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【感想考察】映画『君たちはどう生きるか』宮崎駿のメッセージあった?【ネタバレ】

見た後
・何をやっているかは分かったし(浅いかもしれないが)、好きな映像のシーンもあったけど、得たものはなかった。
 ↓
一晩考えて
・これはすごく希望に溢れた映画とも言えるのではないか。


宮崎駿さんがこの映画を通して何を言っているのか。
初めはあまり、少なくとも私に対しては有意義な作品ではないと思いましたが、だいぶ消化できたので感想を書いていきます。
(文体も流れもぐちゃぐちゃですごめん。)


好きだったシーン

・波を越えるシーン。
「姉妹波が来る、これを越えると穏やかになる」
説明とキリエさんのかっこよさを両立しているいいセリフ。好き。

・ワラワラの転生とペリカンとヒミ様の花火のシーン。
ここが一番好きかも。景色がきれい。食物連鎖。燃えるペリカンとワラワラが躍動的でドラマを感じる。

・ヒミ様が「カッ」って紙垂を燃やすシーン。
アニメーション映像としてはここが一番気持ち良くて好き。

・るんるん包丁研ぎインコ
コミカルだけどホラーのギャップ、好き。

・王様が大叔父様に会いに行く流れ。
石の意思をものともしない王様、絶対分不相応な侵入だから拒絶反応やばそうなのに。意志の強さを感じる。
「ご先祖様だ~」の悪ふざけ脚本面白くて好き。

見ている時の感想

母親の家から後妻をもらう。
戦中くらいの時代ならよくあることだったはず。
それはそうと新しい母に心をひらけない真人、興味を引きたくてケガを偽装する。愛の試し行為。まあそうなるよね。
でもそれに対して夏子さんもお父さんもおばあちゃん達も根はいい人そうなムーブを見せるし、
他にも、心なしか音響の主張とか少なく感じて、喧嘩のシーンカメラ遠影にしたりで、
なんかアッサリしてるというか、ここはあまりメインテーマじゃないのかなぁと感じた。

サギの「おいでください」
童話でよくある「行きて帰りし物語」だなぁと。ここで方向性はファンタジーなのね。と分かる。
しかし「おいでください」だから偶然タイプではなく選ばれたタイプ。(※後述)

真人とキリエ、同じところに傷。(※後述)

画一的なボート漕ぎの黒子。「彼らは殺生はできない」
一般市民のメタファーかな。凡庸、個のない、協調主義、平和主義。つい穿って見てしまう。
真人のお辞儀に返しているし、そうにしか見えなかった。

ワラワラ。可愛げのある顔をしてワラワラとまとわりつく。
これ絶対アニメファン、ジブリファンのことだろ、と思った。
カオナシのころに比べたら随分マイルドな印象に変わったんだな。
一般市民でないもの=真人、キリエの成果物の内臓をエサにするし、もう、そうとしか見えなかった。
これまで真人を作中人物として見ていたが、ここでようやく宮崎駿さんの分身ではないかと感じる。

ワラワラが人間になるため天に昇る。
「人間になる」ってセリフで言っちゃうんだ、と。
これストーリーの完成度を真面目に追うべきじゃないのかも、と感じる。
オタクを食い物にするペリカン。なるほどね。

キリエが「動かすな」と言ったおばあちゃん人形をマヒトがちょっとだけ動かす。
これでなんも起こらんかったので、これストーリー破綻してないか?と感じる。作劇上絶対に何か起こらないとまずいだろう。
一応ペリカンとの対話イベントはあったが。
ペリカンにもペリカンの事情があるのだと、同じく被害者なのだと。
宮崎駿さん随分寛容になったんじゃない?

城侵入シーン。
「石が怒ってる」そのまんま石の意思ってことじゃん。

産屋のシーン。
「夏子さん」→「夏子かあさん」
あまりにも瞬間的というか葛藤なさすぎない?
だから、真人の家族に対するモヤモヤみたいなのはテーマ的にはあまり重要じゃないのかなと感じる。

ヒミ様、お母さんだろうなと思っていたら、お母さんだった。(※後述)

大叔父様、この世界の創造主だった。
ここで大叔父様=宮崎駿さんだと分かる。じゃあ真人は吾朗さんかな。
じゃあサギは吾朗さんをたぶらかして創作の世界に引き摺り込んだプロデューサーとか?
真人は選ばれた人(※)のような扱いだったし。

