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人間関係は自分が選ぶもの

私は今までずっと人間関係を主体的にできてなかったように思う
人間関係に対して「相手が自分を選んでくれるもの」であって自分がこの人とこうでいたい…と思うことが烏滸がましいのではないかなと思っていて

選んでもらったと思う人間関係の落とし穴

「相手から選んでもらった」
と思う人間関係の落とし穴があって。
それは
「自分のことを選んでくれたはずの人が自分の思っていることと違う反応を示したときにひどく相手に裏切られたような気持ちを持つ。」
と、いうことに尽きると思う。
例えば、自分に対して「仲良くしよう。」と言ってくれた人がいて。
私はその人のことを「友達だ。」と思うようになるんだけど。
だからその人のことをすごく好きだと思うようになって(実際は合わない価値観を持っている相手でも)
具体的に…、その人の誕生日に何日も考え抜いて沢山お店を見て回り、その人のために!と思った贈り物をする。
友達だし相手からも同様の熱量で返ってくると勝手に期待していたけれど、相手の人が若干そういうのに無頓着なタイプだった場合なんか「とりあえず」感の漂う贈り物が返される。
相手はもらったし、返すか…くらいの気持ちだったとして、別にそれはその人がそういう人なんだから…ってことで良い筈なのに、ものすごくがっかりしてしまい、それがモヤモヤや苛立ちに変わる…的な。
別に、それは私が「友達」と思う人に対しての「贈り物」に掛ける価値観とその人の価値観が違うだけ。
そしてその価値観の相違がどうしてもモヤモヤにつながるのなら「価値観の合わない人だし。」と割り切って距離を置きたければ”自分”がそうやって置けばいいだけ。
それなのに、選んでもらったはずだからとしがみつき価値観の相違にイラだったりしてしまう…この悪循環。

「友達」になりたいかまってちゃんのズルさ

自分で「この人と仲良くしたい。」という気持ちを持つことがないタイプだと、相手からそう思われたいという気持ちばかり先行して、結局受け身になるんだけど。
受け身になるだけなら黙ってるだけの静かな存在だからまだしも、厄介なのが自分がなっていたタイプで。
「ここにいるよ。」と声はあげて自分から他人へはアクションしないタイプ
これがめちゃくちゃ、めんどくさいつまり、いわゆる「かまってちゃん」だと思う。
「自分のことを選んでほしい、でも自分から相手に”友達になりたい”なんてアクションを起こすのはおこがましいから、でもだから、気付いて”友達になろう”と言ってくださいお願いします!」
心からこう思っているからめんどくさいかまってちゃんになるんだよね。
別にシンプルに「私は君が好きなんだ。」って言ってしまえばいいだけのことに、そしてそれをもし拒絶されたらと考えて自分が傷つきたくないという予防線を張る行為が、ずるい。
「好きなものは好きだよ。」っていうのは自分の気持ちなんだし、ある意味自分のエゴ。
そして、自分は傷つきたくないっていうズルさ。
仲良くなりたいと思う人が自分のことをそういう対象で見られないことなんて、別によくあることだし、それは「あ、ご縁がなかったよね」で終わればいいだけなのに、その「ご縁がなかった」にひどく傷つくタイプであるのは、それこそ自分の問題なのに、相手に投げつける。

「友達」になってからも続く「私をずっと大切にしてよ」の怖さ

世の中の人はきっと「友達」になったものの”時の流れ”や”深く話すこと”や”自分や相手の身に起きる人生の出来事”を重ねていく中で
「【今現在】はこの人とは楽しい時間が過ごせなくなってきちゃったな。」
って思うこともある。それは当たり前。
ご縁はつながるときもあれば、終わるときも、すれ違う時も、一休みしたほうがいい時もある。
だから「そういえば最近あの人とはご無沙汰だなぁ。」ってなることもある。
それはどちらかがきっと”今は”違うかもなってなっているだけで、またつながることもあるかもだし、そのまんまで終わることもあるかもしれないけれど「人のご縁はナマモノ」だと思えばそれもまたそれで。
なんとなく距離を置かれているなって思っても”決定的に絶縁”までいかない場合はそのまんま身をゆだねるのも大事だと思っている、今は。
厄介な人の思考は「なんで今まで通りにお付き合いしてくれないの」と怒りに変化する
と、いう部分が本当に自分のことも他人のことも傷つけて”決定的に絶縁”を引き起こすことにつながると思う。
もう厄介者の思考は「気に入らないことがあるなら言えよ!」になってるわけで、いざ言われたら言われたで「そこを治すから友達でいて…」とか縋るわけで。
ナマモノとしてのご縁の賞味期限が切れちゃってるときに何をどう修復しても結局、自分が無理してしまい結果としてストレスがたまるわけだし”今は”違うようになったんだよね、と手を離すことだって必要だし、それだけのことなら拒絶にも喧嘩にもならないから、傷つかないだろうに。

自分で選び自分で自分の気持ちに責任を持つこと

自分が”ご縁をつなぎ続けていたい”と思う人は自分からアクションを起こす責任を持つべきだし、そこにあるのは「あくまでも自分がそうしたいと思っている」という自分の主体性だと感じる。
自分がそうしたいから、そうした。
相手からは同じように返ってはこなかった。
でも自分が自分で決めたことだから相手の責任じゃないよ。
「当たり前じゃん」って言葉なんだけど、これが上手く自分の頭と心で理解できているか、いないかで、相手に対する気持ちも変化する。
相手が自分と同じように思わなかったとして、それがわかったら自分の気持ちは自分で決着すればいいだけの話。
そこで「そうか、自分はつなぎたい”ご縁”だったけど、相手は違っちゃったか、残念!」くらいの気持ちでいなければならないと思う。
自分でそう思うからそうして、相手が迷惑に思っているんだろうなって思ったらそこはスッパリ引く、すべて自分の問題にすることの大切さを最近、良く思う。
そして自分に向けられるアクションに対しても「あー…でもこの人とはきっと”つなぎ続けるご縁”ではないな」と思うことも、自由なはず。
振り返ると、自分に対して向けられた好意に対して「んー…」と思ったこともあったのに、それすら「選んでもらったんだし」と受容して結局その相手のことを嫌いだと思うようになるまで無理やりにつなぎ続けたこともある。
相手に好意を向けられた時も「嫌い」に到達しない距離感を自分で上手に取りながら細くてもつなぐご縁を選ぶことだってできたのに「嫌い」に至るからきつい言葉を吐き捨てて、結局相手を傷つけるという良くない道を選ぶこともあったよなぁ、と。
どちらのパターンも自分の言動に責任を持たず相手のせいにばかりしているズルさの象徴だと感じる。


これからはきちんと「自分の気持ち」に責任を持つようにしたいし「人間関係は自分でキチンとその距離感、すべてを選んでいこう、そして、だからこそもし拒絶されても必要以上に傷つかず、そして、自分自身が拒絶することも恐れず責任をもって生きていきたいな。」と思っているアラフォーの戯言です。

こんなこと、きっと多くの人は思春期で思い知ってるんだろうな。

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