見出し画像

五節(ごせち)の舞

 「五節」とは、奈良時代以後、11月の午の日の大嘗祭、丑の日の新嘗祭の豊明の節会(とよのあかりのせちえ)の儀に披露された「五節の舞」を中心とする宮中行事のことで、旧暦11月の丑~辰の4日間にわたって行なわれました。(新嘗祭は、旧暦11月の2回目の卯の日に行われていましたが、新暦では翌年1月に当たり都合が悪いということで、明治5年(1872年)11月の2回目の卯の日であった11月23日に行われ、「勤労感謝の日」とされた。)
 例年、陰暦11月の丑~辰の4日間にわたって行なわれました。

・丑の日:舞姫が参入して「帳台の試み」(試し舞)
・寅の日:殿上(てんじょう)の淵酔。夜に「御前の試み」(試し舞)
・卯の日:童御覧(わらわごらん)
・辰の日:豊明の節会の儀(「五節の舞」の本番)

 雅楽で舞うのは男性であり、「五節の舞」は天皇が五穀豊穣を祈りながら舞っていましたが、後に女性が舞うようになりました。

NHK

 「五節の舞」の舞姫は。「五節定事(ごせちさだめのこと)」という審査によって、身分の高い者の娘が選ばれていました。しかし、平安時代以降は、身分の高い者が公の場に姿を現すことがなくなり、舞姫は、身分の低い者へと移行していき、貴族がそれぞれ舞姫と衣装を選び、美しさを競うものとして行われるようになりました。

 2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』においては、身分の低いまひろ(後の紫式部)は、身分の高い源倫子(後の藤原道長正室)の依頼で、即位した花山天皇の前で「五節の舞」を披露する舞姫に選ばれたとしました。花山天皇は女好きなので、万が一、見染められて、一夜妻にされたら嫌だということです。天皇の命令は絶対で、かぐや姫のように断れませんから。

 舞姫は、公卿の娘2人、受領・殿上人の娘2人が選ばれ、選ばれた家は名誉であった。また、女御が舞姫を出すこともあった。大嘗祭では公卿の娘が3人になる。古くは実際に貴族の子女が奉仕し、大嘗祭の時には叙位にも与った。清和天皇皇后の藤原高子も后妃になる前に清和天皇の大嘗祭で舞姫を奉仕して従五位下に叙された。もっとも貴族女性が姿を見せないのをよしとするようになった平安中期以降、公卿は実際に娘を奉仕させず、配下の中級貴族の娘を出した。『源氏物語』少女巻において、光源氏が乳母子の惟光の娘(のちの藤典侍)を奉仕させたというのも、こうした時代背景を反映する。また、これとは別に五節舞姫と天皇が性的関係を結ぶことが行われ、天皇と貴族との関係強化の場としても機能していたが、藤原北家などの特定の家からしか天皇の后妃が出せなくなると、性的要素が排除されて変質が行われて行ったとする見方もある。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 「豊明節会」は、「新嘗祭」の翌日辰日に行ふ。即ち、「新嘗会」なり。天皇出御ありて、内膳司、御膳を進め、太子以下群臣に各々饗饌及び禄を賜ふ(別に「平座」とて略儀あり、天皇出御なし。後世、節会を停むる時多く、平座を行ふ)其の間、吉野国栖は御贄を供じ、歌笛を奏し、治部雅楽の工人は立歌を奏し、大歌別当は歌人を率ゐて五節の歌を奏し、舞姫参入して五節を舞ふ。五節舞は天武天皇の朝に起り、其の後、新嘗、大嘗の節会には必ず此舞あり。予め女御、殿上人、及び受領等を点定して舞姫を献ぜしむ。定額四人なり(大嘗会には五人)、然れども其の服装、調度等、何れも自弁にして、且つ、互に華美を競ひしかば、其の費、活繁にして負荷に堪へ難く、後には事故に託して進献を辞するに至れり。されば宇多天皇は、公卿及び女御をして互に輪転して献ぜしむる制を定め給ひ、延喜十四年に、三善清行は上奏して、良家の子女二人を定めて舞姫とし、其の用度は総て官費を以て支弁せんことを請へり。然れども、遂に用ゐられず。其の後、冷泉天皇の安和二年に至り、藤原斉敏等の上奏に由りて、舞姫を献ぜし大臣、参議等には、特に年給を賜ふことゝなれり。然りども、猶ほ、費用多かりしかば、舞姫の衣服を其の所親に請ひ、或は院宮等より賜ふことあり。其の他の人々よりも、衣食調度を五節所に贈るを例とせり。また舞姫を献ぜしものゝ官位を進むることあり。舞姫の参入は丑日にして、此夜、帳台試あり。寅日、御前試あり。卯日、童女御覧あり。村上天皇の朝に始まる、何れも其の技を試み給はんが為めなり。また寅日及び卯日は「淵酔」とて、卿相雲客殿上に参集して、献酬朗詠等の事あり。次で五節所を訪ひ、或は院宮等に推参して、酔舞放吟するを例とす。

