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『義経記』に見る義経奥州逃避行路②

 牛若丸(遮那王)は、鞍馬寺で育てられたが、承安4年(1174年)、鞍馬寺を出奔し、奥州平泉へ落ち、奥州藤原氏に保護された。その途中、3月3日の桃の節句に、東山道・鏡宿(長者屋敷)、もしくは、東海道・宮宿(熱田神宮)で元服し、「源九郎義経」と名乗った。
 その後、源平合戦を経て、文治元年(1185年)、九州落ち(九州幕府の樹立?)を目論むが失敗し、吉野へ入る。その後、吉野を出て京都周辺に潜伏するが、文治元年11月3日、都を落ち、文治2年2月、奥州平泉で奥州藤原氏に保護された。

 源義経の奥州逃避行の経路は『義経記』に載っているが、『義経記』は史書ではなく、軍記物(小説)であるので、明らかな誤りもあれば、載っていない義経伝説の地もあるが、この記事では『義経記』に従い、文治元年(1185年)の奥州逃避行の経路を示す。

1.『義経記』

巻第一
義朝都落の事
常盤都落ちの事
牛若鞍馬入りの事
聖門の事
牛若貴船詣の事
吉次が奥州物語の事
遮那王殿鞍馬出の事

巻第二
鏡の宿吉次が宿に強盗の入る事
遮那王殿元服の事
阿野禅師に御対面の事
義経陵が館焼き給ふ事
伊勢三郎義経の臣下にはじめて成る事
義経秀衡にはじめて対面の事
義経鬼一法眼が所へ御出の事

