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Unus Sufficit Orbis.

 隙間風のせいか、あるいは寝床が変わったせいだろうか、今朝は久々に早起きだった。
「ん、おはよ~」
 どこか猫を彷彿とさせる伸びをしてまどろんだ眼であたりを見まわす。シュウスイちゃんも段々と昨夜のことを思い出してきたようで、少しはねた髪を撫でつつ、こちらを振り返る。朝からこんなにも笑顔でいられるのは、彼女の他に存在しないのでは。

 ここは物置として今は長らく使われていなかった小屋。
 昨晩、僕はついに社会から逃避行することに決め、遺書をのこして自宅を去った。この世を去る決心は勿論、念頭にすら無かったからだろう、気づけばシュウスイちゃんのもとへと足が向いていた。
「ほわっ、どうしたの、こんな寒空の中!」
 最初は目を丸くして驚いていたけど、彼女はお気に入りの毛布を僕の肩へかけると、即席スープをマグカップに入れて持ってきてくれた。ここにきて良かった。これがネカフェとかだったら、僕の将来も決まったも同然だろう。
「昔から“晴耕雨読”とか言ってたもんね」
 幼馴染だからこそ、良いところも悪いところもそれなりに共有してきた。滅多にないが、僕は対人関係に病むことも間々あり、だからこそ彼女の他に友と呼べるのは本と映画とアニメと二次元美少女。彼女はオタクじゃなかったけれど、ずっと寄り添ってくれていた。それに正直に言って、アニメキャラみたいにわりと可愛い。いや、かなり。

「なあ、一緒に旅行しないか」
 今思えば、この誘いは彼女のために良くなかった気がする。でも、ずっと居座る訳にもいかず、それに距離が近かったのもあって、何かを僕は錯覚したに違いない。
 とどのつまり、自ら社会を捨てたと息巻いても、手近な存在を連れていくことで、ロビンソン・クルーソーほどの孤独には浸らず、ソローの森の生活よろしく、意図的な隠遁へとすり替えたのだ。アリストテレスはまたもや正しい、人間は社会的動物という文言を残していたが故に。

「ねぇねぇ、写真撮って!」
 相談も算段もさほど練らず、どれだけこの小屋で過ごすかあやふやにしたまま、僕らは一晩過ごした。ぐっすり眠れたくらいで、まだ昨日までとの違いはあまり感じられない。
「どうしてカメラなんて持ってるんだよ」
「だって、大切な思い出だよ? 君は文章が書けるけど、私には…………」
 いつもは綺麗で見とれてしまう彼女の赤い瞳に幾ばくかの影が差した気がした。
「ほら、コート着ろよ、寒いから」
「うん………!」

冬の山小屋にて。

「雪が反射して、まるで他になんにもないみたいだね」
 言い得て妙だ。少なくとも僕は彼女の他にもう誰も存在していないと信じかけていた。
「ねぇ、肉まんでいい?」
 朝ごはんとしては稀かもしれないが、二人で分けて食べたので胃もたれなどの様子はない。
「雪、強くなってきたね」
「あぁ」
「そっち、行っていい?」
「おう」
 子どもじみた僕への挑戦のように、窓にあたっては水になる粉雪。彼女は僕よりも冷えていた。北風は不安を煽る。シューベルトの『魔王』のように、彼女をギュッと抱きしめているのに、このまま消えてしまいそうで、数の限られた薪を節約する気には到底なれなかった。
「大丈夫だよ」
 神にすら祈ろうと思っていた矢先、そんな言葉がすぐ近くから発せられると誰でも驚く。甘い香りのする青い髪をなびかせて、彼女は僕へ寄りかかる。
「少しずつ晴れてくるから、きっと大丈夫だよ」

雪景色の中で。


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