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Recoの君語りー『光る君へ』(第4回)「五節の舞姫」ー

 主人公は紫式部。 平安時代に、千年の時を超えるベストセラー『源氏物語』を書き上げた女性。彼女は、藤原道長への思い、そして、秘めた情熱とたぐいまれな想像力で、光源氏=光る君のストーリーを紡いでゆく。
 変わりゆく世を、変わらぬ愛を胸に懸命に生きた女性の物語。(NHK)

 今年の大河ドラマは、少女漫画のようで面白い。ノベルズではなく、コミックスを読みたい。コミケでは薄い本になるだろうなぁ。
 記事の執筆は、古文の授業の復習というか、大学入試の気分。「五節」と言われても、『枕草子』しか思い浮かばない(苦笑)。

 この「わたしを生きてみせる」というキャッチコピーが大好きです。
 noteを始めて4年と2日。金欠と体調不良でいつまで生きられるか分からないけど、誰もサポートしてくれなくても、誰も読んでくれなくても、生きている間は書き続けようと思っています。それが私の生きる道だから。

 これまで互いに身分を偽ってきたまひろと道長。ついに素性を明かしたまひろに、道長も真実を語ろうとする。一方、道長の姉・詮子(吉田羊)は、円融天皇の譲位を知り、挨拶のために謁見する。しかし、詮子はそこで思いもよらぬ嫌疑をかけられる。 そんなある日、まひろは源倫子(黒木華)からの依頼で、即位した花山天皇(本郷奏多)の前で五節の舞を披露する舞姫に選ばれる。しかし、そこでまひろは驚愕の真実を知ることになる。

NHK


【家系図】

【紫式部の家族(ドラマの設定)】

 前室・藤原為信の娘:ちやは。紫式部が9歳?の時に殺害される。
   ┣長女:ドラマには登場しない。
   ┣次女:まひろ。紫式部(970 -?):このドラマのヒロイン。
   ┣長男:太郎。藤原惟規(971? -1011):越後国で死去。享年41。
 藤原為時(越前守→越後守)


【藤原氏(北家)】

藤原忠平┳実頼━頼忠遵子(円融天皇中宮)
    ┃     ┗
公任
    ┗師輔┳伊尹━懐子━師貞親王(後の花山天皇)
       ┣兼通
       ┣安子┳冷泉天皇(第63代)
       ┃  ┗円融天皇(第64代)
       ┣兼家┳道隆━定子(一条天皇中宮)
       ┃  ┣超子━居貞親王(後の三条天皇)
       ┃  ┣道兼
       ┃  ┣詮子(円融天皇女御)懐仁親王(後の一条天皇)
       ┃  ┗道長
       ┗為光┳斉信
          ┣長女(藤原義懐室)
          ┗忯子(花山天皇女御)


【天皇家】

村上天皇(第62代)┳冷泉天皇(第63代)┳花山天皇(第65代):母・懐子
         ┃         ┗三条天皇(第67代):母・超子
         ┗円融天皇(第64代)━一条天皇(第66代):母・詮子

 冷泉天皇が退位した安和2年8月13日、安和元年10月26日生まれの花山天皇は幼かったので、成長するまでの繋ぎとして弟・円融天皇が即位した。成長した花山天皇が即位したが、藤原兼家は、天皇になれるはずのない円融系の孫・懐仁親王を一条天皇として即位させるために陰謀を巡らし、花山天皇を約1年で退位させ、一条天皇が即位すると、外祖父として力を得た。
 以後、冷泉系と円融系との皇位迭立が続いたが、円融系を父方、冷泉系を母方とする後三条天皇(第71代)の即位により、両皇統は融合された。


1.『竹取物語』

赤染衛門「かぐや姫は、五人の公達になぜ無理難題を突き付けたのでしょう?」
紫式部「かぐや姫には、やんごとなき人々への怒りや蔑みがあったのではないかと思います。帝さえも翻弄していますから。身分が高い、低いなど、何程の事というかぐや姫の考えは、誠に颯爽としていると思いました」
源倫子「まひろさんは、私の父が左大臣で身分が高いということをお忘れかしら。フフフ、ほんの戯言」

