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拙者、侘数寄者に候。

 まずはじめに。
 僕は書籍やフィギュアなどを集めはするが、何かのコレクターではない。
 あくまでも関心を持っている対象を、可視化する意味も込めて、身の回りに集めているのであって、ひとつのモノ(切手や特定のキャラなど)を揃えようとするマニア的なコレクションは行っていない。
 その意味で、僕はオタクという枠組みにも属さないことがある。

 では、自身では何に属すると考えているのか。数寄者である。
 数寄者といえば、茶道などでよく用いられる言葉だが、風流な人・物好きな人といった意味もある。僕はより表面的な意味で、趣味人・文化人と言い換えることもあるが。

 コレクター的なコレクションは、そのモノ自体が貴重であるがために、博物館などで将来、展示されるかもしれない。
 一方で、僕のセレクション方式は、僕自身が偉人となった場合、僕のモノとして、展示される類のものなのだ。つまり、そのモノを結びつける僕自身という強烈な自己に基づく蒐集。
 であるからこそ、数寄者。
 茶道具はそれ自体が高価なモノもある一方で、千利休や古田織部が用いたもの、という意味で希少なモノもある。
 彼らは室町期からの名物・唐物絶対主義には必ずしも与さず、自身で日本の茶道具を見出す創作的な茶の湯を行ってもいた。 

 「冷・凍・寂・枯」の思想は、何も茶道だけではない。能楽や歌道など、その当時の芸能に一貫した潮流であったといえる。
 わびさび、という言葉は有名だが、「侘数寄者」という言葉は、名物を持っていない(貧乏)数寄者のことである。
 茶道では多くの場合、身分を問わない。それ故に、モノにも上下を過度に定めず、数寄であれ、という考えがあるにはある訳だ。
 もちろん、将軍家のお茶ではそうではない(唐物絶対主義)が、数寄者の間では、日本産の器物などを評価しだしたのは、こういう背景がある。

 数寄者とは、思想を具体的に表現する。そのために収集もおこなう。
 名物自慢は、数寄者ではなく金持ちの道楽である。
 現代のコレクションもまた然り。数や高価さで自慢することがあるかもしれないが、そこに本人の物語(=モノ語り)が無ければ、同様の、いやそれ以上のコレクションは必ず誰かが所有し得る。

 そのような価値観を持っているのだが、僕は本来の数寄者――茶道家――であったことはない。
 尊敬する人物として北大路魯山人がいる。作陶と美食で知られるが、茶道と無関係というわけではない。
 陶磁器への関心。それはある。だが、上記の想いがあればこそ、今から茶道を始めるというのも、無一文で敷居の高いところへゆくようなもの。

 僕は十数年前から、元首相・細川護熙氏にある種の尊敬を抱いている。政治家としてではなく、芸術家として。きっかけは情熱大陸。おととしだったか、ついに直接サインをいただく機会を得ることができた。
 魯山人と細川氏に共通するのは、専門家・流派ではなく、自身の教養を基にして創作している点であろう。

 僕はと言えば、作陶には興味があるにも関わらず、僕は一度も体験教室へ行ったことがない。これからもきっと無いだろう。
 それならいっそ、自分で気楽に始めてみるのもいいだろう。素人が高価な茶器を揃えるよりも、そちらの方が趣向がある。
 
 100円ショップには、オーブン粘土というものが売っている。
 それが実際に使える物になってくれるのかは、今の時点では分からないが、ひとまずはこれらを用いて、皿でも作ってみようと思う。
 近頃、あまり物を買いたいとは思っていないし、自宅で作陶のようなことをこれからしていこう。
 数寄者どもが夢の跡、とかつていったが、あるいはその夢の中で、出来うることはしておきたいものだ。

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