インコ、この世界の主勢力だった。
え、これが宮崎駿さんの世界=ジブリだとしたら、インコってもしかして社員のこと?
社員の印象ひどくない?
現実世界に戻るとムキムキインコがただのインコになるって、そういうこと?
これに思い至った時、印象がひどすぎて笑いそうだった。

大叔父様の間に行くインコと真人。
ザルな尾行でつける王様に、後ろを見ているのに気づかないサギ。
ストーリーの完成度を求めるならサギに後ろは振り向かせないはずで、
もうストーリーはあまり重要じゃないんだなと確信する。

再会するヒミと真人。
抱き合い方から見て、ああヒミがヒロイン枠ということでよかったんだ、と。
お母さんだからそういう扱いでいいのか半信半疑だった。(※後述)

インコの王様と意外と仲良さげな大叔父様。
インコ=社員だけど、王様はちょっと違う感じかな、部下の中の一番弟子みたいな。

石には悪意が宿っている。汚れのない石はこの世界に少ない。
石がこの惑星の主な構成物という見方をすれば、石とはこの世界か人類か。
人は悪意ばかりに満ちて、純粋な人はほんの少ししかいないということか。

大叔父様「血がつながったものが継いでほしい」(※後述)
真人「そんなことより現実世界に家族と帰る」
大叔父様の創造物である王様が「裏切り」と世界をめちゃくちゃにする。
もうジブリを巡るそれにしか見えない。
世界が破壊された後に大叔父様がそれを嘆くでもなく「真人はいい子だ」とだけ言うのが印象深かった。(※後述)

現実世界に戻りサギがおじさんの格好で真人と心の中で対話する。
ジブリでこんな表現方法をする印象がなかったから驚いた。
すごく違和感があった。ストーリーの後味の良さよりここでの説明を重視した感じ。(※後述)

エンドロール。
「原作・脚本・監督 宮崎駿」(※後述)

考察

この作品のストーリーは「行きて帰りし物語」の童話的構成であり、世界観としては地獄なのだろう。
私の知らない叙事詩や神話や芸術のモチーフがふんだんに入っているのかもしれない。
ただ、「ストーリーは重要じゃありませんよ」と言われている気がしてならなかった。
私はハウルとポニョは全然刺さらなかったのだが、同じような気持ちになった。
ただ私の見方が浅かったり変なだけなのかもしれないが。

私は作品のテーマというか、作者の言いたいことに興味があってそちらをメインに追いたくて映画を見に行った。
タイトルが「君たちはどう生きるか」だったし、「よーし宮崎駿さんの人生の答えを見に行くでー」と思っていた。
そしたら鑑賞直後は、正直肩透かしだった。ストーリーからテーマを抽出できると思っていたからだ。

私は宮崎駿さんを自分には及びもつかない壮大な天才だと思っていたから、
ストーリーから抽出できるテーマが家族愛と、空想を終わりにして現実に帰るということだったのが納得いかなかった。シンエヴァじゃん。

(シンエヴァは終わり方は好みではないですが農業をしていた中盤まではとても好きです。空想が大好きだった人が最後に言うことが「現実に帰れ」というのが自己否定みたいで嫌なんです。)

エンドロールで「原作・脚本・監督 宮崎駿」となっていて、ただ自分の思想をモチーフやテーマとして出しているだけではなく、
もしかしてストーリーそのものが宮崎駿さんの自伝的なものなのではないかと考えると、ある程度腑に落ちた。
後で調べると、やはり、事前にそういう噂が流れていたらしい。

そう考えると、真人は宮崎吾朗さんでもあり、宮崎駿さん自身でもある。大叔父様と、もしかしたらキリエさんも、宮崎駿さん自身である。
ヒミ様は母であり理想の女性である。キリエさんは父でもある。となります。
そして、これは宮崎駿さんの人生でもあり、理想を思い描いた空想でもある、と思いました。過去でもあり夢でもあるわけですね。
そう考えるとちょっと希望があって、自身の人生を悲観しているだけではないんだとちょっと面白くなりました。
全部説明していきます。

