【書評】『君は君の人生の主役になれ』/自分語り【基礎教養部】

「君は君の人生の主役になれ」というタイトルが気に入っている。私が好きなのは「主役」ではなくて「君は君の」の方である。他でもないこの私に言ってくれている気がして、身が締まるからだ。

本書のメッセージは二つあると思う。一つは、自分が「大人」から受ける(受けそうになっている)コントロールに自覚的になれということ。もう一つは、複雑なこの世界をそのまま複雑なものとして受け入れながら、自分独特の人生を切り拓いていけ、というものだ。後者の方が、より本質的である。

複雑なものを複雑なものとして受け入れる。言葉で言うのは簡単だけれど、実践するのは難しい。複雑なものを単純化して理解する(理解した気になる)。グループ分けをして、ラベルを貼る。そういうふうにして、人さえも交換可能なモノのように扱いながら、私たちは生活している。本当は、グループなど存在しないはずである。この世界に同じ人やモノは一つとして存在しないのだから。

「大人」から受けるコントロールとは何か。これは、複雑なものを複雑なものとして受け入れられない人から受ける、グループ分けの基準への強制的な矯正とでも言い換えられるだろうか。「子供」は複雑性そのものである。大人は子供のことをそのままでは「理解」できないから、類型化する。世界にたった一人しか存在しないその子供を既存の枠に当てはめても、その枠からはみ出す部分があるのは当然のことである。しかし大人はそれに耐えられない。だから矯正する。

本書に何度も登場するこのような記述は、私にはあまりピンとこなかった。周りの人間に恵まれてきたのだろうと思う。しかし自分が他者に対しては同様のことをしてないだろうか。

ところで、この書評は、あるコミュニティにおいて課されている定期的な課題である。メンバーどうしで書評を読み合って意見交換をすることをはじめとした、コミュニケーションの活発化を目的としている。私も含め、扱う書籍は自分の専門に関するものや趣味関連など、さまざまだ。

そんな中で今回、本書を選んだ理由。一つは、先日公開された宮崎駿監督の映画「君たちはどう生きるか」、そして同タイトルの吉野源三郎の小説に心を動かされて、その体験や、それを踏まえて自分の人生について考えている過程を書きたかったから(「君たちはどう生きるか」を選ばなかったのは、過去に別のメンバーが同書の書評を書いたことがあり、一度扱われた本は選べないというルールがあるから)。本書を読む前はタイトルだけを見て似たような内容なのかと思っていたのだが、実際に読了後に抱いた印象はかなり異なるものであった。そしてもう一つは、書評という体で自分語りができそうだったからである。何せ「人生」なのだから、なんでもアリだ。

書評の機会を利用しなくても、自分語りなどしたいときにしたいだけすればいいのである。ありがたいことに私は、語りたいことを語り、それに応えてもらえるという、貴重な場を提供していただいている。一方的な放出よりも、双方向のやり取りの方が真剣になれる。相手の顔を意識しながら語ることになる。そしてこのちょっとした緊張感を伴った雰囲気は私にとって良い刺激になる。しかし最近は自ら発信したり、自己を開示するようなことが以前よりも減ってしまった。考えてみると、こうなってしまったことにはっきりとした原因があるわけでもないのである。確かに自分のことを話すのは小っ恥ずかしいという思いが無いわけでもないが、そんなことは些細な問題なのだ。それよりも、「ちょっとだけ面倒臭いなぁ」という気持ちだったり、「明日やればいいや」という先延ばしの態度の方が、実は深刻である。

明日が来るかどうかわからない。確かにその通りである。しかしその事実をシリアスに受け取ることはできない。感覚的には明日は100パーセント来るし、自分が死ぬときのことも想像できない。

「ちょっとだけ面倒臭いなぁ」の方は、まあ、やってしまえばいいのである。やってもやらなくてもそんなに変わらない。それだったら、やってみる。一回分はごく少量でも、それを何回もやれば大きく膨らんでいく。この先も自分の人生が長ーく続いていくものだと思っているなら、自分の将来、そして将来の自分がそれまでに歩んできた道のりを振り返るときのことを想像しながら、今をコツコツと頑張れそうである。長い時間をかけて積み重ねてきたものは、それだけで価値がある。最近はエレキベースの練習をしている。まだ始めたばっかりだ。すぐに上手く弾けるようにはならないけれど、自分の手が思い通りに動かないことに苦しみながらも、それでも楽しく練習している。このあいだまで弾けなかったフレーズが知らず知らずのうちに弾けるようになっていたりもする。そういうのも、楽しい。

話は変わって、私には今、好きな人がいる。以前は自分が抱いているこの感情を「好き」と呼ぶことに躊躇いがあった。これが「好き」かどうか分からなかったからだ。しかし少し考えてみればわかる通り、「好き」が何なのかを理解できる日など永遠に来ないのである。それぞれの感情に名前は一応ついてはいるけれど、だからと言ってそれはその感情が誰にとっても一意に定まることを意味しない。都度、「これが『好き』なのかなぁ、うーむ」と悩みながら、モヤモヤとした雲のような、自分だけの「好き」イメージを創り上げていくのである。だから、自分が好きと言えば、それが「好き」なのだ。

好きは楽しい。一人でいるときに美味しいものを食べたら、あの人にもぜひ食べてもらいたい。面白い映画があったら一緒に見たい。心動かされる文章があったらシェアして語り合いたい。もちろん会っていない間にずっと I miss you… ではないけれど、それでも少し先に会える日は待ち遠しい。少し先にある楽しみに引っ張られて、今を、頑張れる。

楽しいだけではない。LINEの返信が返ってこない間は、自分が何かマズいことを言ってしまったのではないかと不安になる。会って別れたあとに、自分が言ったこと、言わなかったことを後悔する。思い出しただけでも恥ずかしくて、叫び出したいこともある。

それでも、そういう苦しいことも含めた全てのことが、私の人生を彩り鮮やかにしている。言葉を尽くしても分かり合えない、それは分かっていても、いやだからこそ相手への興味は尽きないし、これからも何度でも会いたい。相手のどこが好きかと聞かれても、言葉では答え切れない。私はあの人を要素還元的に好きなわけではないからだ。ただ、あの人が、好き。

自分語りパート終わり。ここまで読んでいただいて、本当にありがとう。本の細かい内容はあまり覚えていない。タイトルはインパクトが強いから、多分忘れない。自分のことを語るのは、始めてしまえばスルスル進むし、思っていたよりも楽しいことがわかった。

人生の中では、避け難い苦しみに直面して悶えることもある。しかし、そういうときこそ私の中で生の実感が光り輝く。磐石な足場はない。その上、世界は広くて複雑である。そんな中で、これからも生きていく。そして、これまでも生きてきた。とにかく、手探りでやっていくしかない。正解はない。
そして、だからこそ楽しい。
言葉で何かを言うことは簡単だけど、それを実践するとなると…。饒舌になることが目的ではない。言葉は大事だけど、大事にしすぎるのもよくないのだろう。

まとまりは無いようであるようで無さそうだが、私が今書き残しておきたいことは、このくらいである。

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