巻第三
熊野の別当乱行の事
弁慶生まるる事
弁慶山門を出づる事
書写山炎上の事
弁慶洛中にて人の太刀を奪ひ取る事
弁慶義経に君臣の契約す事
頼朝謀反の事

巻第四
頼朝義経対面の事
義経平家の討手に上り給ふ事
腰越の申し状の事
土佐坊義経討手に上る事
義経都落の事
住吉大物二箇所合戦の事

巻第五
判官吉野山に入り給ふ事
静吉野山に棄てらるる事
義経吉野山を落ち給ふ事
忠信吉野に留まる事
忠信吉野山の合戦の事
吉野法師判官を追ひかけ奉る事

巻第六
忠信都へ忍び上る事
忠信最期の事
忠信が首鎌倉へ下る事
判官南都へ忍び御出ある事
関東より勧修坊を召さるる事
静鎌倉へ下る事
静若宮八幡宮へ参詣の事

巻第七
判官北国落の事
 文治2年(1186年)1月末、源義経は、六条堀川(堀川六条館)に潜んだり、嵯峨(京都市右京区)のほとりに潜んだりしたが、京都では源義経にゆかりがある人々の多くが誅殺されたので、源義経は「もう奥州に下るほかない」と、人を集めると、16人集まった。
 源義経が
「奥州へ下ろうと思うがどの道を通ればよいだろう」
と聞くと、各々が、
「東海道を通れば、きっと知られるところとなりましょう。東山道は、道が狭く、戦闘になれば、逃れられません。北陸道なら越前国敦賀津(福井県敦賀市)に下り、出羽国(山形&秋田県)へ向かう船に乗るのがいいでしょう」
と言うので、そうすることにし、
「ならば姿は何に変えて下ればよいものか」
と聞くと、増尾七郎が「出家すればいい」と提案したが、「南都の勧修坊(聖弘)に1000回も『出家せよ』と言われたのを、その都度、1000回断ったのに、今回、逃げるための手段として出家したと知られるのは恥かしい」と言うと、片岡常春が「では、山伏に化ければいい」と提案した。
 源義経は「山伏というのは、どうだろう? 都を出て北陸道を行けば、
・近江国:日吉山王(滋賀県大津市坂本にある日吉大社)
・越前国:気比の社(福井県敦賀市曙町にある氣比神宮)
・越前国:平泉寺(福井県勝山市平泉寺町平泉寺にある平泉寺白山神社)
・加賀国:下白山(石川県白山市にある白山比咩神社(山麓の本宮))
・越中国:蘆峅(富山県中新川郡立山町芦峅寺。「雄山神社 中宮祈願殿」)
・越中国:岩峅(富山県中新川郡立山町岩峅寺。「雄山 神社 前立社壇」)
・越後国:をき(新潟県上越市五智にある居多(こた)神社)
・越後国:国上(新潟県燕市国上にある国上寺)
・出羽国:羽黒山(山形県鶴岡市羽黒町手向羽黒山)
を通らねばならぬ。山伏と出会って質問されても答えられない」と言うと武蔵坊弁慶は、「君(源義経)は鞍馬寺におられたし、常陸坊海尊は園城寺にいたし、私は比叡山延暦寺西塔にいたから心配御無用」と言った。
 源義経が、武蔵坊弁慶に、
「『どこの山伏だ?』と聞かれたら、何と答えればよい」
と聞くと、武蔵坊弁慶は、
「越後国の(11世紀以降の中世国衙所在地である)直江津(新潟県上越市)は、北陸道の中間であり、直江津までは『羽黒山伏が熊野へ行くところ』、直江津の先は『熊野山伏が羽黒へ行くところ』と答えればいい」
と言うので、源義経が、武蔵坊弁慶に、
「羽黒山伏に化けるとして、『羽黒のどの坊の何と言う者だ?』と聞かれたらどうする?」
と尋ねると、
「私(武蔵坊弁慶)は、羽黒の大黒堂の別当の坊にいる荒讚岐にそっくりなので、荒讚岐と名乗りましょう。常陸坊海尊を小先達として筑前坊と呼びましょう」
と言った。源義経が、武蔵坊弁慶に、
「同行の片岡常春、伊勢義盛、増尾兼房はどうする?」
と聞いたので、武蔵坊弁慶は坊号を付けた。
(片岡常春には「京の君」、伊勢義盛には「宣旨の君」、熊井忠基には「治部の君」。源義経の名は「大和坊」とした。)
 総勢16名、稚児に化けた郷御前を加えて17名となったが、深夜に①今出川(京都府京都市上京区今出川町)を出たにもかかわらず、郷御前の足が遅く、夜明けにようやく②粟田口(京都市東山区粟田口)に着いた。粟田口を過ぎて、③松坂(京都府京都市山科区厨子奥花鳥町~日ノ岡夷谷町の松坂峠)近くになれば、雁が飛び始めた。④逢坂(滋賀県大津市大谷町の逢坂関)の蝉丸が住んだ藁屋は荒れていた。夕方になって宿所の⑤大津の浦(滋賀県大津市大津町)に着いた。
大津次郎の事
 源義経が山伏姿で都を出たことがばれた。大津の領主・山科左衛門は、園城寺(滋賀県大津市園城寺町)で待ち構えたが、源義経一行は「羽黒山伏だ」と言って大津の浦の商人・大津次郎の屋敷に泊まった。大津次郎は源義経一行だと察し、船で逃がそうとし、「船は海津浦に乗り捨てて、一刻も早く愛発(あらち)山(滋賀県高島市と福井県敦賀市の堺の山。愛発関)を越えて、越前国へ入られてください」といい、船上では「こちらは粟津大王(大津皇子の王子。阿育王の誤り)の石塔山(滋賀県東近江市石塔町の石塔寺)、ここに見えまするは唐崎の松(滋賀県大津市唐崎)、あれは此叡山(滋賀県大津市と京都府京都市左京区の堺の山)」と案内した。日吉大社(滋賀県大津市坂本)を遠望し、竹生島(滋賀県長浜市早崎町の都久夫須麻神社)を船上から拝んだ。船は⑥堅田浦(滋賀県大津市堅田町)、⑦今津浦(滋賀県高島市新旭町北畑)を漕ぎ過ぎて、⑧海津浦(滋賀県高島市マキノ町海津)に着いた。
愛発山の事
 源義経一行は、海津の浦を発って、近江国と越前国の境にある⑨愛発山(滋賀県高島市と福井県敦賀市の堺の山)に着いた。源義経は船酔いして歩くことができず、代わる代わる源義経を背負いながら進んだ。
 日が暮れてたので、愛発山(有乳山、荒血山、あらちやま)の山中での野宿となった。(東海道・伊勢国鈴鹿関と東山道・美濃国不破関と共に「古代三関(さんげん)」の1つであった北陸道・愛発関(あらちのせき)は平安時代に廃止された。)
郷御前「何と言う山ですか?」
源義経「昔は『あらしいの山』、今は『愛発(あらち)山』という」
郷御前「面白いですね。由来は?」
源義経「険しい岩山で、旅人は足裏から血を流したので『あら血の山』だ」
武蔵坊弁慶「知ったかぶりはダメ。それでは、全ての岩山が『あら血の山』になってしまいます。加賀国下白山(白山比咩神社)の菊理媛神が、日吉大社の摂社・唐崎神社(滋賀県大津市唐崎)の祭神に見初められ、妊娠した時、『生国(加賀国)で生みたい』と、加賀国に向かう途中、この山で、産気付き、御産の時、「新血(あらち)」が流れたので、『新血の山』と呼ばれ、『新しいの山』、『愛発(あらち)山』と変わったのです」
源義経「その話なら、私も知っていた(笑)」
※唐崎神社の祭神・女別当命(わけすきひめのみこと)は女神(「唐崎の松」を植えた宇志丸宿禰の妻)なので、子は生まれないはず。

