真の見方が変わりました。
写真は現実の真を写すのではなく、撮影者の世界観の真を写すのだと、思えました。
じゃあ私は今後どうやって撮ろうか。
そんな考えで頭の中をぐるぐるさせながら、先週宮城の松島に弾丸で行ってまいりました。
霧雨が降ったり止んだり、基本曇り空でしたが、無人島や瑞巌寺、禅林を堪能してきました!
2019年7月、私の松島観光写真をここに置いておきます。
私の世界の松島です。
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