第10回の再放送を観た。
2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、北条時政が、3人目の妻・牧の方と結婚することから始まった。このため、死別した1番目の妻や2番目の妻は登場しない。そればかりか、『鎌倉殿の13人』では、北条時子や、2番目の妻が生んだ子たちが登場しない。
★『鎌倉殿の13人』の北条ファミリー
北条時政┬宗時(?-1180) 【現時点(1180年)死亡】
├政子(1157-1225) 【現時点(1180年)24歳】
├義時(1163-1224) 【現時点(1180年)18歳】
└実衣(?-1227) 【仮名。『ムーミン』シリーズのミイ】
※治承4年(1180年)11月19日、阿野全成に武蔵国長尾寺(神奈川県川崎市多摩区長尾の妙楽寺)を与えられ、阿波局(『鎌倉殿の13人』の実衣)と結婚しているが、『鎌倉殿の13人』の実衣はまだ未婚である。
──実際の北条ファミリーはどういうメンバーだったのであろか。
『家譜』や『家系図』は子孫が作成して保管するものである。現存する『家譜』や『家系図』の多くは、江戸幕府から提出を要請されて作成されたものである。北条氏は、「逃げ上手の若君」(『週刊少年ジャンプ』で連載中。4月4日に第5巻発売予定)こと北条時行(1325-1353)の死で江戸時代前に絶えた(横井氏が北条氏の後裔という)ので、「北条氏系図」の多くは「平氏系図」の北条家の部分を切り取ったものになっている。「北条ファミリー系図」を作ると、次のようになるだろうか。
★北条ファミリー(Reco説)
北条時政┬宗時(?-1180) :母・伊東入道の娘
├政子(1157-1225) :母・伊東入道の娘
├時子(1160?-1196) :母・伊東入道の娘
├義時(1163-1224) :母・伊東入道の娘
├阿波局(?-1227) :母・伊東入道の娘
├稲毛重成室(?-?) :母・足立遠元の娘
├畠山重忠室(?-?) :母・足立遠元の娘
├時房(1175-1240) :母・足立遠元の娘
├平賀朝雅室(?-?) :母・牧宗親の娘(牧の方)
├滋野井実宣妻(?-1216):母・牧宗親の娘(牧の方)
├宇都宮頼綱室(?-?) :母・牧宗親の娘(牧の方)
├政範(1189-1204) :母・牧宗親の娘(牧の方)
├坊門忠清室(?-?) :母・不明(養女)
├河野通信室(?-?) :母・不明(養女)
└大岡時親室(?-?) :母・不明(養女)
娘が多い・・・息子は4人だけ。
1番目の妻は、「平氏系図」(前田家本)に「伊東入道の女」とある。この「伊東入道」については、伊東祐親説と、伊東祐親の父・伊東祐家説があるが、伊東祐親説が有力で、『鎌倉殿の13人』でも採用されている。
伊東祐親説(伊東祐親の娘4人説)を採ると主人公・北条義時にとって伊東八重は叔母(母の妹)になり、呼称は「叔母上」になる。伊東入道=伊東祐家説(伊東祐親の娘3人説。『曾我物語』では、伊東祐親の娘は3人とし、北条時政の妻が含まれていない。学者は、この3人を後室の子とし、北条時政の妻は前室の子とする)を採ると、主人公・北条義時の母「伊東入道の女」は伊東祐家の妹となり、主人公・北条義時にとって伊東八重はいとこ(伯父の娘)になり、呼称が「八重さん」でも違和感が無い。
2番目の妻は、「足立系図」(兵庫県青垣町足立九代次氏蔵本。『新編埼玉県史』別編4「年表・系図」所収。兵庫県丹波市青垣町は、人口の3割9分2厘が「足立」氏。これを地元では「足立率」という。竹内正道『家族の源流 足立氏ものがたり』によれば、本家42軒、分家273軒)に「足立氏の祖」足立遠元(父は藤原遠兼。母は豊島康家の娘)の娘とある。
北条時房の正室が「足立遠元の娘」であるから、母は「足立遠元の妹」の誤りかとも思うが、北条時房が生まれた時、足立遠元は50歳を越えていたとされ、北条時房生誕の数年後に北条時房にふさわしい年齢の娘を儲けたことは考えにくい。「北条時房の母は「足立遠元の娘」で、正室は「足立遠元の娘(血の繋がらない養女)」なのであろう。
足立遠元(武蔵国足立郡の地頭)は、源頼朝の側近・安達盛長の兄・藤原遠兼の子である。結婚目的は「源頼朝勢の北条家への接近」であろう。(鎌倉御家人の安達氏は北条氏との姻戚で栄えたので、足立氏ではあるが、区別するために「安達」の字を使った。)