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※上の地図の出典:門井直哉「近江・越前間の古代北陸道の変遷について」
三の口の関通り給ふ事
 夜が明けたので、源義経一行は、愛発山(福井県敦賀市南部の山)を越えて、越前国へ入った。
 愛発山の北麓では、
・今通ってきた近江国へ通じる道「荒道山道」
・若狭国へ通じる道「若狭街道」
・加賀国の能美山(栃ノ木峠。木ノ芽峠の誤り)へ通じる「北陸道」
の3本の道が交差していたので、⑩「三口」(みつくち。みちのくち(道ノ口)。福井県敦賀市道口)と呼ばれていた。
 越前国の住人・敦賀兵衛と、加賀国の住人・井上左衛門両人は、愛発山に関所を設けて、「肌の色が白く、出っ歯の(上の前歯が出ている)山伏が源義経」だとして、同じ容姿の者止めては詰問していた。通行人たちは、源義経一行を見て、「この山伏たちは足止めされて詰問されるだろう」と思いながらすれ違った。(源義経の容貌に関して、源義経の死後まもない時代に成立したとされる『平家物語』では、平氏の家人・越中次郎兵衛盛嗣が「九郎は色白うせいちいさきが、むかばのことにさしいでてしるかんなるぞ」(源義経は、色白で、背の低く、前歯がぐっと出ているから、本人だとすぐ分かると言うぞ)と言っている。「『平家物語』の著者は平家側の人間で、源氏を悪く言うのだろう」と言うことであるが、『義経記』でも、関守に「色も白く、向歯の反りたるなどした者」が源義経だから通すなと伝えられていたとある。)
 この時、「源平合戦で源義経を見たことがある」という越後国の住人・上田左衛門の身内と名乗る者が駆けつけ、「この先には関所があって危険である。引き返して、愛発山の峠から東に向かい、
・能美越(福井県南条郡南越前町今庄~滋賀県長浜市の県境の栃ノ木峠)
・燧ヶ城(福井県南条郡南越前町今庄)
・越前国の国府(福井県越前市府中)
・平泉寺(福井県勝山市平泉寺町平泉寺にある平泉寺白山神社)に参拝
・熊坂(福井県あわら市熊坂)
・菅生宮(石川県加賀市大聖寺敷地にある加賀国二宮・菅生石部神社)遠望
・金津の上野(福井県あわら市上野)
・篠原(石川県加賀市篠原町)
・安宅の渡り(石川県小松市安宅町)
・根上がり松(石川県能美市高坂町)
・白山の権現(石川県白山市と岐阜県大野郡白川村にまたがる白山)を遠望
・加賀国の宮腰(石川県金沢市金石)に出て、
・大野の渡り(石川県金沢市大野町)
・阿尾が崎(富山県氷見市阿尾)
・たけの(北国街道の石川県河北郡津幡町竹橋)
・倶利伽羅山(砺波山。石川県河北郡津幡町~富山県小矢部市)
・黒坂口(富山県小矢部市黒坂の倶利伽羅山東麓の登り口)
五位庄(富山県小矢部市一帯の「越中五位庄」)
・六動寺(富山県射水市庄西町の六渡寺地区)
・奈呉(富山県射水市八幡町の放生津八幡宮一帯)の林を眺め、
・岩瀬の渡り(富山県富山市の岩瀬地区)
・四十八箇瀬(黒部川の下流)
・宮崎郡(富山県下新川郡朝日町宮崎)
・市振(新潟県糸魚川市市振。市振の関)を越えて、
・寒原(新潟県糸魚川市の蒲原地区)
・なかいしか(新潟県糸魚川市の親不知)
・能の山(新潟県糸魚川市能生にある能生白山神社)を遠く伏して拝み、
・越後国の国府(新潟県上越市の直江津地区)
・直江津(新潟県上越市の直江津地区の湊)より船に乗り、
米山(新潟県柏崎市米山。「日本三大薬師」の1つ米山薬師)の冲を通り
・三十三里のかりや浜(刈羽浜? 新潟県柏崎市の海岸。33里=129.6km)
・かつき(勝見の誤り。新潟県三島郡出雲崎町勝見)
・白崎(新潟県東蒲原郡阿賀町白崎?)を漕ぎ過ぎて、
寺泊(新潟県長岡市の寺泊地区)に船を着け、
・国上(新潟県燕市国上の国上寺
・弥彦(新潟県の弥彦村と長岡市の境の越後一宮・彌彦神社)を拝み、
・九十九里浜(新潟県新潟市の五十嵐浜? 99里=388.8km)を通り、
乗足(新潟県新潟市。地名は、停足→乗足→敏太利→沼垂と変化)
・蒲原(新潟県新潟市中央区蒲原町)
・八十里浜(現在の鳥見浜(新潟市北区島見町)。80里=314.2km)
・瀬波(新潟県村上市瀬波)
荒川(新潟県村上市の荒川地区)
・岩船(新潟県村上市岩船)に船を着け、
・須戸道(新潟県村上市鵜渡路)は雪解け水による増水で、通行不可。
・いはひが崎(新潟県村上市岩ヶ崎)を通り、
おちむつや(不明。落六谷? 「落ち陸奥也」?)
・なかざか(新潟県村上市長坂)
・念珠関(山形県鶴岡市鼠ヶ関)
大泉庄大梵字(山形県鶴岡市大宝寺町)
羽黒権現(山形県鶴岡市にある「出羽三山」の羽黒山)を伏し拝み、
・清川(山形県東田川郡庄内町清川)に着き、
・「すぎのをか船に棹さして」(杉の岡? 杉の陸船?)
・合川津(山形県新庄市本合海)に着かれて、
道は2つございます。
・最上郡(山形県最上郡)を通り、
・伊那の関(有耶無耶の関。山形県と宮城県の境の関所)を越え、
・宮城野原(宮城県仙台市宮城野区)
・榴岡(宮城県仙台市宮城野区榴ケ岡)
・千賀の塩竃(千賀の浦の鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山))
・松島(宮城県宮城郡松島町)
等の名所を見ながら通れば、3日の寄り道でございます。
・それよりのちさうたう/かなよりの地蔵堂(?)
・亀割山(山形県新庄市と最上町との境界)を越えれば、
・小野小町が住んでいた玉造の室の里(宮城県大崎市古川新田熊野堂前)
・姉歯(小野小町の姉)の松(宮城県栗原市金成梨崎南沢)
を見て、松山(宮城県大崎市松山千石松山)を越えれば、すぐ近くでございます。ここは私の申す通りの道をお進みなさいませ」
とアドバイスすると、源義経は
「八幡大菩薩のお導きか? 愛発山へ戻ろう」
と言うと、武蔵坊弁慶が、
「罠だ。騙されるな」
と言うので、武蔵坊弁慶に任せると、武蔵坊弁慶は上田左衛門の身内を締め上げて本当のことを言わせた。すると、
「以前は上田左衛門の身内で、今は、関守の井上左衛門の身内になった者でございます。主人に『源義経の顔を知るお前が道案内をして源義経を連れて来い』と命じられました」
と白状したので、殺して先へ進んだ。
 関所の約10町(約1km)前で、2手に分けた。
・先発:源義経、武蔵坊弁慶、片岡常春、伊勢義盛、常陸坊海尊等7人。
・後発:郷御前、十郎権頭兼房、根尾十郎、熊井忠基、亀井重清、駿河次郎、喜三太(架空人物?)等10人
 先発が木戸口に着くと、すぐに源義経が見つかった。
源義経「羽黒山伏を見て何を騒いでいるのか?」
関守「羽黒山伏? 源義経でしょ?」