『古事類苑』

 その後、「五節」は、大嘗祭の時だけに行われ、それも廃止されましたが、大正時代に復興されてからは、旧華族の中から5人が選ばれ、宮内庁が振り付けや稽古を行い、大嘗祭後の饗宴の儀で披露されています。

五節舞姫を見て詠める
  天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ

                   良岑宗貞(よしみねのむねさだ) 

『古今和歌集』(巻17)「雑上」872

【現代語訳】空吹く風よ、雲の中にあるという道(雲の切れ目)を吹いて閉じてくれないか。五節の舞姫(雲の通い道=雲の切れ目を通って舞い降りてきた天女)たちの姿を、しばらくここに引き留めておきたいので。

■五節舞(ごせちのまい)

 宮廷儀礼に用いる楽舞の一つ。女舞。
 伝説によると、天武天皇が吉野宮で弾琴のとき、天女が出現して袖を五度翻して舞ったのが始まりという。
 初見は聖武天皇の天平14年(742)に「五節田舞(ごせちのたまい)」とみえ、その翌年には阿倍内親王(後の孝謙天皇)が自ら五節舞を舞ったという古い記録もある。
 東大寺大仏開眼供養(だいぶつかいげんくよう)(752)にも久米舞(くめまい)などの楽舞とともに五節舞が舞われており、もうすこし時代が下ると五節舞と田舞とは分離したが、五節舞はもともとは五穀豊穣を祈願する農耕呪術的な田舞に発するといわれている。
 それが雅楽寮に組み込まれ教習されるようになって様式が整い、宮中の式楽として大嘗会や新嘗会において重要な位置を占めるようになった。11月中の丑の日には帳台の試(こころみ)、寅の日には御前の試という舞姫天覧の儀があり、卯の日の童女御覧の儀(この夜が新嘗会)の翌日辰の日が豊明節会(とよのあかりのせちえ)となって、大歌所の大歌にあわせ五節舞が舞われた。
 初めから女舞とは限っていなかったようであるが、平安時代には明白に女舞となっており、舞姫は内教坊(ないきょうぼう)に所属している舞妓ではなく、貴族諸氏、受領などの子女が選任されて、これにあたった。その人数も大嘗会には5人、新嘗会には4人と定まっていた。
 室町時代にはすでに衰微していた五節舞は、1466年(文正1)以降廃絶に至り、1753年(宝暦3)に再興されたが、現在伝わるものは大正天皇即位のおり新たに復活されたものである。

日本大百科全書「ニッポニカ」
https://www.pref.nara.jp/54410.htm



①天武天皇と五節の舞


https://www.tenri-u.ac.jp/topics/q3tncs00001ywyt0.html

ここから先は

10,773字

家族になろう!

¥1,000 / 月
このメンバーシップの詳細

記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。