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機嫌良く生きるということはつまり、

ベランダから飛んでみたいと思ったのは、空が、雨上がりの空がとても幻想的だったから。
雲が、どんどん軽くなっていった。陽射しが徐々に、強さを増してくる。
しとしとと18時間くらい降り続けた雨の後だったから余計に、その上昇気流に乗って、この6階から下に落ちるんじゃなくて、上に昇っていけるはずだと感じたから。

この肉体に、この世界に未練があるかと聞かれると、あります、とは率直に言えず、かと言ってまだなんとなくお別れしてしまうのは早い気がして、それは多分まだやり残したことがあるから、そしてそれがいわゆる「未練」なんだろうな、と少しだけ実感した。
例えば、どういうことなんだろう。
美味しいものを食べたい。生きてて良かった!と感動できるような小説が読みたい。山の上からの風景が見たい。近くて遠くに住むあの人と、一緒にランチタイムを過ごしたい。
私の、未熟な発想ではこれくらいが限界。
けどこれらが、私をこの世に引き留めておく要素だと考えると、少しだけこの子たちを、子猫のような愛おしさを感じてしまう。
分かってる、これ、独りよがりなんだよな。
ここに、空を飛んでみたい、が入っていないのは、多分、私なりの現実感で、それを排除しているんだ。今のところ。

死ぬまで機嫌良く生きる。
この上ないシンプルなルール。これ以外、多分、考えるべきことなんてないんだよな。
自分が機嫌良く過ごすために、何が必要か。これって多分今まで何回もnoteに書いてきたと思うんだけど、それは刻一刻と変わるだろうから、常に見返していきたいよな、と思ったりもする。

機嫌良く、というのは、根本には、執着から離れるということだと思うのよね。
仏教の本をここ数年、読み過ぎているせいかもしれない。そっち側に酔っている気がする。酔っているって、ほんとは寄っていると書きたかったんだけど、酔っているというのもあながち間違いじゃないような気がするね。
閑話休題。
典型的な執着として、後悔ってのがあると思うんだよな。
あの時、あっちを選ばなきゃ良かった。そっちを選んでおけば良かった。
たらればだからさ、もしその、「今考える上での最善」を選んだとしても、パラレルワールドで生きる私はその現実を享受できるのかもしれないけれど、この、地球という星で現実的に生きる私は、今、この両手や両足と共に過ごす日常しかないわけで。
つまり、変えられないわけですよ。過去は。
そんなんなら、いくら憂いたとしても、過去を塗り替えることはできないはずで、

いや、塗り替えるっていうのは、もしかしたら「なかったことにする」っていう意味で、白いペンキで私が描いてきた過去ぜーんぶを白く塗って、何も残さなくなってしまうっていうことは可能かもしれないけれど、それっていわゆる記憶喪失とおんなじだからな、

話を戻す、過去を塗り替えることはできないはずで、それだったら、イヤだなぁと思う過去を、思い出さなければ良いだけで、
そして未来を憂う必要もなくて、だって誰もわからないんだから、
なので、そう考えると、

今、私が、機嫌良く生きるためには何をどう考え、行動すれば良いのか、ということを、全力で考えることが、最終的に「自分が機嫌良く生きる」ってことになると思うんだよね。

冒頭に戻るけど、もし、私が本当に空を飛びたくて、絶対下に落ちて死んでしまうのに、それでも、自分が機嫌良く生きたい、落下してる瞬間も機嫌良くできるだろうなと想定できたら、

もしかしたら今日の昼過ぎみたいな気候の時に、ベランダから飛び降りてしまうかもしれないよな、とか思ったりする。

価値観だもんな、死ぬまで機嫌良く生きる、っていうのは。

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