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いきむって何だ!?(後編)

#出産の話
汚い話もあるので、苦手な方は退避




そうだ。呼吸法だ。

どうしたら軋むような不快感を和らげることができるか、ベッドの上でゴロゴロ左右に転がり続けて10分ほど。ようやく私はその存在を思い出した。

そうだよ。私は今まで何を練習していたんだ。
今こそ呼吸だ。落ち着け。落ち着いてやれば、できる!!!

フーーーーフーーーー

…………………………一向に良くならない。
というか、気持ちを落ち着かせたことによって、余計に腰の不快感が気になって仕方ない。

(やばいやばいやばい。どうする)

この時点で病院に電話かければ良かったのだが、なんせ私は初産。
これが本当に陣痛かどうか、まだ半信半疑で、しかもまだ10分間隔では無かったのもあり、こんな事で病院に電話しても『安静にしててね』で終わるんじゃないかと思い、かけれなかった。
そんな訳で、何とか自力で状況を改善できないかあがいていたのだ。

「具合どうー?」

ようやくしゅんたを洗い終わった母が扉を開けて、のんびりと声をかけてくる。

「少し…いや、結構きてる…」
「え!?声かけてくれればよかったのに!」

いや、あなた取り込み中だったでしょ!!

…というツッコミは当然できず、「はは…そうね…」と空笑いし、陣痛っぽいのが来ているが、まだ10分間隔ではない事を伝え、ついでに陣痛アプリに打ち込んだ記録を見せる。

「ふーん…平均すると10分くらいじゃない。電話しなさい」

え。 そんなぱっと見でアヴェレージ出しちゃうの?
これ、平均値出ないアプリですけど。間隔しか記録してないヤツですけど。
すごいね。理系だから?

母の計算力と己の壊滅的な算数能力の無さに慄きながら、言われるがままに病院に電話する。

「そうですかー。今すぐ病院に来てください」
散々自宅待機を命じられるに決まってると思っていたのに、あっさりと快諾され、拍子抜けする。

「……病院来ていいって」
「あらそー。じゃあ支度して。早く行くわよ」

40秒で支度しなと言わんばかりに車の鍵を取りに行く母の後を、慌てて入院グッズが入った鞄を掴んで追いかける。

≪40秒で支度しな≫
天空の城ラピュタの名言。これを言われた小僧は本当に40秒で支度した。

が、玄関に着いた途端、その足が止まる。

(…出る)

子供ではない。
今このタイミングで、猛烈にお腹が下りそうになっている。

「ごめん。ちょっとまって」

荷物を放り出し、トイレにUターンする。
お腹が下るなんて滅多にないのに。なぜこのタイミングなのか。
しかも、出しても全然すっきりしない。

(これじゃ車に乗れない)

出産する準備はしていても、人間の尊厳を捨てる準備はできていない。
絶対車に乗れない。

「どうしたの?」
 「いや…その、お腹が下ってて、車乗れない…です」
「そう……。すぐ出発するわよ」
「人の話聞いてました!?」

(まるで母が冷血漢かのように感じるかもしれないが、赤ちゃんが下りてくると刺激されてお腹を下す人が多い。私がお腹が下ってると言った時点で、もう出産は近いなと感じ急かしたと後に語った)

母に急き立てられるようにトイレを出、車に乗り込む。
幸いにもお腹の調子は落ち着いたが、代わりに腰の不快感が最高潮になる。

「う…ぐぐ…」

あー。間違いありません。これ、もう陣痛です。
認めてなかったけど、陣痛です。

車の揺れが辛い。狭い助手席が辛い。
信号の合間に母が腰をさすってくれるが、とてつもなくそれが不快で、早く広いところで楽になりたい。

えっちらおっちら、30分ほどかけて病院に着き、よろよろと降り立つと、17時を知らせるチャイムがちょうど鳴っている。

「よかったわねー。17時過ぎたら道が渋滞して、もっと時間かかってたわよ」
「そ…そうね…」

のんびりした声にも上の空になる。そのぐらい歩くのが辛い。
数歩の玄関が、3段の階段が、物凄く困難なのだ。
しかし中から車椅子を借りてくる間に、何か出てきたらどうしよう。
いや、何かってもう子供しかいないんだけど。

最後の気合を振り絞り、階段を登り、玄関をくぐり、陣痛室にそのまま案内される。しかしその通された廊下では、女性の叫び声がくぐもって反響し、この先一体どうなってしまうんだと不安を煽って仕方ない。

陣痛室で着替えをするように言われ(これもまたしんどい)、這いつくばるようにベッドに横になれば、すぐに助産師さんが様子を見に来た。

「うーん。この調子なら出産は夜中ね」

まじで?え?まじで?
この不快感を、身をよじる様なこの痛みを、あと7時間も耐えるの?

「旦那さん東京?じゃー、出産には間に合いそうね。
あ。いきみたくなったらナースコール押して

いやいやいや!!
わたし、人生で一度もいきみたいって思ったことないんですけど!!!
いきむって、いきむって何だ!?

