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物事への理解力と国語学習の関係

話題になっていたのでこちらの記事を読んだ。

ちなみにこちらも読んだうえでなんとなくポツポツ思ったことを、

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私は小学生の頃からめちゃくちゃ読書が好きです。
最近は時間がなかなか取れず、邦画で済ませてしまうことも多いのですが。
どれほど読書家だったかというと私の通っていた小学校では1年間で一番本を借りて読んだ生徒に「読書賞」というものを受賞させていたのだが、それをもらうほどに…でした。
昼休みはおろか短い中休みでも図書館に駆け込む小学生でした。
本の世界は色んなところに連れて行ってくれます。たぶん、それがのちの演劇好きなどにもつながるのだと思うんですが。

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ここ数日、Twitterなどでの「言葉」について様々なご意見を見る中で自分の目に留まったのが今回の話題です。
自分にも今は子どもがいて絵本の読み聞かせなどをしますが、私は保育の専門家ではないのでよく知りませんが「読み聞かせに感情はのせてはいけない」という事を何度となく言われました。そのため「淡々と」行うことが大事だそうです。
ここら辺が分かりやすいのかな…

個人的には「本の内容によりけり」だと思っています。
うちの子どもはまだ小さいので、そこまで考えることはないかな?と思っているのが本音です。もう少し物事に対する考えを深めるころには親が感情をリードしてはいけないというのは思います。

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私の悪い癖の一つに「論破」してしまうことがあります。
それはきっと「本の読みすぎ」なのです。
こういう事を言うと相手はきっとこう思うだろう、だから敢えて言う、という事を仕事などの場面でしてしまいがちです。
分かっているので、プライベートな喧嘩などでは絶対にしないようにと思っているのもあり、起こった出来事についてnoteにまとめるのは自分には合っているのでnoteをしています。

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「理解能力が乏しい人」が「自分に理解できないこと」について「自分にも分かるように言わないほうが悪い」という構図が「何かに対して思ったこと」を書いたTwitterで炎上してしまう人のところでは起きているなと感じることは確かに多いです。
タイムラインで流れてきたものの文章を正確に捉えきれないまんま脊髄反射的に自分にとって「マイナス」な部分に対して「わからねぇよ」と吐き捨てる感じですかね。
申し訳ないんですけれど、そういう人たちはまず「議論」が出来ないという事がもう関わったらあかん!って思うところです。
議論するほどの語彙力を持ち合わせていない人にそういう傾向がよくみられるのは事実です。
逆に初めは「あなたの書いていることはおかしい!」とリプライを付けた側も「議論」するだけの語彙力を持ち合わせていた場合は結構最終的には互いを認め合う良い終わり方をしている例を見ます。

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じゃあ「国語が苦手な人はいじめっ子になりやすい」というのはどうかな?と考えた時に「結果としてなりやすい」のかもしれません。
子どもに置き換えて考えると分かるんですけれど、我が子もまだまだ世界には分からないことや思うようにいかない理由が分からない場面がたくさんあります。そのたびに泣いたり、怒ったり、その感情を親であるこちら側に「どうにかしてくれよ!」とぶつけてきます。
国語の苦手な人というのは、理解力に乏しいことが多いのは確かです。なぜなら「ことば」の「意味」を考えることが苦手だから。
そういったときにそういう人が取れる行動は前に出る、か、後ろに下がる、のどちらかなのです。
人間は自分に理解できないことを嫌う傾向にあり、しかも、さらに言うと「自分の範疇のなかで理解できないこと」についてフラストレーションを溜めることが多いように見受けられます。こと、ここ、日本ではそれが強く。
そのため「自分にも理解できるように言わないそちらの落ち度だろうが!」と言う感情を持ちますが、それでも説明されてもわからないときに相手を攻めて攻めて自分を正しい位置にもっていかないといけないと思い込んだ行動をとる人は、国語力に乏しい人が多い印象はあります。
燃えている外野から見ると、私から見ると、元の発信者さんの意図しないことで最終的にブチ切れてる人が多いです。
「ちゃんと読めてないのだなぁ」という感想を持つことは多いです。

また「語彙力」の乏しさは自分の考えていることを相手に正確に伝えることも阻んでいると思います。「言いたいことは分かるけど選ぶ言葉はそれじゃない」という書き方をして炎上している人も見かけます。

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「話せば分かる」が通用しない人が多くなったのはきっと140文字コミュニケーションの世の中だからでしょうね。

話は変わりますが、140文字で言いたいことをバシッ!とおさめられている人をたまに見ますけれどその人こそ「真の国語力」のある人だな、と痛感します。私は結局ツリーにしてぶら下げまくらないと言いたいことの正確性に欠くことも多く、そのためやっぱnoteが向いています笑。

算数をするにしても「文章問題」などがあるのってやっぱ「読解力」の大切さから来ているんだと思うんですよね
文章を丁寧に読んで、その人がどういう気持ちでこの文字をつづったのかを考えるとたとえば「バカ」の一言に込められてる意味合いも変わるものです。

が、残念ながら受け取る側に読み取る力がない以上はどれだけ話しても意味がないのもこのご時世です。
よく他人に対する想像力がない人が多いと思うんですけれど、本当に思います。
人間、波もあっていつでも温和でいられないこともある中で私は「この人は何でこのようなことを言ったのかな?書いたのかな?」と思うことは多々あります。
それこそ相手に対する想像力です。国語で読むいろんなお話には登場人物それぞれの気持ちを描いているものも多いです。
そこから考えると「自分の範囲で勝手に納得した」言葉だけが世界のすべてではないことは分かると思います。

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さて、「国語力のあるいじめっ子のほうが怖い」論、これはまた別の話ですね。
頭の良いいじめっ子の方が相手に何を言えばダメージになるかわかっているからおそろしい、のは本当だと思います。
現に私も仕事では「こう言えばきっと自分のしたい方向にまとまる」と思うことはあります。
ただ「頭の良いいじめっ子」というのはやはり共感性には乏しいという面で、所謂、学習過程での国語を正確に学べていないということでは今までの国語が苦手に等しいと思うんですよね。
自分の小学生の頃を思い起こすと国語の問題に感情を問うものがあったと思いますし、それが道徳的にNGであればバツを付けられていたと記憶しています。
結局のところ、こちらも国語が苦手、になってしまう気がしたんですよね。成績という話ではなく、学習の地頭的に。

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自分も子供がいるので、本を読んで感想を聞いて、例えばそこに少しのズレを感じた場合は「何でそう思ったのか」を対話して、ひとつずつ話していきたいと思ったのと同時に、それは大人社会だって一緒で、仮にいま国語の力がない人がいたとしても「何でそう思ったのか」という自分の中の疑問を攻撃的にならずに話していくことは大切だな、と思いました。



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