小野田盛兼┬藤原遠兼─足立遠元【足立氏】─北条時政室
└安達藤九郎盛長【(足立氏と区別させられて)安達氏】
【参考】「足立系図」(丹波国氷上郡山垣村足立九郎兵衛氏蔵本)
・遠兼 武蔵国足立郡住。
・遠元 号足立。母豊島平傔伏泰家女。外祖泰家譲与足立郡地頭職。仍一円知行之。鎌倉右大将並右大臣両代武勇之師範也。
・「藤九郎守長」を遠元の子とする。
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/200/2075/429/0020?m=all&n=20
3番目の妻は、「牧の方」で、『吾妻鏡』「建久2年11月12日条」に「北條殿室家自京都下向給兄弟武者所宗親外甥越後介高成等被相伴云々」(北條殿(北条時政)の室家(3人目の妻・牧の方)が、兄弟の武者所宗親と外甥の越後介高成(清原隆業?)らを伴って京都から下向したという)とあり、「牧の方は、武者所宗親=牧宗親の妹説」が『鎌倉殿の13人』でも採用されている。
同時代の「宗親」には、「大舎人権助大中臣宗親」「五辻宗親」「三善宗親」「湯浅宗親」等がいる。『愚管抄』に「この妻(注:牧の方)は、大舎人允宗親と云ひける者の娘也」とあり、牧宗親=大中臣宗親だと思われるが、家格の差があるので、結婚は無理だと思われる。
杉橋隆夫氏は、『尊卑分脈』の藤原宗子(池禅尼)の弟・諸陵助宗親(藤原宗親)が大舎人允宗親であり、『吾妻鏡』の「武者所宗親」は「武者所時親」の誤り(宗親は大岡牧に住んでいた。京都に住んでいて、牧の方と共に下向したのは時親)だとした。
祇園女御
├────平清盛─平重盛─平維盛【平家】
平忠盛
├────平頼盛(池大納言)【池氏】
藤原宗兼┬藤原宗子(池禅尼。1164年頃に61歳で死去したという)
└諸陵助宗親┬大岡備前守時親(大岡判官時親)【牧氏】
└牧の方
├──北条遠江左馬助政範【嫡男→16歳で急死】
├──嫡女(平賀朝雅室)
北条時政
源頼朝は、池禅尼の助命嘆願により、死罪を免れ、伊豆国への流罪となった。源頼朝は、池禅尼の恩を忘れず、池禅尼が亡くなり、平家が滅亡しても池禅尼の子・平頼盛の一族「池氏」を朝廷堂上人、及び、鎌倉幕府御家人として存続させた。この優遇措置の裏には、平頼盛が執権・北条時政の正室・牧の方のいとこ(伯母の子)であることがあるのであろう。
また、藤原宗親は、平頼盛の家人で、所領の大岡荘(大岡牧)の荘司に任命されると、大畑(静岡県裾野市大畑)を本居地として、「大岡氏」「牧氏」と名乗ったという。黄瀬川宿(下の地図の「木瀬川」)は牧宗親の支配地であり、山木館襲撃の日(伊豆国一宮・三嶋大社(下の地図の「三島神社」)の祭礼日)の夜に山木兼隆の家臣たちが黄瀬川宿で豪遊していたとか、「富士川の戦い」で源頼朝が黄瀬川宿に本陣を置いたこと等の裏には、牧宗親の関与が感じられる。
※『荘園分布図』(吉川弘文館)
『愚管抄』に「時政、若き妻(注:牧の方)を設けて、其れが腹に子ども儲け、娘多く持ちたりけり」とあることから、牧の方はかなり若く、年の差婚で、子供を4人(男子1人、女子3人)産んだというが、「娘多く持ちたりけり」と特筆されているので、もっと多くの娘を産んだようにも思われる。もしかして、『愚管抄』の作者・慈円は、私が養女と考えている母親不明の3人も牧の方の娘だと思っていたのかもしれない。
母親不明の娘3人の中に大岡時親室がいる。大岡時親は牧宗親の子で、牧の方の兄(牧宗親=父説)、もしくは、甥(牧宗親=兄説)であり、大岡時親室が牧の方の娘だとすると、結婚相手が大岡時親では血が濃い。多分、大岡時親が見初めた娘の身分が低かったので、執権・北条時政の養女にしてから結婚させたのであろう。(母親不明の3人を私は養女だと考えているが、北条時政には京都守護時代(1185-1186)に見初めた妾がいる。母親不明の3人は、養女ではなく、その妾が産んだ娘なのかもしれない。だとすれば、大岡時親とは血の繋がりが無いので、結婚には問題がない。)
学者の意見が割れているのは、北条時政が3人目の妻・牧の方と結婚した時期である。足立遠元の娘が北条時房を産んだ1175年以降であることは確かであろう。
牧の方との結婚時期には、
・杉橋隆夫説 :1158年(北条時政21歳 / 牧の方15歳)