源義経「この関所の責任者は誰だ?」
関守「越前国の住人・敦賀兵衛と、加賀国の住人・井上左衛門で、今、敦賀兵衛は鎌倉、井上左衛門は金津(福井県あわら市)にいます」
源義経「責任者が居ない時に問題を起こすのか?」
武蔵坊弁慶「私は、羽黒山の讚岐坊と申す山伏である。源義経については、美濃国だか尾張国で生け捕られて、都へ連行されるとか。いずれにせよ羽黒山伏であって、無関係である」
関守たちの相談「もし、源義経でなければ、無罪の山伏を殺すことになる。ここは1つ試してみよう。『関手(関所を通る通行税)を払え』と言ってみよう。羽黒山伏が関手を払ったことはない。本物なら断り、偽者なら払うはず」
関守「関手を払って通れ。鎌倉殿(源頼朝)の御教書(命令書)にも書かれている」
武蔵坊弁慶「そんな命令は聞いたことがない。断る」
関守たちの相談「本物の羽黒山伏? 源義経は智恵者というから、讚岐坊(武蔵坊弁慶)にそう言わせているのかも?」
関守「判断できないので、関東に人を参らせて、どうすべきか尋ねるので、返事が来るまでここに留め置く」
武蔵坊弁慶「ラッキー! 関所の兵糧米で腹を満たせるぞ! 腹ペコなので、ここに数日間いられることを嬉しく思います」
皆、関所に荷物を置き、草鞋を脱ぎ、足を洗い、くつろいでいたので、関守たちは、「これは源義経一行ではないな。さっさと通してしまおう」と、関戸を開いた。
武蔵坊弁慶「関手もいらぬ、源義経でもないと申されますか。嬉しいことですが、腹ペコなので、祈祷をするので、関所の兵糧米を分けて下され」
武蔵坊弁慶は白米を受け取り、「願わくは、源義経がこの道を通り、愛発の関守の手によって捕らえ、名を後代に上げて、勲功を多く賜るべく、羽黒山の讚岐坊の験徳のほどを顕し給え」と祈ったが、心の中では「我々を奥州まで無事届けて下さい」と祈っていた。
 こうして愛発の関(三口の関)を通り過ぎた。その日は⑪敦賀津(福井県敦賀市)に下り、⑫せいたい菩薩(福井県敦賀市にある越前国一宮・氣比神宮(福井県敦賀市曙町)の境内菩薩。気比大菩薩=本地は大日如来)の仏堂に篭って祈願し、出羽国へ向かう船を探したが、まだ2月の初めであったので、風が強く、出羽国へ向かう船がなかったので、⑬きのら/きのめと言う山(福井県の嶺北(越前地方)と嶺南(若狭地方)を隔てる福井県南条郡南越前町板取の木ノ芽峠)を越え、⑭越前国の国府(福井県越前市府中)に着くと、そこに3日間逗留した。
平泉寺御見物の事
 源義経は、「回り道になるが、なんとしても平泉寺(福井県勝山市平泉寺町平泉寺にある平泉寺白山神社)へ行きたい」と言った。従者たちは納得できなかったが、「主人の命ならば仕方ない」と、平泉寺を参拝した。僧たちは、山伏を見て源義経だと思ったが、武蔵坊弁慶の機転で回避した。
 ⑯菅生の宮(石川県加賀市大聖寺敷地にある加賀国二宮・菅生石部神社)に参拝し、逆戻りして(?)⑰金津の上野(福井県あわら市上野)へ着いた。すると、向こうから愛発関(三口関)の井上左衛門がやってきたので、源義経は、「仕方ない」と、刀の柄に手を掛け、郷御前の後ろに隠れ、笠で顔を隠して擦れ違おうとしたが、突風が吹いて笠が持ち上げられ、井上左衛門に顔を見られてしまった。井上左衛門は馬から下り、挨拶をすると、源義経を見送り、源義経の背中が見えなくなってから、馬に乗って愛発関へ向かった。
 その日、細呂木(福井県あわら市細呂木)に着いた井上左衛門は、家臣たちを呼び、
「さっきの山伏を誰と思う? あれこそ鎌倉殿(源頼朝)の弟・判官殿(源義経)ぞ。山伏に姿を変えておられるとは不憫でならない。もしあそこで討っていたならば、我が一門は千年万年安泰であったろうか? あまりにお痛わしく思って何事もなく通したのだ」
と言うと、家臣たちは、「主人は情けも慈悲も深い人だ」と頼もしく思ったそうである。
 一方、源義経は、その日、⑱篠原(石川県加賀市篠原町)に泊った。まりました。夜が明けると、寿永2年(1183年)6月1日の「篠原の戦い」で斉藤実盛が手塚光盛に討たれた⑲あいの池(「あい」ではなく「あらい」。石川県加賀市柴山町の首洗池)を見て、⑳安宅の渡り(石川県小松市安宅町)を越え、㉑根上がり松(石川県能美市高坂町)に着いた。白山権現(白山比咩神社)の遥拝所だという。「さて、白山比咩神社に参拝しよう」と、㉒岩本十一面観音(石川県能美市岩本町にある「白山七社」岩本神社)で終夜祈願し、夜が明けると、㉓「加賀国一宮」白山比咩神社(白山御前峰山頂にある奥宮に対し、山麓の 石川県白山市三宮町にある本宮(下白山))を参拝した。その日は㉔剣権現(石川県白山市鶴来日詰町にある「下白山七社」金剱宮)を参拝し、夜通し神楽を行った。
 夜が明けと、石川県白山市知気寺町の㉕林光明館の背戸(屋敷裏)を通って進むと、源義経を待ち構えている富樫泰家(『義経記』の「富樫介」、能『安宅』の「富樫の何某(なにがし)」、歌舞伎『勧進帳』の「富樫左衛門」)が住む加賀国㉖富樫(石川県金沢市富樫)が近くなる。
武蔵坊弁慶「君(源義経)は㉗宮腰(石川県金沢市金石町)へお行きなさい。私は㉘富樫館(石川県野々市市住吉町)の様子を見てきます」
源義経「せっかく知られずに来ているのに、こちらから出向くとはどういうことか?」
武蔵坊弁慶「ここまではなんとか無事に通ることができましたが、山伏が大勢で通っていることはすでに知られているはずです。大勢に追い掛けられてはどうしようもありません、ですからわたし弁慶だけで向かいます」
 武蔵坊弁慶が㉙富樫城(石川県金沢市高尾町の高尾城)に来てみると、3月3日であったので、酒宴の最中でした。中へ入ろうとすると止められたが、「何の騒ぎだ?」と富樫泰家が出てきて、「どこの山伏だ?」と聞いたので、武蔵坊弁慶は「焼失した東大寺再建の勧進(寄付募集)の山伏でございます」と言うと、富樫介は、「よくぞ参られた」と言って勧進すると、武蔵坊弁慶を馬に乗せ、源義経が待つ宮腰まで見送った。ところが源義経はおらず、㉚大野湊(石川県金沢市寺中町にある「導きの神(猿田彦大神)」大野湊神社)に参拝すると出会えた。その日は北国街道の㉛竹橋(石川県河北郡津幡町竹橋)に泊まり、夜明けを待って㉜倶利伽羅山(砺波山。石川県河北郡津幡町~富山県小矢部市)を越えて、㉝馳籠(はせこみ)が谷(石川県河北郡津幡町倶利伽羅の「倶利伽羅が谷」「地獄谷」)では、「ここは平家の武者が(木曽義仲の火牛の計で)多く死んだ所だから」と、各自『阿弥陀経』を読み、念仏を唱えて過ぎた。そうこうするうちに、夕暮れ時になったので、㉞松永の八幡(富山県小矢部市埴生の埴生護国八幡宮)で夜を明かした。

