見出し画像

源義経と浄瑠璃姫

 ──浄瑠璃姫伝承は、「伝説」なのか、「史実」なのか?

■『宗長手記』大永7年(1527年)4月の条
「それより矢矧の渡りして妙大寺、むかしの浄瑠璃御前跡、松のみ残て東海道の名残、命こそながめ待つれ、いまは岡崎といふ松平次郎三郎の家城なり」(『続群書類従』(18巻)所収)
【大意】源義経が建てたという浄瑠璃姫の菩提寺・妙大寺は、現在は「岡崎城」という松平次郎三郎(徳川家康の祖父・松平清康)の居城となっており、松の木と、「浄瑠璃曲輪」として名が残るだけである。

「浄瑠璃姫伝承」にはバリエーションが多い。
最も広く知られているのは次のパターンである。

①矢作(矢矧)宿の長者には子が無かった。
②鳳来寺で夫婦で祈願すると子が生まれ、浄瑠璃姫と命名した。
③源義経は、奥州下り(1174年)の途中、矢作の長者の家に泊まった。
④源義経と浄瑠璃姫は、相思相愛の仲になった。
⑤源義経は、浄瑠璃姫に「青葉の笛」を託し、奥州に旅立った。
⑥浄瑠璃姫は宮路山まで追っていったが、矢作に引き返した。
⑦源義経が約束通りに帰ってこないので、3年後、浄瑠璃姫は自殺した。
⑧浄瑠璃姫の墓は岡崎城(愛知県岡崎市康生町)内にある。

1.浄瑠璃姫伝承 諸説まとめ


①矢作宿の長者の名
 ・矢作長者
 ・兼高長者(三河国の国司・源中納言兼高)
②鳳来寺(峯の薬師)に祈願して生まれた子。
 ・浄瑠璃姫は、仏教の浄瑠璃世界を統率する薬師瑠璃光如来の申し子
  ・鳳来寺「峯に薬師」の本尊は薬師如来
 ・御伽草子(十二段草子)「浄瑠璃御前物語」の主人公
 ・語り物「浄瑠璃」の語源
 ・別名:浄瑠璃御前
③源義経は、奥州下りの途中、矢作の長者の家に泊まった。
 ・合流予定の挙母の鈴木氏の病気が治るまで滞在
 ・浄瑠璃姫は長者の子にして白拍子
④源義経と浄瑠璃姫は相思相愛
 ・浄瑠璃姫は琴、源義経は「青葉の笛」で「想夫恋」を演奏
⑤「青葉の笛」の行方
 ・源義朝→常磐御前→源義経→浄瑠璃姫→誓願寺
 ・源義朝→常磐御前→源義経→浄瑠璃姫→鳳来寺→久能寺(鉄舟寺)
 ・2005年NHK大河ドラマ『義経』では、京の五条大橋で川に落とした。
⑥浄瑠璃姫は宮路山で引き返さなかった。
 ・蒲原(吹上)まで追っていったが連れ戻され、笹谷に幽閉された。
 ・奥州へ行く途中の蒲原(吹上)で、出産した。
 ・奥州へ行く途中の蒲原(吹上)で、過労死した。
 ・奥州へ行く途中の蒲原(吹上)で死んだ源義経を蘇生させた。
  ・鞍馬山の天狗が来て危篤を報告→天狗の背に乗り蒲原へ
  ・八幡神の眷属・白鳩の報告と案内→涙(薬師如来の利生)で蘇生
   →鞍馬山の天狗の背に乗り矢作に戻る。
 ・奥州から北海道へ逃げる途中の青森県で病死(源義経生存説)
⑦浄瑠璃姫が自殺した場所
 ・菅生川(乙川)で入水自殺(岡崎市の伝承) 
  ・命日:寿永2年(1183年)3月12日
 ・寒狭川で入水自殺(鳳来寺の伝承)