さっさと退室する助産師さん。
その背中に、届かない叫びを上げる。

(待ってくれー!!置いていかないでー!!!)

どれだ。どれがいきみだ。これか。この痛みか。

時折急激に襲う痛み。
呼吸法もやってはいたが、そんなものでは間に合わないぐらいノンストップで来る。
腰もさすってもらっても改善しない。テニスボールも一応持ってきたが、体勢すら変えられない。

「ご飯食べる?」

そんな中、運ばれてきたものの放って置かれてる夕飯を目にして、母が一言。

「い…いらない…むしろ…吐きそう…」
「おにぎりにしたわよ」
「人の話聞いてました!?」

そうこうしてる内に何もすることがなく暇になった母は、『じゃあ母さん帰るから』と身支度を整え始める。

(ああ…ここから1人か…どれがいきむかわからないまま…わたしは1人…)

不安だ。不安しかないが、何もすることがない母を、夫が来るまで引き止めることもできない。 別れの言葉を告げようとしたその瞬間

ズルルルルル!!!!

音がした。いや、実際には音なんかしていない。
けれど、急に、激烈に、何かがわたしの中から出ようとしている。

な、何か出るー!!!!
「え?何言ってんのあんた」

唐突に叫んだ言葉が間抜けすぎて、母が呆れたようにナースコールを押し「娘がなんか出るって言ってるんですけど」と告げれば、すぐに助産師が駆け付け、わたしの様子を見る。

「あ。頭出てるわ。分娩室に移動してください」

え。待って。歩くの?立って歩くの?
立って歩いた瞬間出てきたらどうしよう。

「ここで産みたい」
そんな一言を飲み込み、恐る恐るベッドから一歩踏み出す為に体勢を変えるべく、力を込めた。


***


結果的に分娩台に乗るまで子供は出てこなかった。
色々と助産師さんが準備してる中、眼前のモニターには妊婦がリラックスするよう、イルカが悠然と泳いでる姿が映し出されてる…はずだ。
ボヤけて何も見えないが。

わたしは近眼だ。それも超ど近眼。
眼鏡がないと何も見えない。が、その眼鏡は昼寝の際にベッドサイドに置いてきた。

それはさておき、ぼんやりした視界の中、暴れ出さないようにか、足をベルトで固定されるのは分かる。まるでレクター博士のように拘束されている。

≪レクター博士≫
「羊たちの沈黙」に出てくる快楽殺人者。
やたらカッコいい拘束着で登場する為、後の映画の出てくる色んな快楽殺人者がレクター縛りをされてる。


そんな中、医者がようやく表れ、「いやー、ちょうどシャワー浴びてたからさー。間に合ってよかったわ」なんて言って部屋に入ってくる。

お前も風呂行ってたのか。やたら今日は風呂で待たされる。
そういう相でも出ているんだろうか。

私の心中を余所に、ようやく出産準備が整い、いよいよさあ出産を始めますよ、的な雰囲気になる。

(ああ、良かった…ようやく出せる)

何か、子供出しちゃいけませんよ。まだですよ的な雰囲気を感じてたから抑えてた。その力を一気に抜く。
が、今まで出ようとしていたソレは、私の意図を読んでか引っ込んでしまう。
異変を感じた医者がモニターを確認すれば、「赤ちゃん、息してないわ」と一言。部屋の中が一気にざわめき立ち、助産婦が叫ぶ。

 

「しゅんたろさん、いきんで!!思いっきり、いきんで!!!」

………………。
……………………………………。
……………………………………………………い…………………………

いきんでいいんかーーーい!!!


いや、いきむって。
え?病院の方式は?渡してきた呼吸法のCDは?

大混乱だ。
もうどうしていいか分からない。今までいきまない練習はしてきたけど、いきむ練習などしてこなかった。

が、医者と助産師は着々と赤ちゃんを器具で引っ張り出す為の準備を始め、当然のように叫ぶ。 

「はい!いきむタイミングで引っ張るよ!!」

だから、だから、いきむって何だー!!?



****



私の混乱とは他所に、よく分からない内に子供は引っ張り出されて無事産まれてきた。
あれがいきむだったのか未だに分からないが、子供が無事に産声を上げたことや、ふにゃふにゃの体を抱いた瞬間、ああ。私のお腹の中には確かにこの子がいた事を実感した。

私は人よりへその緒が長かったらしく、それが産道で赤ちゃんに巻きついて、息をできなくしたそうだ。

何はともあれ、無事に産まれてきてくれた。この時のことを、私は一生忘れない。それ程衝撃的な一日だった。
この日、この瞬間に、私は母になり、この世で一番大切な存在が、別の個体として人生を始めたのだ。

ちなみにこの時点で19時40分。
つまり、病院について3時間未満で子供が生まれるという、ハイスピード出産だった。
当然、夫は間に合わず、終電で何とか辿り着いたものの、携帯は母と共に家に帰宅してしまったため、私と連絡が取れず右往左往する羽目になった事は後に聞いた話である。


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