■『源平盛衰記』
 抑倶利伽羅が谷と云は、黒坂山の峠、猿の馬場の東にあり。其谷の中心に十余丈の岩滝あり、千歳が滝と云。彼滝の左右の岸より、杼の木多く生たり。谷深して梢高し。其木半過る程こそ、馳埋たれ。澗河血を流し死骸岡をなせり。無慚と云も愚也。
 されば彼谷の辺には、矢尻、古刀、甲の鉢鎧の実、岸の傍木の本に残、枯骨谷に充満て今の世までも有と聞。さてこそ異名には地獄谷共名け、又馳籠の谷共申なれ。三十人計の白装束と見えけるは、埴生新八幡の御計にやと、後にぞ思ひ合せける。

如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る事
 夜が明けて、㉟如意城(富山県高岡市伏木古国府にあった古国府城)を出て船に乗り、㊱如意の渡し(富山県高岡市伏木)を渡ろうとすると、渡し守・平権守(へいごんのかみ)が怪しみ「近くに越中国の守護所(富山県高岡市伏木古国府)があり、守護(比企朝宗?)がいるので、知らせる」という。武蔵坊弁慶が、「どの山伏が源義経だと思うのだ?」と言うと、源義経を指差したので、武蔵坊弁慶は、「お前のせいで渡れぬ」と源義経を扇子で叩いたので、平権守はこれを見て、「羽黒山伏ほどに情けのない者はいない。あの者も源義経ではない」と言い、渡らせてもらえた。その後、武蔵坊弁慶は泣きながら源義経にわびた。
 ㊲六動寺(富山県射水市庄西町の六渡寺地区)を越えて、㊳奈呉(富山県射水市八幡町の放生津八幡宮一帯)の林を眺め、㊴岩瀬の森(富山県富山市岩瀬白山町にある岩瀬諏訪神社の森)に着き、その日はそこに泊った。

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 夜が明けたので出発し、㊵黒部の宿(富山県黒部市)で少し休んで㊶黒部四十八箇瀬(黒部川の下流)の渡り(岩瀬の渡り)を越え、㊺市振(新潟県糸魚川市市振。市振の関)、㊻浄土(新潟県糸魚川市)、㊼歌の脇(歌外波(うたとなみ)村。新潟県糸魚川市歌)、㊽寒原(新潟県糸魚川市の蒲原地区)、㊾なかはし(長浜?)を通って、㊿岩戸の崎(新潟県上越市五智。岩戸山に越後国一宮・居多神社がある)に着いて、海人(あま)の苫屋を宿として、夜が明けると岩戸崎を出て、(51)越後の国府(新潟県上越市の直江津地区)、(52)直江津(新潟県上越市の直江津地区)花園の観音堂(高田城の築城の時、新潟県上越市寺町に移転した華園(けおん)寺)に着いた。この寺で、源義経は夜通し祈念した。