『竹取物語』は、「現存する日本最古の物語」とされるが、成立年は未詳である。平安時代に書かれた『源氏物語』に、
・『竹取の翁』(「絵合」)←今回のドラマのモチーフ?
・『かぐや姫の物語』 (「蓬生」)
として登場することから、平安時代前期には存在していたであろう。

 弥生の十日のほどなれば、空もうららかにて、人の心ものび、ものおもしろき折なるに、内裏わたりも、節会どものひまなれば、ただかやうのことどもにて、御方々暮らしたまふを、同じくは、御覧じ所もまさりぬべくてたてまつらむの御心つきて、いとわざと集め参らせたまへり。
 こなたかなたと、さまざまに多かり。物語絵は、こまやかになつかしさまさるめるを、梅壺の御方は、いにしへの物語、名高くゆゑある限り、弘徽殿は、そのころ世にめづらしく、をかしき限りを選り描かせたまへれば、うち見る目の今めかしきはなやかさは、いとこよなくまされり。
 主上の女房なども、よしある限り、「これは、かれは」など定めあへるを、このころのことにすめり。
 中宮も参らせたまへるころにて、方々、御覧じ捨てがたく思ほすことなれば、御行なひも怠りつつ御覧ず。この人びとのとりどりに論ずるを聞こし召して、左右と方分かたせたまふ。
 梅壺の御方には、平典侍、侍従の内侍、少将の命婦。右には、大弐の典侍、中将の命婦、兵衛の命婦を、ただ今は心にくき有職どもにて、心々に争ふ口つきどもを、をかしと聞こし召して、まづ、物語の出で来はじめの祖なる『竹取の翁』に『宇津保の俊蔭』を合はせて争ふ。
「なよ竹の世々に古りにけること、をかしきふしもなけれど、かくや姫のこの世の濁りにも穢れず、はるかに思ひのぼれる契り高く、神代のことなめれば、あさはかなる女、目及ばぬならむかし」
と言ふ。右は、
「かぐや姫ののぼりけむ雲居は、げに、及ばぬことなれば、誰も知りがたし。この世の契りは竹の中に結びければ、下れる人のこととこそは見ゆめれ。ひとつ家の内は照らしけめど、百敷のかしこき御光には並ばずなりにけり。阿部のおほしが千々の黄金を捨てて、火鼠の思ひ片時に消えたるも、いとあへなし。車持の親王の、まことの蓬莱の深き心も知りながら、いつはりて玉の枝に疵をつけたるをあやまち」
となす。

『源氏物語』「絵合」

 はかなき古歌、物語などやうのすさびごとにてこそ、つれづれをも紛らはし、かかる住まひをも思ひ慰むるわざなめれ、さやうのことにも心遅くものしたまふ。わざと好ましからねど、おのづからまた急ぐことなきほどは、同じ心なる文通はしなどうちしてこそ、若き人は木草につけても心を慰めたまふべけれど、親のもてかしづきたまひし御心掟のままに、世の中をつつましきものに思して、まれにも言通ひたまふべき御あたりをも、さらに馴れたまはず、古りにたる御厨子開けて、『唐守』、『藐姑射の刀自』、『かぐや姫の物語』の絵に描きたるをぞ、時々のまさぐりものにしたまふ。

