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166回芥川賞ブラックボックスを読んで


普段純文を読まない友人はこの作品について「こういう派遣のメッセンジャーの苦労は伝わるが、読んでいて次に何が来るのかと言うワクワクはない」と言った。
僕はこれについては同意見だが、同時に寂しい気持ちもあった。芥川賞とはこういうもので、彼がブラックボックスを退屈だと思うなら、他の芥川賞もそう思うはずだからだ。「話が急に終わってよくわからん」とも友人は言ったが、芥川賞でそうじゃない方が珍しい。

逆に友人は重松清の「ビタミンF」を推してきた。重松清の本は読んだことがないが、それが一般的な意見だとすれば、芥川賞を読んでいるのは少数の同じタイプの読者ということになる。これは今回僕が得た興味深い発見だった。

芥川賞を面白いと思う人は、日頃から純文学を読んでいる人に限る。


友人の前では彼に意見を合わせて「退屈で、ワクワクがない」と言ったが、読んでいる間は結構楽しんでいた。もし先に僕が意見を言っていたら「まあ読みやすくて、わりと面白かった」と言っていただろう。

なぜ僕がブラックボックスを楽しめたかというと、それは「正直で、読みやすかった」からの一言に尽きる。話の内容はどうでもいい。最初から最後までつまずくことなく読めた。これはもうとっくに合格点なのだ。
「正直で、読みやすい」砂川文次の逆は「カッコつけで、読みやすい」庄司薫といったところだろう。僕は後者のタイプを読むのが好きだ。一文に作者の性格がたっぷり詰まっていて、それを隠そうとしているのが滑稽だからだ。砂川文次の文章にはこの「滑稽さ」がなかった。それが「正直」であり「クセのない」文体なのだろう。だからブラックボックスは本当にすぐ読めた。クセがない文章はこんなにも読みやすいんだ、と思った。
これはあまり言いたくないのだが、そういう点でブラックボックスは本当にど真ん中の「普通」だった。しかし、だ。しかし、今回リアルタイムで芥川賞を読んで思ったのだけど、「年の近い現代の作家はみんな、それだけで普通に見えてしまうのかもしれない」。これだ。

遠野遥は砂川文次よりも「変わっている」と思う。しかし遠野遥を読んでいた最中は「普通だ」と思っていた。今回の砂川文次を読んで、二人を比べて遠野遥は「変わっている」と思った。
一方、庄司薫は普通じゃない感じがある。あるのだがこれは、彼がもう80代の、昔の人が書いた本だからなのかもしれない。僕が80年前に生まれていたら「なんだこの普通の作家は」と庄司薫を読んで思っていたのかもしれない。感覚で言えば「あーあ。ビートルズと同じ時代に生まれてたらなあ」ということだ。現在、イタリアの「モーネスキン」というハードロックバンドがいるが、僕は聴きたいと思えない。彼らが年下で、羨ましいからだ。「いかにも」なクラシックバンドの格好をしてアルバムを売りまくっているのが。そんなの、60'、70’のロックファンからすれば夢のような話だ。多分僕が2070年生まれなら「モーネスキン最高!やっぱ令和のロックはいいねー」なんて言ってるだろう。実際とてもカッコいいバンドなのだから。

だとすれば、選考委員というのはかなり譲歩しているんじゃないか?だってほぼ同年代の作家を読んでも「普通だ」と思ってしまうのに、選考委員たちにとってはほとんどの作家が「だいぶ年下」になるから。選考委員のコメントを見る限り、みんな古典が大好物で「ヘミングウェイ!」「カミュ!」「バルザック!」っていう顔をしているから、20代とか30代の、それも新人が書いた本を読んでも、無理して良いところを見つけている気がする。それは人生でたくさん本を読んできた罰みたいなものだ。それとも選考委員はわりとこの選考会を人生の楽しみとして生きているのだろうか?多分そうなんだろう。それはたくさん本を書いてきたご褒美みたいなものだ。

というわけで、今回ブラックボックスを読んだのは流行を知るという点で非常にためになった。砂川文次の前2作も読んでみたくなった。毎回芥川賞が出るのを楽しみにしているが、芥川賞がもっと有名になってみんなが文藝春秋を読むような時代がくれば、嬉しさ半分、寂しさ半分という気持ちになるだろう。


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