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【義経伝説】源義経の奥州落ち

 牛若丸(遮那王)は、鞍馬寺で育てられたが、承安4年(1174年)、鞍馬寺を出奔し、奥州平泉へ落ち、奥州藤原氏に保護された。その途中、3月3日の桃の節句に、東山道・鏡宿(長者屋敷)、もしくは、東海道・宮宿(熱田神宮)で元服し、「源九郎義経」と名乗った。
 その後、源平合戦を経て、文治元年(1185年)、九州落ち(九州幕府の樹立?)を目論むが失敗し、吉野へ入る。その後、吉野を出て京都周辺に潜伏するが、文治元年11月3日、都を落ち、文治2年2月、奥州平泉で奥州藤原氏に保護された。


《源義経の年譜》

平治元年(1159年・ 1歳)牛若丸(後の源義経)、誕生。
平治 2年(1160年・ 2歳) 父・源義朝、尾張国野田で暗殺さる。
承安 4年(1174年・16歳)鞍馬寺を出奔。鏡宿で元服し、源義経に。
治承 4年(1180年・22歳)義経街道白河)を通って平泉から鎌倉へ。
寿永 2年(1183年・25歳)源義経、上洛。
元暦元年(1184年・26歳)正室・河越重頼の娘・良子(郷御前)と結婚。
文治元年(1185年・27歳)壇ノ浦の戦いで平氏滅亡。源義経、京へ凱旋。
文治 3年(1187年・29歳)奥州へ落ち延びる。
文治 5年(1189年・31歳)衣河館で郷御前と娘を殺してから自害。


奥州落ちコース案①:東海道
奥州落ちコース案②:東山道
奥州落ちコース案③:北陸道

承安4年(1174年)、16歳での奥州落ちは東海道、文治3年(1187年)、29歳での奥州落ちは北陸道(一部海路)を使ったのではないかと思われる。

★『義経記』に見る承安4年の義経奥州落ち
https://note.com/sz2020/n/nfed34997faad

★『義経記』に見る文治元年の義経奥州落ち
https://note.com/sz2020/n/nac7c1e79ae9d

★愛発関はどこにあったか?
https://note.com/sz2020/n/n523eb31fc554

★『義経記』に見る『勧進帳』の原型
https://note.com/sz2020/n/n61b85b7f6e6a

1.義経伝承:承安4年の奥州落ちの足跡

京都府 京都市  首途八幡宮(源義経奥州首途(かどで)の地)
滋賀県 竜王町  元服の池(鏡宿)
         烏帽子掛の松(鏡神社)
         弁慶の筵石(鏡神社)
愛知県 名古屋市 熱田神宮(宮宿)
    岡崎市他 浄瑠璃姫伝説(矢作宿)
    豊川市  弁慶松(菟足神社)
         弁慶の『大般若経』(菟足神社)
静岡県 湖西市  弁慶の載岩(湖西連峰)
    焼津市  源義経ゆかりの庭園(普門寺)
    静岡市  義経硯水(蒲原宿)
千葉県 銚子市  犬吠埼
         犬岩
         千騎ヶ岩
         宝満島


■京都:出発地

 首途八幡宮(金売吉次の屋敷付近)の「源義経奥州首途之地」碑

東山道鏡宿での元服

 東海道を通ったと思われるが、東山道(後の中山道)の鏡宿(滋賀県蒲生郡竜王町鏡)で元服したといい、鏡宿には、
元服の池
烏帽子掛の松(鏡神社)
・弁慶の筵石(鏡神社)
が残る。

※「鏡の宿 義経元服ものがたり」(竜王町)
http://www.town.ryuoh.shiga.jp/yoshitune/genpuku.html
https://ryuoh.org/historic/yoshitsune/
※謡曲「烏帽子折(えぼしおり)」