まづ下道の難所を語らば、聞き召されよ。
黒部四十八か瀬。親知らず子知らず。市振。浄土。歌の脇。二、三の迫。最上川。
猶も越後の国に入りぬれば、今ぞ浮世の糸魚川。市振。浄土。歌の脇。比丘尼転びと聞くからに、心細さは限り無し。下の浜を眺むれば、親知らず、子知らずとや。

直江の津にて笈探されし事
 越後国の守護は鎌倉に上っていて不在であったので、「山伏が着いた」と聞いた代官が人を集め、源義経一行が居る直江津花園の観音堂を200人余りで取り囲んだ。従者は托鉢に出ており、源義経がただ1人だけが残っていたので、騒ぎを聞きつけて、武蔵坊弁慶が戻ってきた。
 代官は、「この山伏が源義経かどうか確かめたいので、笈(荷物入れて背負う竹製の箱)の中身を確かめたい」というので、武蔵坊弁慶は、手に取った笈を投げ出した。それは、たまたま源義経の笈で、中からは日用品が出てきた。次に投げ出したのは、片岡常春の笈であった。中には武具が入っていたが、暗い上に、きつく縛ってあったので、代官が解けずにいると、武蔵坊弁慶は、「その笈には権現が入っておられるぞ。罰が当たるぞ」と脅して開けさせなかった。
 夜更けに片岡常春が戻ってきて「直江湊に佐渡から来た手ごろな渡し船があった」というので、これを奪って、明朝、出航することにした。
 妙高山より吹き下ろす強風を帆で受け、(53)米山(新潟県柏崎市米山)を過ぎ、(54)角田山(新潟県新潟市西蒲区)を遠望し、(55)青島(新潟県魚沼市青島の青島上之山神社)の北を見ると風雲が見えた。北風が吹いて来たので、船を佐渡島へ急ぎ着けようと、帆を下ろし、漕いで加茂潟(新潟県佐渡市の加茂湖)へ船を寄せようとしたが、波が高く、(56)松景(まつかげ)ヶ浦(新潟県佐渡市松ヶ崎)へ流されたが、そこも(57)白山嶽(新潟県佐渡市の東境山?)から吹き下ろす風が激しくて、佐渡島を離れて、能登国の珠州(すず)岬(「日本三大聖域」「日本三大パワースポット」の1つ。長手崎などの岬の総称で、金剛崎は「聖域の岬」と呼ばれている。石川県珠洲市)へ船を向けた。日が暮れかかるが風は止まず、心細くなったが、能登国の(58)石動岳(石川県鹿島郡中能登町、七尾市、富山県氷見市に跨る標高564mの石動山)から順風が吹き、越後国の(59)寺泊(新潟県長岡市の寺泊地区)に漂着した。上陸して、その夜の内に(60)国上(新潟県燕市国上の国上寺)に登り、(61)さくら町(旧・桜井郷。現・新潟県西蒲原郡弥彦村)に泊まり、夜が明けると、(62)弥彦大明神(新潟県の弥彦村と長岡市の境の越後一宮・彌彦神社)を拝み、(63)九十九里浜(新潟県新潟市の五十嵐浜? 99里=388.8km)を進み、(64)蒲原(新潟県新潟市中央区蒲原町)の館を越えて、(65)八十八里浜(蒲原の八箇浜。現在の鳥見浜(新潟市北区島見町)。80里=314.2km)を行き過ぎ、(66)荒川(新潟県村上市の荒川地区)の松原、(67)岩船(新潟県村上市岩船)を通り、(68)瀬波(新潟県村上市瀬波)という所では、左胡籙(ひだりやなくひ)、右靭(みぎうつぼ)にして渡る桟(かけはし)を渡った。(右腰の胡籙を左に付け直し、背の靭を右手で抱えないと渡れない危険な細い幅の吊り橋を渡った。塩原温泉郷(栃木県那須塩原市塩原)の「左靱の桟橋」が有名。)
 (69)念珠(山形県鶴岡市鼠ヶ関の念珠関)の関守が厳しく、通ることができないように思えたので、武蔵坊弁慶が策を講じ、源義経を下種山伏に見たて笈を背負わせ、武蔵坊弁慶は、「歩めや法師」と叱り付け、強く鞭打ちながら進んだので、関守たちはこれを見て、止めることなく木戸を開けて通した。念珠ヶ関跡に「勧進帳乃本家」の標柱、鼠ヶ関マリーナの道路向かいに『源義経』の著者である直木賞作家・村上元三の「源義経上陸の地」碑、弁天島に「義経ゆかりの浜」碑が立っている。
