武重謙 ヒグマ猟記1「ヒグマの足跡と出会う」後編
こんな足跡を残せる動物が、いつも通ってる山にいたことを初めて肌で実感した。
気が付けばヒグマの足跡を追っていた。悩むこともなかった。とても自然な行為に思えた。小さな谷に吸い込まれていくヒグマの足跡は淡々としていた。時々谷を流れる沢を覗いている痕跡はあったが、それ以外は歩幅にも変化はなく、決まったペースで進んでいた。谷は徐々に標高を上げ、傾斜もきつくなってくる。最初は斑だった藪も密度が濃くなり、しまいには背丈を超すチシマザサの藪の中へと足跡とは消えていった。
今さらさっきのエゾシカの足跡を追う気にもなれず、どこかフワフワとした気持ちで下山した。
この山のどこかにヒグマがいる。さっきの足跡をつけたヒグマがいる。今も、あの内股の、堂々とした足跡を一歩一歩伸ばしている。あの足跡の進む先にヒグマがいる。そんなことばかり考えながら山を降りた。
「なんかすげー」
率直な感想である。昨シーズンも何度も歩いた山だったが、たまたまヒグマの足跡を見ることはなかった。あるいは気が付いていなかったのかもしれない。とにかく初めて認識したヒグマである。
帰宅すると、妻がいつもの通り「どうだったー?」と訊ねた。
「シカの足跡を追ってたのよ。そしたら、横切る形でヒグマの足跡があったんだよ。こんなでかいの。肉球が1つ1つはっきり見えてさ、その先に爪のとんがりがはっきり見えるンだよ。で、こうなんていうか、内股っぽい感じでノッソノッソと歩いてるの。ところどころで沢を覗き込んでてさ、その足跡を追ってみたのよ――」
「熱くなってるね」
と妻は笑った。
「クマは獲るの?」
「え?」
ああそうか……、とこのときになって獲るという選択肢があったことを思いだした。ただただ足跡を追いたくて追っていた。その姿を見たいとは思ったが、獲るだなんて考えもしなかった。
そもそも足跡はそこまで新しいものではなく、追ったところで追いつけないことはわかっていた。追いつけないとわかっていても、その足跡を追いたかった。追いたいから追っていた。
「いや、獲るって言っても簡単じゃないでしょー。でもまぁ、もしそういうチャンスがあったらね。うん。獲るかもね。でもね、なかなか難しいと思うわ」
「そんなこと言ってクマ獲りたくなっちゃうんでしょ」
「うーん」
自分がクマを獲るなんてイメージが湧かなかった。そりゃ、長い狩猟人生の中でヒグマも獲りたいくらいには思っていた。しかし目の前の具体的な目標としては考えたことはなかった。
何度も何度もあの足跡のことを思いだしていた。あの足跡はどこから来て、どこに向かってるんだろう? 余りに気になって、数日後に同じ場所にいって、同じ足跡を逆向きに追ってみたりもした。
すでに雪が溶けて痕跡は薄くなっていたが、それでもある程度は追うことができて、最終的にはやはり藪に吸い込まれて消えていった。
この地域の藪は簡単に藪漕ぎできるような柔らかい藪ではない。密生した竹のようなもので、入れば本当に身体が動かせなくなるような濃い藪である。藪に入られればとても追い切れず、諦めるほかなかった。
「俺、やっぱりクマを獲りたいわ」
ある夜、妻に告げた。
「わかった。やられるかもしれないことを覚悟しておく」
笑ってはいたが、冗談を言うようでもなかった。
2020年の冬。ヒグマを獲りたいと思った。獲り方も探し方も分からなかったが、とにかく獲りたいという気持ちだけは強かった。
▶︎2へ続く
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