トルストイ民話集に見る、宗教を物語に解消する可能性について
宗教への違和感
巷にみかける、宗教団体というものに違和感を覚えることが多い。
一方、あるべき生き方というものを見出せず、虚無的な人生を送ることには恐怖を覚える。
この問題に向き合うため、史的唯物論の考え方、トルストイの芸術論、彼の芸術作品の肩に乗りながら、考察をしてみた。
宗教と宗教団体
宗教。
経済的になり、物質的になっていく文化の中で、宗教ほど異質な領域はない。
宗教の究極的な目的は、人を善い生き方に導くことにある。
例えばキリスト教は、神の愛に従った生き方を説き、仏教は、煩悩から解放された生き方を説いた。
しかし、宗教団体は別である。
宗教団体は、建前としては、より多くの人に宗教の教えを広めるために創設された。
しかし、これだけ科学が発展し、経済観念に支配された私たちが、このような素朴、純朴な建前を心から信じることはできないだろう。
私たちは、他人を評価するときに、他人が自分をどう思っているかではなく、他人が何をしているか、によって評価する。
これは正しい見方であって、この見方を宗教団体にも適用してみる必要がある。
では、宗教団体は、上のような目的を歌うけれども、実際はどのような機能を果たしているのか、について考えなければならない。
宗教団体は何を行っているか?
宗教団体の活動の大部分は、組織を維持し、財産を保持することに充てられている。
しかし、それらの露骨な目的は、必ず宗教的な目的のヴェールを被っている。
その結果、宗教的な目的が、歪む。
善い生き方をするための行動が、必ず組織的、経済的な色彩を帯び、当初の理想を離れて、団体の組織的基盤、経済的基盤を維持するためのものに変容する。
これは、団体を形成する以上、避けられないことであり、学校や会社などの組織内で働いたことがある人には明らかなことだ。
必ず、素朴な信仰は、組織的・経済的な目的のために変容する。
なぜなら、精神性という上部構造は、経済という下部構造という土台の上に建てられる建築物だからだ。
良い、悪いではなく、必然的だ。
では、なぜ団体が形成されてしまうのか。
それは、宗教が、「教祖は現実に存在した」「教祖が定めたルールを守れば、救済される」という教義構造を取るからである。
宗教には、権威化・実体化への強い指向が含まれている。
その結果、その現実的効果を求めて、人々は一定のルールを守って救われようとし、宗教団体を形成する。
宗教は悪ではない。
宗教団体が構成されることも悪ではない。
しかし、人間の信仰心が、組織の維持・経済的利益のために、すなわち、組織の利益のドレイとなることは、悪である。
さて、宗教は、権威化・実体化への強い指向を持っている。
他方、善い生き方を説きながらも、権威化・実体化への志向を持たないものが存在する。
それが、物語だ。
トルストイの民話
トルストイは、彼自身、信仰の篤い人であったが、芸術に関して、大変立派な考えを持っていた。
芸術とは、単なる美しいもの、楽しいものではなく、人の人生に善い影響を与えるものでなければならない。
そして、その内容としては、時代、場所を超えて人々に通じるような普遍性を持っていなければならない。
したがって、その形式としては、簡潔、明瞭、単純でなければならない。
このように説いた。
そして、その考えが結実したのが、民話集である。
これらは日本にもよく知られており、岩波文庫でも出版されている。
さて、この民話集を読んだとき、人間としての善い生き方というものが、簡潔、明瞭、単純に描き出されている。
しかも、人はこう生きるべきだ、などという教条的な言い方は一つも含まず、ただ坦坦と色々な生き方が描き出され、それらを見れば自然と善い生き方というものが各人の中にイメージされるようになっている。
さらに、その善い生き方というものは、決して現実世界のものとしては描かれていない。
いくばくかのメルヘンを包含しており、妄想にとらわれない限り、これを現実化するのは不可能だ。
特に有名な民話が、「イワンのばか」だ。
その中には、全ての道徳的思想が含まれているといっても過言ではなく、しかも、それがわずか60頁に収まっている。
そして、その内容は、おそらく、小学校3年生にも理解できる平易なものだ。
その内容は、現実ではなく、もちろん、いかなる権威主義も含んでいない。
この物語を利用して組織を作り出すというのは、狂信的な文学研究者の間ならまだしも、一般的には考えられない。
人が善い生き方を見つける補助となり、しかも、組織化・権威化の弊害をもたらさない、トルストイの文学は、ロマン=ロランが彼の作品を絶賛して言ったように、「芸術以上の芸術」である。
さて、もし、宗教というものの本来の目的が人に善い生き方を示すことにあり、宗教団体というものが、その存在を維持するという経済的目的のために、教義や構成員の精神性を変容させているということを承認するならば、物語という芸術は、宗教の目的を果たし、しかもその弊害をもたらさない、普遍的価値を持つものとして、宗教に代替する可能性を秘めているのではないか。
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