『源氏物語』「蓬生」

 かぐや姫は、求婚してきた色好みといわれる5人の公達に無理難題(石作皇子には「仏の御石の鉢」、車持皇子には「蓬萊の玉の枝(根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝)」、右大臣・阿倍御主人には「火鼠の裘(焼いても燃えない布)」、大納言・大伴御行には「龍の首の珠」、中納言・石上麻呂には「燕の産んだ子安貝」を持って来させるというお題)を出し、誰も用意できず、最終的には帝の求婚さえも断った。これは「偉そうにしているけど何も出来ない」という上流階級の人々の罵倒であり、政治的意味が濃いとされていますが、かぐや姫が求婚を断った理由は、かぐや姫は月の住民で、罪を犯しで地球に「島流し」ならぬ「星流し」され、刑期が終われば月に帰ることになっていたからです。外国人との国際結婚は可でも、宇宙人との宇宙結婚は不可なのです。

 かぐや姫は、月に帰る時に「不死の薬」を残したが、「姫に会えないなら、こんな薬を飲んでも仕方がない」として、月に最も近い場所=高い山の頂上で焼いた。その山を「不死山」という。今の富士山である。

 『竹取物語』の原型の1つとされるのが比奈の「竹採伝説」です。この「竹採伝説」では、延暦年間(782~806)、かぐや姫は、駿河国司の求婚を断り、不死の薬を残して富士山頂の宮殿「仙洞」に戻ったそうです。国司は仙洞へ追って行くも、やはり拒否されたので、不死の薬を持ったまま、コノシロ池に飛び込み自殺したそうです。それで、富士山頂のコノシロ池の水を飲むと不死になるとされています。(愛知県豊橋市の石巻山のコノシロ池の水は、万病(特に眼病)に効き、「東洋のルルドの泉」と呼ばれ、最盛期には1日1000人が飲みに集まったそうですが、今では小学生が遠足で行くくらいのようです。)
 ちなみにコノシロは魚の名前で、焼いた時の臭いが、人の死体を焼いた時の臭いに似ているそうです。(父の火葬の時も、母の火葬の時も、出てきた骨を嗅いでみたけど無臭でした。)

『 美少女戦士セーラームーン 』のセーラームーンの正体は月の宮殿「ムーン・キャッスル」に住む次期「千年女王」(クイーン・セレニティ)です。こちらはめでたくタキシード仮面(地球人・地場衛。プリンス・エンディミオンの生まれ変わり)と結婚出来ました。 

2.円融天皇に嫌われる詮子

「朕に毒を盛ったのは、お前と右大臣の謀か。懐仁を東宮にするために身を引く。なれど、お前のことは許さぬ。二度と顔を見せるな」

3.花山天皇(17歳)の即位、結婚と政治


安和元年(968年)10月26日生まれ。
永観  2年(984年)8月27日即位→藤原斉信の妹・忯子と結婚。
17歳。やんちゃな思春期真っ盛り!

ちなみに、永観2年(984年)8月27日には、
まひろ  15歳 ※このドラマの設定は970年生まれ。生意気盛り!
藤原兼家 56歳 ※929年生まれ
藤原詮子 23歳 ※962年生まれ
藤原道長 19歳 ※966年生まれ
円融天皇 26歳 ※959年生まれ
源 倫子 21歳 ※964年生まれ。未婚。当時としては出遅れ。
藤原斉信 18歳 ※967年生まれ
藤原忯子 16歳 ※969年生まれ

<花山天皇のブレーン>
・外叔父・藤原義懐(よしちか。正室は藤原忯子の姉)
・乳母子・藤原惟成(これしげ/これなり)

<花山天皇の業績「花山新制」>
・荘園整理令(違法な荘園の整理)
・破銭法(破銭忌避の禁止):「銅銭を使え」。
・沽売法(物価統制令):「布1反を100文、銅1斤を60文と定めよ」。

