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若さとは美しさか

髪をかきあげれば、生え際に白髪が目立つようになった。
今年で35歳の私は、一児の母で、世間一般の尺度に合わせれば立派なおばさんだ。

年を重ねることに、私は若い時から随分と脅かされてきた。

20歳を迎えて当時の付き合ってた彼は、誕生日を祝う言葉の前に「20歳を過ぎたら、ニキビは吹き出物って言わなきゃいけないんだぜ」と言い、
新卒で入った会社では、別部署の課長に「女の賞味期限はクリスマスケーキだからな」と言ってきた。

そんな彼らは、共通して、いつか訪れる、おばさんになる私をまるで面白おかしく笑ってくる。
自分たちだって、同じく時の流れには逆らえないのに、自分は関係ないかのように。揺るぎない優位な位置に彼らは立ち、私のことを見ていた。

これは、ある特異な考えを持つ限られた人だけに言われた事では無い。
私はこれまで生きてきて、当たり前に、世間話のように、少し親しくなれば冗談として男性から投げつけられてきた言葉だった。

そう。冗談。
だけどその冗談に、私はいつまで付き合わなきゃいけないんだろう。
私は生きていれば絶対におばさんになるのに。
時の流れに逆らうことなどできはしないのに。
私の美醜に対して当たり前のように口に出す彼らを、不快と思うことすら許されないこの状況は、一体いつまで続くんだろう。

(煩わしい)

こんなこと言われ続けるなら、評価され続けるのなら、もう一気に私はおばさんになりたい。
若さが、呪いのように離れないのが煩わしくて仕方がない。



私が本当に若く、皆平等に若さしかない頃。
小学生、中学生、高校生の頃。

誰しも若さという美しさを得ていた時、私は否定的な立ち位置に置かれる事が多々あった。

男性とは、男子とは、私を常に否定的にジャッジして、同じクラスメイトなのに全く違う態度を取ってくる、残酷な存在だった。

私がいくら賢さを磨いても。
私がいくら内面を磨いても。

それは外面の美しさの前には何の価値も無いもので、その経験が蓄積された時、私は男の人に対して恐怖を感じるようになった。

彼らはいつでも私を評価する側にいて、平然と口や態度に出してくる。
彼らという存在が、少女の私にはとても、どうしようもなく怖かった。
また、大学生になって初めて付き合った彼が、どんなに努力しても褒めることは無くむしろ貶める態度ばかりだったのも、恐怖感を根拠のあるものとして固定させてしまった。

その頃私の価値は、私自身の価値は、絶対的に他者が握っていて、それは外面的な美しさがイコールで繋がっていた。

誰かに認められなければ、私は人としての価値を見出せなかった。
人として存在するには、私は美しいと他者に認められる必要があった。

ファッション、メイク、ダイエット
あらゆるもので装っても、それは私が手にした時点で美しさがひらりと消えた。

(ああ。私って、どうしたら美しくなれるんだろう)

元より物を沢山持つのが苦手な私に、流行りを都度追う事は不可能だ。
追ったとしても、それは私が装った時点で価値が無くなるのだから。

(似合わない薄っぺらな服は買うのを止めよう)
高価でも好みに合うものを見つけた方が、むしろ安上がりだし、一々買わなくていい。

他者の目を気にして一通りお金を費やして、ようやくその事に気付いて、それなりの給与を得られるようになってからは流行りと何とか折り合いを付けるようになり、人並みな綺麗さを努力して手に入れることができた。

そうなれば、彼氏ができたのか、好きな人がいるのかと問われた。
どうして、私が綺麗になるのが誰かの為なんだろう。
私自身の為に他ならないのに。

しかし、それはようやくと手に入れた、私が人と認められた価値だ。
人として認識されるようになった私は、ある言葉を度々口にするようになった。

「私、イケメンが好きなの」

君たちが私の外見を評価するように、私もあなた達を評価する。

20代の若さの盛りの、高価な服に身を包んだ女がそう言うのは高飛車に映った事だろう。
だからこそ、彼らは美しさの象徴である若さを、失われる事が確定的で否定できない所を突いてきた。
ようやく手に入れた美しさなど一時の煌めきなのだと、彼らは堂々と言った。


子育てしてて、若さは美しいと実感する事が多々ある。
私には呪いとしか思えなかったのに、それは確かに美しく存在している。

2歳の息子の、絹糸のような艶やかな髪も、内側から光り輝く肌も、潤い溢れる唇も、彼を構成する物は何もかも美しい。

若さとは美しさだ。
この美しさは、もう私に絶対手に入らない、永遠に喪われたものだ。
若い時には呪いでしかなかった宝物だ。

今、おばさんになった私は美しさの無い、価値の無いものなのだろうか。
彼らが笑い嘲った無価値な存在なのだろうか。

公園や買い物に行くぐらいなら、念入りな化粧もせず、機能性重視な服を纏う。
流行りなど追わず、自分の好む装いする。
しかし、髪をかきあげれば、生え際に白髪が目立つ。
フェイスラインも弛んできた。
男性から女として性的なモーションをかけられる事は無い。

若くない。
決して、若くない私という存在。
かつての彼らにとって、今の私は美しさなどカケラもない存在だ。

けれど、私は今や誰の目も臆する事なく、私自身の価値を見出して、身だしなみを整える。
好きなものを好きなだけ、堂々と身に付けて、美しく装う事を素直に好ましく思う。

それは、笑われるような事なのだろうか。

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