画像1

⑧浄瑠璃姫の墓
 ・竜頭山の浄瑠璃姫が幽閉された庵「笹谷別邸」(岡崎市康生町)
  →源義経が訪れ、回向すると、墓は3度揺れて3つに砕けた。
  (1つは源義経の右の袂、1つは虚空へ、1つは墓の印に=成仏)
 ・浄瑠璃姫の菩提寺・妙大寺(愛知県岡崎市明大寺)→廃寺
 ・麝香塚(源義経が浄瑠璃姫の形見の麝香を埋めた塚)→石のみ現存
 ・妙大寺塔頭・成就院(愛知県岡崎市吹矢町)に供養塔
 ・矢作長者の菩提寺・慶念山誓願寺(愛知県岡崎市矢作町馬場)
 ・浄瑠璃姫が隠棲した千寿ヶ峯(笹谷)の庵跡の「浄瑠璃姫の祠」
 ・静岡県静岡市清水区蒲原(吹上)
 ・東京都八王子市別所の長池公園
 ・青森県青森市野内の貴船神社

画像3

■『東海道名所図会』「蒲原」
 「神原」とも書す。吉原まで二里三十町、富士川まで一里八町。この駅、東立場より少し北の方に、七なん坂というあり。こヽに清水あり。土人、源義経硯水という。また右の方に吹上の浜というあり。こヽに六本松とて、浄瑠璃姫の塚あり。里談にいわく、「むかし、この姫、矢矧の宿より、判官殿を恋い慕うて陸奥へ下るとき、こヽに至り疲れて死す。里人憐れみて葬り、塚の印に松を六本植え置きたり。天正の頃、小野於通といえる風流の妓女、浄瑠璃姫の生涯のことを書きつらね、十二段とし、薩摩といえる傀儡師に教えて、節をつけ語らせける。これ浄瑠璃の中祖なり。於通は真田氏にて、豊太閤の御前へも出でヽ舞い諷いし」となり。

・小野於通:『イシュタルの娘』の主人公の才女。
・薩摩:浄雲。江戸前期の浄瑠璃太夫。

※「浄瑠璃姫伝承」とは?
①岡崎市の伝承
②三河国の巫女たちが語った鳳来寺「峯の薬師」の霊験譚(『岡崎市史』)
③小野於通の創作(織田信長向けの寝物語(日本版『千夜一夜物語』))

■『岡崎市史』
 矢作の長者の娘浄瑠璃と源義経の悲恋物語として15世紀半ばに京都で成立したとみられる語り物「浄瑠璃御前物語」は、16世紀には全国に広まった。それは薬師如来の申し子浄瑠璃御前の恋の苦難と成仏を描く本地譚、薬師の霊験を高唱する利生譚が、義経と結合して判官物の一種となったもので、その下敷きには東海道筋に多く残る遊女と貴公子の悲恋物語があったとみられている。この語り物の盛行によって、悲恋物語を史実とみて多様な付加が行なわれ、その遺跡や遺物と称するものが多数出現した。寺院・仏像・絵画・工芸品・墓石・洞穴・岩石・樹木など多様であるが、その初見は『宗長手記』大永7年(1527)条にみえる明大寺の浄瑠璃御前の跡の松である。中世のものはこれだけであるが、17世紀になると今日伝えられる浄瑠璃淵、成就院、千本、十五夜、光明院(浄瑠璃寺)、浄瑠璃郭、冷泉塚、誓願寺(矢作)、安心院本尊、浄瑠璃塚、松葉橋、麝香塚などがほぼ出揃ってくる。墓というものも岡崎公園、成就院、矢作誓願寺の3か所がある。これらは寺院の縁起と結合し、その真実性を保証する役割を負わされた。たとえば成就院の場合、浄瑠璃姫は寿永2年(1183)3月12日に乙川に入水自殺したという近世に地元で成立した話をふまえて、その600回忌にあたる安永10年(1781)3月の追善供養の引札を白井秀超(菅江真澄)に執筆させ、同じ頃に姫にちなんだ穴観音なるものを盛んに宣伝している。かくて近代の著作物にいたるまで浄瑠璃実在説が語られることとなった。

ここから先は

280字 / 7画像

¥ 100

記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。