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作品から“世間”を知る

 まず、タイトルをあえて「世界」ではなく「世間」としたのは、世界という言葉は、グローバルという意味だけでなく、その個々人の“世界観”とも使うことが可能だから。
 世間知らずは存在するが、世界知らずという表現はなされない。
 それはたとえ鎖国していようとも、その中が世界なのであるから。古代ローマにおいて全世界を征服したという偉業をもつ皇帝にとって、その征服範囲・領土以外は世界ではなかったように。

ケース1

 さて、では次に近況をいくつかご紹介。
 先日、ペーパークラフトで「ジャガー Mk2サルーン」を組み立てた。

 久々のペーパークラフトだったので、本当に一日かけて作ったのにボロボロで心身もクタクタに。だが飾って数日たつと馴染んできたように思う。わりと大きく、本棚を圧迫してしまったのは由々しき事態だけど。

 なお、この車に興味を持ち、それのみか、飾りたいと思わせるにいたったのは、ドラマ「主任警部モース」での愛車だから。
 残念ながら、原作の多くは絶版だが、ホームズに次いで敬愛するディテクティブだ。自分との共通点がかなり多いのも魅力だったのだろう。クロスワード、クラシック鑑賞、人文学etc.

 ちなみに、僕は車を全然知らない。
 正確には、車という存在を認識し、あまつさえ自身でも操縦しどこかへ向かう生活をしているが、関心が薄いために、車種やパーツへの知識・理解に欠けている。
 なので親類等が乗っている車を除けば、僕が自発的に関心をもって、少しは知識があるという珍しいケースに部類されるのは、上記のジャガーの他、皇族も御乗りになられる「センチュリー」、そして己の名を冠したものの、おとり捜査を経て倒産し、時を経て映画でよみがえった「デロリアン」、それとルパン三世が初期に乗っていた高級車「ベンツSSK」くらいかもしれない。
 ベンツSSKは、ジャガーMK2サルーンと違って、つい先日トミカから発売されたので、もしかするとそのうち購入するかも。
 模型はコレクション意欲を満たすのみならず、触れることでそのモノへの理解を深め、そして飾ることで周囲の他のコレクションと共存し、別のテーマや視点をも与えてくれる。その思想を有するが故に、本棚のスペースをグッズに割かねばならなくなってしまう…………。

ケース2

 一方で、ジャンル自体は黎明期から好きだが、個々をじっくり堪能できているかは怪しいのは「VTuber」。
 もっぱらホロライブが好きだけど、何かしらの切り抜き動画をほぼ毎日みるのであって、いわゆる本動画(生配信/アーカイブ)をみていることは滅多にないのいが現状。
 それにしても、例えば6時間もゲーム実況するといったところには感服させられる。そもそも何年もゲームをまともにプレイしていないのもあって、一時間でも継続して見ることさえ、やや悩ましいことがある。

 そんな中、この前配信があった「AZKi」さんのホラーゲーム配信は愛らしくて最初から最後までみた。とてもかわいい。

 彼女は歌をメインとする活動をおこなっており、活動5年目にして初の一人ホラゲー実況とのこと。近頃は「GeoGuessr」というゲームを気に入ったようで、よくゲーム配信をしている。それにホロライブへ移籍したのもあって、新たな魅力として映ることも少なからずあるのではないか。

ケース3

 ネットフリックスオリジナル作品「ミス・アメリカーナ」をみた。
 歌手のテイラー・スウィフトさんのドキュメンタリー映画。
 実は車と同様、彼女のヒット曲をニュースや街で聴いたことはあるだろうが、それは古典的にいえば「きこゆ」であって、自発的に聴いたわけではなかった。
 ところで彼女にはYouTube上にとあるインタビュー動画が存在している。

 ここで僕が取り上げたいのはその内容ではなく、情報の差である。
 インタビューはあくまでも作為的だが、ドキュメンタリーとは、その一個人を通して、より普遍的な問題意識へと至ろうとするものだと考える。
 なので、このインタビューは彼女のファンや人となりを知りたい方には向いている。
 一方で、ドキュメンタリーと違って、彼女の作品もよく知らない人には、美人としてしか映らないのではなかろうか。
 ドキュメンタリーから入ることで、次にその人の作品へ向かうことはあるが、インタビューから作品へと至ることは少ないかもしれない。

 とどのつまり。これら三つの近況を通して痛感したのは、僕は世間知らずだが、様々な作品を通して世界観を豊かにすることで、それを補い得るということだ。世間に揉まれるだけが世界への入り口ではない。
 古代ギリシア悲劇の名作、ソポクレスの『オイディプス王』をこの間読んだ。その悲劇はなるほど身近ではないかもしれない。
 けれども、古代ギリシアから現代へと通ずるテーマが確かにあり、その経験をせずとも、あるいは古代人ならびにルネサンス期の人間でなくとも、それを味わい得るという点にこそ、作品をないがしろにすべきでない意味がある。
 作品は現実に劣るものではない。現実への目線を与えるものなのだ。世間なるものを信用しなくとも、教養は信用するに足る。

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