※荘園整理令:醍醐天皇の「延喜の荘園整理令」以後の荘園を「格後の荘園」と呼び、整理の対象にした「永観の荘園整理令」。永観2年(984年)11月28日発布。

永観2年(984年)円融天皇は花山天皇に譲位した。新帝の外祖父である伊尹が既に他界していたため、頼忠はそのまま関白に留まったが、東宮には懐仁親王が立てられた。頼忠は外戚たらんと花山天皇にも諟子を女御に入れるが、花山天皇の寵愛は受けられず、やはり皇子は得られなかった。また、若年ながらも新帝の補佐役として権中納言に抜擢されて将来の大臣・関白の資格を得た藤原義懐(伊尹の五男で花山天皇の叔父)が加わった事で、更に頼忠の立場を不安定にした。こうした中で積極的に親政を進めようとする天皇及びこれを補佐する義懐と頼忠の確執は深まり、この年の12月28日に出された「令上封事詔」では、「大臣重禄不諫」と書かれて頼忠以下諸大臣が天皇から糾弾される事態となっている。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

※「封事を上らしめ給へる詔」。永観2年(984年)12月28日発布。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1041451/1/176
※破銭法
:破銭(割れたり欠けたりした銅銭)の使用を禁じた。永観2年(984年)11月発布。
※沽価法:こかほう。「京中物価沽価の法」ともいう。市場における公定価格及び物品の換算率を定めた法律。破銭の流通による銭価下落による物価騰貴に対する措置。破銭は溶かして銅地金にした。寛和2年(986年)3月29日発布。
※銭流通のための祈祷:銭が使われなくなったため、寛和2年(986年)6月16日に銭価流通のための祈祷がなされた。

4.花山天皇の奇行と性欲


(1)烏帽子を取る。

 蔵人頭を「天皇が変われば蔵人頭も変わるのが慣習」だとして、かたくなに蔵人頭の継続を辞退する藤原実資に癇癪を起こし、叔父・藤原惟成の被り物を奪った。(実際の烏帽子は透けていないが、ドラマでは軽く見せるために透かしている。黒髪を茶髪にする理由と同じで、真っ黒だと見た目が重い。)

花山院、殿上人、冠を令取給ひけり。其の中、惟成弁奉被取。関白参給ひけるに、不着冠、云々。関白(頼忠)問ひ給ひければ、「みかどのめしたれば」と申しけり。仍て不便之由。被奏ければ、其の後、不令取唯成冠給、云々。

『古事談』
https://dl.ndl.go.jp/pid/3441719/1/15
冠り物を取られるということは、今でいうなら、下着を脱がされたと同じ感覚の恥辱であった。

(2)高御倉で情交する。

 即位式の直前、待ち時間の間、高御座にて、源時明の娘・馬内侍(うまのないし)と情交したという。

花山天皇の即位式が行われることとなった。花山天皇は高御座(玉座)に座った。高御座には帳によって外部との区切りが設けられた。馬内侍は女官の一人として帳の上げ下げを担当することとなった。ところが、花山天皇は美貌の馬内侍を一目見て欲情したのか、彼女を高御座の中に無理やり引きずり込んでしまう。天皇は狭い空間のなかに馬内侍を押し倒すと、たちまち彼女に男性器を挿入してしまった。その後、天皇の玉佩と冠の鈴の音が鳴るほど激しく馬内侍は犯された。天皇の側近である藤原惟成は行為の音に驚き、高御座に駆け寄ったが、天皇は彼を追い払い、馬内侍を強姦し続けた。
その後、馬内侍は一条天皇皇后藤原定子などに仕えたことが知られている。

謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』

花山院、御即位之日、馬内侍、為褰帳命婦、進奏之間、天皇令引入高御座内給、忽以配偶、云々。

『古事談』
https://dl.ndl.go.jp/pid/3441719/1/15

 鈴の音がしたので、藤原惟成は「呼び鈴の音」だと勘違いして、「叙位の申し文」(叙位アップ希望の願書)を持って天皇の方へ行くと「しっ、しっ」(近寄るな。あっちへ行け)と手を振るのを「よきにはからえ」と言っているものだと思い込み、天皇の代わりに叙位を行った。