 程無くして出羽国へ入った。その日は(70)「はらかい」(山形県鶴岡市鼠ヶ関原海。読み方は「はらかい」ではなく「はらみ」)に泊まり、夜が明けると出発し、(71)笠取山(笠取峠。山形県鶴岡市小波渡~三瀬)を越え、(72)出羽国田川郡三瀬(山形県鶴岡市三瀬)の薬師堂(山形県鶴岡市三瀬宮ノ前にある三瀬気比神社)に着いた。雨が降り、三瀬川が増水したので、薬師堂2、3日逗留することになった。田川郡の領主・田川実房は、息子たちが次々と死に、残された13歳の嫡男も瘧病(マラリア?)を患っており、羽黒山伏に祈祷を依頼したが治らなかったので、薬師堂に使者・大内三郎を遣り、「熊野山伏」と名乗る源義経一行に祈祷を頼んだ。源義経らは(73)田川実房の館(山形県鶴岡市田川)へ行き、祈祷をすると、完治した。田川実房は喜び、一行を薬師堂まで見送った。
 こうして田川を発って、(74)大泉庄大梵字(山形県鶴岡市大宝寺町)を通り、(75)羽黒山(山形県鶴岡市にある「出羽三山」の羽黒山)を遥拝した。(源義経は参拝したかったが、郷御前のお産の月に当たっていたので、羽黒山を出産の新血で穢すことを恐れ、武蔵坊弁慶に代参させた。武蔵坊弁慶以外は(76)「につけのたかうら/かたとう」(所在地不明。『出羽風土略記』では山形県東田川郡立川町狩川小野里、『筆濃余理』では山形県鶴岡市羽黒町黒瀬川付近に比定)へ向かい、(77)清川(山形県東田川郡庄内町清川)に着いた。武蔵坊弁慶は、羽黒山から「あげなみ山」(羽黒山と清川の間の山。詳細不明)に向かい、「よかわ」(清川の誤り。羽黒権現の御手洗。清川は月山の山頂を水源地とする川で、羽黒権現に参拝する前に水垢離を行う。熊野の岩田川に相当する祓川)に参拝した。
 武蔵坊弁慶と源義経一行は清川で合流し、船で(78)最上川を遡り、(79)「日本の滝百選」の1つ「白糸の滝」(山形県最上郡戸沢村。「最上峡」には「最上四十八滝」と呼ばれる滝群があり、西端の「白糸の滝」はその中で最大の滝(落差120mで全国6位)である)を見て、(80)「鎧の明神」「冑の明神」(山形県最上郡戸沢村。日本武尊が身に着けていた鎧や冑を脱ぎ捨てたとも、源義経が鎧、兜を奉納したとも。兜の明神、鎧の明神(廃絶)、竜明神(所在不明)、仙人堂、矢向明神で「最上川五明神」という)を伏して拝み、(81)「たかやりの瀬」(山形県最上郡戸沢村古口高屋)という難所を通った時に船酔いし、(82)「みるたから」(真室川(みむろがわ)。山形県最上郡真室川町大沢小国で民家に宿泊し、お礼に大日如来の掛け軸を与えた)、(83)「丈比べの杉」(「幻想の森」(山形県最上郡戸沢村山ノ内)の杉。山之内杉、神代杉、仙人杉等、樹齢1000年以上の老杉が生え、多幹型(タコ足状に幹が分かれた形状)の杉は、各幹が背比べをしているように見える)などを見て、(84)矢向大明神(山形県新庄市本合海にある矢向神社)を伏して拝み、(85)会津の津(山形県新庄市本合海)に着いた。
 源義経が「寄り道に2日かかったが、やっと湊に着いた。宮城野原(宮城県仙台市宮城野区)、榴岡(宮城県仙台市宮城野区榴ケ岡)、千賀の塩亀(千賀の浦の鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山))などを回れば、さらに3日かかるであろう。亀割山(山形県新庄市と最上町との境界)を越えて、「へむらの里」(宮城県大崎市古川新田熊野堂前。「室(むろ)の里」)、姉歯の松(宮城県栗原市金成梨崎南沢)へ出れば、平泉(岩手県西磐井郡平泉町平泉)はすぐだ。どれを見ながら進もうか」と言ったので、(武蔵坊弁慶は?)「名所を見たいが、一日も早く平泉に着きたいので、亀割山を越えて行きましょう」と答えて、(86)亀割山(山形県新庄市と最上町との境の山)へと進んだ。
亀割山にて御産の事
 郷御前は、亀割山で子を産んだ。亀割山だけに「亀は万年、鶴は千年」と、「亀鶴御前」(通説では「亀若丸」)と名付けた。(それから3日で(89)平泉(岩手県西磐井郡平泉町平泉)に着いたが、一度も泣くことがなかったという。「泣かぬ蝉」の「蝉」に「瀬見」と当てて地名にしたとする説がある。)
 (87)「せひ」(山形県最上町瀬見温泉の瀬見温泉郷)の内で、1、2日休養し、夜が明けると馬を探し求めて郷御前を乗せ、(88)栗原(りつげん)寺(宮城県栗原市栗駒栗原西沢)に着くと、亀井重清と伊勢義盛を使者として、平泉へ遣わした。
判官平泉へ御着きの事
 藤原秀衡は、源義経を月見殿に入れてもてなし、後に藤原秀衡の屋敷の西の衣川を挟んで、御所「衣川館(衣河館)」を建てて源義経の館とした。