 この奥州落ちの同伴者は、弁慶、金売吉次(上野国~陸奥国以外)、陵助頼重(上野国~陸奥国)で、鏡宿の長者・沢弥伝(さわやでん)の屋敷に泊まり、「稚児姿では見つかりやすい」と元服を決意し、烏帽子屋五郎大夫(ごろうたゆう)に源氏の左折れの烏帽子を作らせ、鏡池の石清水を用いて前髪を落とし、元結姿を池の水に映して元服をしたという。

東海道宮宿での元服

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 また、東海道を往き、『義経記』では、元服を熱田神宮で行ったとする。

■浄瑠璃姫伝説

 ・愛知県岡崎市の史跡(妙大寺(廃寺)、浄瑠璃姫の墓など)
 ・愛知県豊川市の史跡(宮路山の浄瑠璃姫の腰掛石、猿岩)
 ・静岡県静岡市の史跡(吹上の六本松、義経硯水)
 ・東京都八王子市の史跡(長池公園)
 ・青森県青森市の史跡(貴船神社)

「源義経と浄瑠璃姫」
https://note.com/sz2020/n/n921a0b784b2f

■弁慶松と弁慶の『大般若経』(菟足神社)

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 大雨による豊川の増水で対岸に渡れず、「志香須賀の渡し」の渡津宿(奈良官道の渡津駅)に逗留した時に植えた松が「弁慶松」で、逗留中に書き写したのが「弁慶の『大般若経』」(国指定重要文化財)だといい、宝物殿に納められている。(弁慶が数日間で書き写したと伝えられてきたが、『大般若経』は600巻あり、書写には数人で数年かかる。調査の結果、研意智の書写と判明した。)

■弁慶の載岩(湖西連峰)

 大きな岩の上に小さな岩が載っている。弁慶が載せたという。

「西郷谷紀行 ④街道巡り」
https://note.com/sz2020/n/nd033650b780b

■源義経ゆかりの庭園(静岡県焼津市の普門寺)

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 源義経は、東海道(陸路)を往ったと思われるが、太平洋航路説もある。
 その根拠は、
①陸路では発見される可能性が高い。
②太平洋航路は存在した。(湖西古窯の製品が太平洋側で青森県まで出土している。)
である。そうであれば、
 宮もしくは鳴海→帯の湊(湖西市新居町)→焼津→銚子→塩竈
であろうが、当時の舟では水難事故の可能性が高く、陸路を選択したと思われる。「陸路では発見される可能性が高い」というが、発見されない、すれ違っても源義経だとは分からないであろう。
理由①:「16歳の幽閉されていた無一文の少年が鞍馬寺から逃げた」と聞けば、京都市内を捜索するはずで、「遠くまで(平泉へ)逃げようとしている」という想像はないであろう。16歳の少年が、武士に囲まれて移動していれば不審に思うが、お金持ちの商人と一緒に歩いているのを見ても商人と使用人にしか見えないはず。
理由②:鞍馬寺に幽閉される時の2歳の牛若丸の顔も体型、身長は多くの人が見ているが、幽閉されていた16歳の少年の顔や体型、身長を知っている人は皆無に近いはず。
 文治元年の義経奥州落ちの故地は多いが、承安4年の義経奥州落ちの故地は少ない。目の前を16歳の少年が通っても、鞍馬寺に幽閉されていた源義経だと気づかなかった(知らなかった)ためではないだろうか。
 とはいえ、承安4年の義経奥州落ちでは犬吠崎以北、文治元年の義経奥州落ちでは新潟県の義経伝承地がないので、そこは船で移動していたのかもしれない。


■義経硯水(静岡県静岡市)

※「源義経と浄瑠璃姫」
https://note.com/sz2020/n/n921a0b784b2f

■千葉県銚子市の伝承地

犬吠埼:源義経の愛犬が吠え続けた岬。
犬岩:源義経の愛犬が7日間吠え続け、8日目に岩になった。
千騎ヶ岩:源義経が1000騎と立て篭もった岩。
・宝満島(千葉県銚子市):「判官」の転訛。

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