花山院、御即位之日、於大極殿高座上、未触剋限、先令犯馬内侍給之間、惟成弁、驚玉佩並御冠玲声、称「鈴奏」、持参叙位申文。天皇以御手令帰給之間、任意行叙位云々。

『江談抄』(巻1)「依無中納言例不行叙位事」
https://dl.ndl.go.jp/pid/3441719/1/164
さすがに映像化出来ないので言葉のみ。
拘束プレイがお好き? 相手は16歳ですが・・・嫌がってない? 性癖の一致?
https://twitter.com/i/status/1751568557799026765

※藤原忯子(969年生まれ。当時16歳):藤原師輔の三男・兼家の弟である九男・為光の娘で、藤原斉信の妹。藤原道長の従妹にあたる。通称は「弘徽殿(こきでんの)女御」。花山天皇に深く寵愛された。
 演じるのは、『新婚さんいらっしゃい』の司会の井上咲楽さん。「新婚初夜に縛られました~」と出演できそう。


■五節の舞


浄見原天皇、吉野の行宮にて琴を弾し給へば、天人影向し、曲に応じて舞遊びけり。それより振袖山といふ。

 「五節の舞」(単に「五節」とも)の起源は、大海人皇子(後の天武天皇)が吉野離宮(滝之宮。一説に勝手明神とも、吉野川の河原とも)で琴を弾じると、俄かに雲が湧きたち、その雲の中から乙女(天女。瀬織津姫とされる)が現れ、次の和歌を詠みながら踊り、袖を5回振ったそうです。(東西南北と天に向かって蝶が羽ばたくような感じで袖を振ればよろしいかと。)

乙女ども(袖振①)乙女さびすも(袖振②)唐玉を(袖振③)袂に巻きて(袖振⓸)乙女さびすも(袖振⑤)

 この舞をベースに考えたのが「五節の舞」だそうです。本来は五穀豊穣を願って、天皇自ら舞う舞でしたが、平安時代には女性(未婚の美少女の舞姫)が舞うことになっていました。

当時の飼いネコ「小麻呂」は、紐で繋がれていました。
五節の舞とは、収穫を祝う祭りの後の宴・豊明節会で未婚の舞姫たちが舞を捧げる神事である。

 今回、身分の低いまひろ(後の紫式部)は、花山天皇の一夜妻になりたくない身分の高い源倫子(後の藤原道長正室)の依頼で、即位した花山天皇の前で「五節の舞」を披露する舞姫に選ばれました。(舞姫は未婚の美少女でなければなりません。まひろはまだ15歳の「少女」なのでいいのですが、源倫子は21歳なので「少女」とは言えません。)

永観2年(984年)  9月28日 五節定(五節の舞姫の決定)
永観2年(984年)11月21日 新嘗祭(大嘗祭ではない!)
永観2年(984年)11月22日 豊明節会(「五節」本番)

 舞姫には、公卿の娘2人、受領、殿上人の娘2人の4人が選ばれました。即位のあった年の大嘗祭では公卿の娘が3人になっての5人なのですが、即位が8月以降の場合、大嘗祭は翌年に持ち越される決まりであり、舞姫は4人になっています。

 審議の末、今年は源雅信を中心にということで(?)、公卿の娘2人、受領、殿上人の娘2人のうち、源倫子のサロンの3人と、受領の娘として、加賀守の娘の「やよい」(「〇子」という名ではないので、まだ出仕はしていない)の4人に決定しました!
 舞姫の条件は「未婚の美少女」なので、個人的には日舞をやっている13歳くらいの美少女さんがよかったのですが、それではまひろ(吉高由里子さんは35歳)が浮いちゃう? 