ぶっちゃけ皆さん分かると思うのですが、
宮崎駿さんは自分の作った世界と、ジブリという組織を「血のつながった」「選ばれた資格のある」息子へ受け継ごうとしますが、
宮崎吾朗さんはそんな他人の世界に継ぎ足しを行うより、現実の家族、現実の生活を望むので、宮崎駿さんの世界は崩壊します。
しかもその世界は地獄のように、みんなが世界をめちゃくちゃにするし、勝手に悪意を混ぜ込んでしまっています。

正直、後継は血のつながった者でなくてもいいと思うのですが、それにこだわるのは宮崎駿さんが血縁主義なのか、
息子以外の関係者の人柄より息子の人柄が引き継ぐに相応しいのだけど当の本人がその気がないだけなのか。
前者の場合は、まあ人が何かを受け継がせたいと思うのは晩年に人が思うこととして当然だと思うので、その場合この作品は息子へ宛てたものとして見れますね。
後者の場合は、すごく悲しいです。それって「自分のやってきたことはなんだったのか」という虚無感というか悲壮感ですよね。
大叔父様は、自分の作った世界にぎりぎりまで執着していて、それが作品の中核になっています。
宮崎駿さんがジブリより家族愛をとると割り切って明確に結論を出していたら、大叔父様が世界の崩壊についてもっと諦めるような言動をとらせているように思いますし、インコの王様=弟子?社員?に石を破壊させるような展開にせずに自分で世界を消したはずです。

つまり、この作品を自伝として読むと、
自分を取り巻く環境は勝手で悪意があって嫌、自分の空想の世界にもケチがついてしまった。ただし自分の人生の結晶ではあって、
①自分のもう一つの結晶である息子に受け継いで欲しかったけど本人にその気がなく、そのことでわだかまりもあったけどお前への愛はあるから自由に生きなさい。という息子に宛てたメッセージ。
②受け継げそうなのが息子しかいないけど拒否されてしまったから、自分のやってきたことはこのまま消えてしまう。という失意。
のどちらかかなぁと読みました。

これが私が「得たものはなかった」と感じた理由かなと思いました。
本人も割り切れない喪失感を見てもどうしようもないし、家族愛っていいよねで見たとしてもそれは息子へ宛てたものだから、自分に向けられたものではないと感じたのでしょう。

で、ただ真偽のほどは知りませんが、主題歌の歌詞を見ようと調べてたのですが、
宮崎駿さんができた曲を聴いて泣いていたらしいということが書いてありました。
そんなのは絶対悲しい涙じゃないですよね。そう思って考えてみました。
もし自分が思い描いていた世界をひたすら現実にして、充実した、その後今までの軌跡を思い返してその後何を作るか。
そしたらやっぱり、自分の理想の幸せな世界を作るはずなのです。
真人を宮崎駿さんとして捉えた場合です。その場合、大叔父様やインコは現状の自分と環境をモデルにしたことはほぼ間違いないと思っていますが、
先駆者に導かれて冒険すること、ヒロインとのロマンスについてはワクワクするものではないでしょうか。
キリエさんは真人と同じ傷があります。あれはモチーフとしては同一人物ということではないかと思いました。そして宮崎駿さんは自伝で父親という属性を持たされています。
だからキリエさんは子供の宮崎駿さんから見た大人の自分、自分を導いてくれるもの、理想の父親、ではないかと思うわけです。
生きる術を教えてもらう、狩りをするのは大体父親です。
そしてヒロイン、自分の理想の世界を作るのであれば、ヒロインは絶対に理想の女性にします。
これが属性上母なので少々戸惑いました。宮崎駿さんってロリコンみたいな揶揄は度々されますが、この考えでいくとマザコンってことになるけど合っているのか?と。ちょっと調べたのみですが、どうやらお母様が若くして病弱で、寂しい思いをしていたような情報もあり、
ということは母親に対しては私が持つ感覚よりは忌避感を持っていなくてもおかしくはないのではないか、と推測します。
フロイトのエディプスコンプレックス的にも根源的には男児にとって母親は愛の対象であるので、幻想が破壊されていない場合、
理想のヒロインが母親というのはその人の環境によっては間違いないと思います。

そう見るとこの作品は宮崎駿さんの性癖というか欲望を結構隠さずにそのまま出しているという見方ができて、
今までいろいろがんばってきた人生を振り返りつつ、こういう理想の世界を叶えたいなぁ、という、
なんとも人生のご褒美的な映画となるわけです。
自分の人生が内包されつつ理想を叶えている世界なんて楽しいに決まっている。宮崎駿さん、楽しそうで良かった。


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