巻第八
継信兄弟御弔の事
秀衡死去の事
秀衡が子供判官殿に謀反の事
鈴木の三郎重家高館へ参る事
衣河合戦の事
判官御自害の事
兼房が最期の事
秀衡が子供御追討の事

2.『義経記』登場地名


今出川(京都府京都市上京区今出川町)
②粟田口(京都市東山区粟田口)
③松坂(京都府京都市山科区厨子奥花鳥町~日ノ岡夷谷町の松坂峠)
④逢坂(滋賀県大津市大谷町の逢坂関)
⑤大津浦(滋賀県大津市大津町)
⑥堅田浦(滋賀県大津市堅田町)
⑦今津浦(滋賀県高島市新旭町北畑)
⑧海津浦(滋賀県高島市マキノ町海津)
⑨愛発山(滋賀県高島市と福井県敦賀市の堺の山)
⑩「三口」(みつくち。みちのくち(道の口)。福井県敦賀市道口)
⑪敦賀津(福井県敦賀市)
⑫せいたい菩薩(越前国一宮・氣比神宮(福井県敦賀市曙町))
⑬木芽山(福井県南条郡南越前町板取の木ノ芽峠)
⑭越前国の国府(福井県越前市府中)
⑮平泉寺(福井県勝山市平泉寺町平泉寺にある平泉寺白山神社
⑯菅生の宮(石川県加賀市大聖寺敷地にある加賀国二宮・菅生石部神社
⑰金津の上野(福井県あわら市上野)
⑱篠原(石川県加賀市篠原町)
⑲あいの池(「あい」ではなく「あらい」。石川県加賀市柴山町の首洗池
⑳安宅の渡り(石川県小松市安宅町)
㉑根上がり松(石川県能美市高坂町)
㉒岩本十一面観音(石川県能美市岩本町にある「白山七社」岩本神社)
㉓「加賀国一宮」白山比咩神社(石川県白山市三宮町にある下白山)
㉔剣権現(石川県白山市鶴来日詰町にある「下白山七社」金剱宮)
㉕林光明館(石川県白山市知気寺町)
㉖富樫(石川県金沢市富樫)
㉗宮腰(石川県金沢市金石町)
㉘富樫介館(石川県野々市市住吉町)
㉙富樫城(石川県金沢市高尾町の高尾城)
㉚大野湊(石川県金沢市寺中町にある大野湊神社
㉛竹橋(石川県河北郡津幡町竹橋)
㉜倶利伽羅山(砺波山。石川県河北郡津幡町~富山県小矢部市)
馳籠が谷(石川県河北郡津幡町倶利伽羅の「倶利伽羅が谷」「地獄谷」)
㉞松永の八幡(富山県小矢部市埴生の埴生護国八幡宮
㉟如意城(富山県高岡市伏木古国府にあった古国府城)
如意の渡し(富山県高岡市伏木)
㊲六動寺(富山県射水市庄西町の六渡寺地区)
㊳奈呉(富山県射水市八幡町の放生津八幡宮一帯)
㊴岩瀬の森(富山県富山市岩瀬白山町にある岩瀬諏訪神社の杜)
㊵黒部の宿(富山県黒部市)
㊶黒部四十八箇瀬(黒部川の下流)の渡り(岩瀬の渡り)
㊺市振(新潟県糸魚川市市振。市振の関。難所)
㊻浄土(新潟県糸魚川市。難所)
㊼歌の脇(歌外波(うたとなみ)村。新潟県糸魚川市歌)
㊽寒原(新潟県糸魚川市の蒲原地区)
㊾なかはし(長浜?)
㊿岩戸崎(新潟県上越市五智)
(51)越後国の国府(新潟県上越市の直江津地区)
(52)直江津花園の観音堂(新潟県上越市寺町に移転した華園寺)
(53)米山(新潟県柏崎市米山)
(54)角田山(新潟県新潟市西蒲区)
(55)青島(新潟県魚沼市青島の青島上之山神社)
(56)松景(まつかげ)ヶ浦(新潟県佐渡市松ヶ崎)
(57)白山嶽(新潟県佐渡市の東境山?)
(58)石動岳(石川県鹿島郡中能登町、七尾市、富山県氷見市に跨る石動山)
(59)寺泊(新潟県長岡市の寺泊地区)
(60)国上(新潟県燕市国上の国上寺)
(61)さくら町(旧・桜井郷。現・新潟県西蒲原郡弥彦村
(62)弥彦大明神(新潟県の弥彦村と長岡市の境の越後一宮・彌彦神社)
(63)九十九里浜(新潟県新潟市の五十嵐浜?)
(64)蒲原(新潟県新潟市中央区蒲原町)
(65)八十八里浜(蒲原の八箇浜。現在の鳥見浜(新潟市北区島見町))
(66)荒川(新潟県村上市の荒川地区)の松原
(67)岩船(新潟県村上市岩船)
(68)瀬波(新潟県村上市瀬波)の桟橋
(69)念珠(山形県鶴岡市鼠ヶ関の念珠関)
(70)「はらかい」(山形県鶴岡市鼠ヶ関原海)
(71)笠取山(山形県鶴岡市小波渡~三瀬の笠取峠)
(72)三瀬の薬師堂(山形県鶴岡市三瀬宮ノ前にある三瀬気比神社
(73)田川実房の館(山形県鶴岡市田川)
(74)大泉庄大梵字(山形県鶴岡市大宝寺町)
(75)羽黒山(山形県鶴岡市にある「出羽三山」の羽黒山)
(76)「につけのたかうら」(山形県東田川郡立川町狩川小野里)
(77)清川(山形県東田川郡庄内町清川)
(78)最上川
(79)「白糸の滝」(山形県最上郡戸沢村)
(80)「鎧の明神」「冑の明神」(山形県最上郡戸沢村)
(81)「たかやりの瀬」(山形県最上郡戸沢村古口高屋)
(82)「みるたから」(山形県最上郡真室川(みむろがわ)町)
(83)「丈比べの杉」(山形県最上郡戸沢村山ノ内)
(84)矢向大明神(山形県新庄市本合海にある矢向神社)
(85)会津の津(山形県新庄市本合海)
(86)亀割山(山形県新庄市と最上町との境界)
(87)「せひ」(山形県最上町瀬見温泉の瀬見温泉
(88)栗原(りつげん)寺(宮城県栗原市栗駒栗原西沢)
(89)平泉(岩手県西磐井郡平泉町平泉)

■参考

【参考文献】
・『京から奥州へ 義経伝説をゆく』2004

【 『義経記』原文】
・Wikisource『義経記』
https://ja.wikisource.org/wiki/%E7%BE%A9%E7%B5%8C%E8%A8%98
義経デジタル文庫『義経記』
http://www.st.rim.or.jp/~success/gikeiki_00.html
Santa Lab's Blog『義経記』
https://santalab.exblog.jp/19256929/

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