・左大臣・源雅信の娘・源倫子の代理・まひろ(紫式部):吉高由里子さん
・権大納言(藤原朝光/済時?)の娘・茅子        :渡辺早織さん
・参議・藤宰相(藤原公季/為輔/佐理/時光?)の娘・肇子:横田美紀さん
・加賀守(源頼房?)の娘・やよい           :菊川陽子さん

 藤原肇子は「たいそう富のあるお顔の四角いお方」侍従宰相(ザブングル加藤さん)に見染められて結婚したそうです。

五節舞姫を見て詠める
  天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ

                   良岑宗貞(よしみねのむねさだ) 

『古今和歌集』(巻17)「雑上」872

【現代語訳】空吹く風よ、雲の切れ目を吹いて閉じてくれないか。五節の舞姫(雲の切れ目から舞い降りた天女)たちの姿を、しばらくこの場に引き留めておきたいので。

 日蔭糸(ひかげのいと)/日陰蔓(ひかげのかずら)よりも、袂に「唐玉」=「豊明」(蛍石?)を巻き付けていないことが問題かと。

 舞姫は、公卿の娘2人、受領・殿上人の娘2人が選ばれ、選ばれた家は名誉であった。また、女御が舞姫を出すこともあった。大嘗祭では公卿の娘が3人になる。古くは実際に貴族の子女が奉仕し、大嘗祭の時には叙位にも与った。清和天皇皇后の藤原高子も后妃になる前に清和天皇の大嘗祭で舞姫を奉仕して従五位下に叙された。もっとも貴族女性が姿を見せないのをよしとするようになった平安中期以降、公卿は実際に娘を奉仕させず、配下の中級貴族の娘を出した。『源氏物語』少女巻において、光源氏が乳母子の惟光の娘(のちの藤典侍)を奉仕させたというのも、こうした時代背景を反映する。また、これとは別に五節舞姫と天皇が性的関係を結ぶことが行われ、天皇と貴族との関係強化の場としても機能していたが、藤原北家などの特定の家からしか天皇の后妃が出せなくなると、性的要素が排除されて変質が行われて行ったとする見方もある。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 「豊明節会」は、「新嘗祭」の翌日辰日に行ふ。即ち、「新嘗会」なり。天皇出御ありて、内膳司、御膳を進め、太子以下群臣に各々饗饌及び禄を賜ふ(別に「平座」とて略儀あり、天皇出御なし。後世、節会を停むる時多く、平座を行ふ)其の間、吉野国栖は御贄を供じ、歌笛を奏し、治部雅楽の工人は立歌を奏し、大歌別当は歌人を率ゐて五節の歌を奏し、舞姫参入して五節を舞ふ。五節舞は天武天皇の朝に起り、其の後、新嘗、大嘗の節会には必ず此舞あり。予め女御、殿上人、及び受領等を点定して舞姫を献ぜしむ。定額四人なり(大嘗会には五人)、然れども其の服装、調度等、何れも自弁にして、且つ、互に華美を競ひしかば、其の費、活繁にして負荷に堪へ難く、後には事故に託して進献を辞するに至れり。されば宇多天皇は、公卿及び女御をして互に輪転して献ぜしむる制を定め給ひ、延喜十四年に、三善清行は上奏して、良家の子女二人を定めて舞姫とし、其の用度は総て官費を以て支弁せんことを請へり。然れども、遂に用ゐられず。其の後、冷泉天皇の安和二年に至り、藤原斉敏等の上奏に由りて、舞姫を献ぜし大臣、参議等には、特に年給を賜ふことゝなれり。然りども、猶ほ、費用多かりしかば、舞姫の衣服を其の所親に請ひ、或は院宮等より賜ふことあり。其の他の人々よりも、衣食調度を五節所に贈るを例とせり。また舞姫を献ぜしものゝ官位を進むることあり。舞姫の参入は丑日にして、此夜、帳台試あり。寅日、御前試あり。卯日、童女御覧あり。村上天皇の朝に始まる、何れも其の技を試み給はんが為めなり。また寅日及び卯日は「淵酔」とて、卿相雲客殿上に参集して、献酬朗詠等の事あり。次で五節所を訪ひ、或は院宮等に推参して、酔舞放吟するを例とす。

『古事類苑』

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