・山本みなみ説:1177年~1180年の源頼朝挙兵の間
・本郷和人説 :1180年の源頼朝挙兵後
と諸説あるが、北条時政が大番役として在京した1176~1179の3年の間に知り合ったと考えるのが自然であろう。前妻を亡くした失意の北条時政に、平家から源氏に乗り変えようとしていた牧宗親がつけこんだとすると、北条時政への接近は北条政子と源頼朝の結婚後のことであろう。北条政子と源頼朝の結婚時期も不明であるが、北条時政が大番役として在京した1176年3月だとすると、牧の方との結婚時期は1176~1179年か。
以上、今回登場した牧宗親は、通説では『鎌倉殿の13人』で採用された「牧の方の兄」(『吾妻鏡』)であり、異説では「牧の方の父」(『愚管抄』)であり、新説では「牧の方の父の藤原宗親」(杉橋隆夫説)である。
牧宗親=藤原宗親だとすると、「黄瀬川宿を重視する理由」等、納得のいく説明ができるので、牧宗親=藤原宗親説を支持する学者もいる。こういう説を「蓋然性の高い説」というが、野口実氏は、『吾妻鏡』の「武者所宗親」は「武者所時親」の誤りだとするも、「『吾妻鏡』に所見する牧宗親の所見はすべて時親に代置されるべきものであるという推測を示したが、牧氏に関しては相変わらず蓋然性でしか語ることのできない部分が多く、後考を期さなければならないのは勿論のことである」(「伊豆北条氏の周辺 -時政を評価するための覚書-」)と、「蓋然性の高い説=史実」だと短絡的に考えないよう警告されている。ただ「蓋然性の高い説」を採用すると「あの史実はこういうことだったのか」とストンと腑に落ちるので、小説やドラマに採用するには適している。(とはいえ、『鎌倉殿の13人』で採用されたのは、「牧宗親=牧の方の兄説」である。)
※「北条時政と牧の方の結婚時期」
https://note.com/sz2020/n/na51baf75ea5f
■「NHK「鎌倉殿の13人」まさかのミスで謝罪、再放送で修正 平安時代なのに「カメラマン」映り込む」(3/18(金) 19:02配信)J-CASTニュース
「鎌倉殿の13人」スタッフ映り込みで謝罪(番組公式サイトより)
平安末期~鎌倉時代の動乱を描くNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の最新話に、カメラマンとみられる人物が映り込んでいたことを受け、番組公式ツイッターは2022年3月18日に「スタッフの映り込みがありました。申し訳ありません」と謝罪した。
■「タイムスクープハンター」思い出す人も
映り込みがあったのは、2022年3月13日放送の第10話「根拠なき自信」のワンシーン。上総広常(佐藤浩市さん)が佐竹義政(平田広明さん)を切り殺し、それを合図に北条義時(小栗旬さん)ら源頼朝軍が佐竹軍に突入する場面だ。
義時が先陣を切って駆け込む際、義時の後ろに一瞬だけ白いものが映りこんでいる。コマ送りにして見ると、そこにはカメラらしきものを構えたマスク姿の男性が映っていた。
「歴史好きYouTuber」のミスター武士道さんが、ツイッターでこのシーンを取り上げると、「放送事故」「バッチリ映り込んじゃった...」「平安末期の戦場カメラマン...」「当時の一眼レフはどんな写りだったんかなぁ」と話題を呼んだ。
中には「時空ジャーナリストの要潤さんじゃないですか」「NHKだし、タイムスクープハンターに違いない」といった反応も。要潤さん演じる「時空ジャーナリスト」が過去にタイムスリップして人々の暮らしぶりを取材する設定の教養番組「タイムスクープハンター」(NHK総合、09年~15年)を思い出したようだ。
番組公式ツイッターは18日18時、「3月13日(日)に放送した『鎌倉殿の13人』第10回において、スタッフの映り込みがありました。申し訳ありません」と謝罪。指摘した視聴者には「ご指摘くださった皆さま、ありがとうございました」と伝えた。
3月19日13時10分からNHK総合で再放送される「鎌倉殿の13人」第10話は、該当部分を修正した上で放送するという。
https://news.yahoo.co.jp/articles/6bcdf50105925ae9f0d909ad8a2163f5b6e8be2a
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