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第4回 産業革命の功罪

今日よりは明日、明日よりは明後日と、豊かな生活を追い求めていくのは人間の本性(ここはあえて、ほんせい)です。
衣食住が人間の生活のベースですが、衣の方はやや立ち遅れていた感がありました。まずは「食」-食べないと人間は死んでしまいます。また風雨をしのぐ「住」がなければ大変です。
二つの余裕ができたところで「衣」の改革が始まりました。
一番必要なのは、贅沢な絹や羊毛ではなく、綿布でした。庶民的で、汗の吸収も麻より良く・・・しかし綿花から紡いで糸(綿糸)にし(紡績)、更にそれを織って綿布にし、ようやく衣服になっていくのです。
簡単な機械は作られた様です。でも効率が悪い。収入が増えてくると需要も増しました。もっとたくさん欲しい!
その要望に応えて、イギリスで1733年、ジョン=ケイ(当時29歳)が飛び杼(ひ)という手織り機を発明しました。これで速度は2倍になったと言われます。すると今度は原料の綿糸が足りなくなり、1764年、ハーグリーブズがジェニー紡績機を発明しました。それまで糸車で1本の糸しか紡げなかったのが、同時に8本が可能になったのです。紡績機は更にいろんな人によって進化しました。またそれはいろんな産業に波及し、1765年にワットが蒸気機関を完成し動力が発展しました。そして1807年、アメリカのフルトンが蒸気船の運転に成功、1814年にはスチブンソンが蒸気機関車の試運転に成功と100年足らずで加速度的に産業革命が発展し現在に至っています。

しかし大きな穴がありました。「できすぎ」てしまったのです。需要に応えるために機械の性能を良くしたらいつの間にか、供給が大幅に超えてしまいました。1929年の世界恐慌もこれで起こり、第二次世界大戦の原因となりました。
売れ残りは厄介です。倉庫代もいるし、費用が回収できません。そこでイギリスは属国にしていたインドに押し売りを始めました。インドの名産「キャラコ」は潰されました。イギリスの綿布を押し付けるために、インドの手織り業者に織る事を禁止しました。しかしそれでは生活できないのでこっそり織っているとすぐに掴まえ、織れない様に手を切断したのです!
19世紀、500万以上のインド人が生活できず餓死したと言われます。
そしてもっと儲かる方法をイギリス始めヨーロッパ列強は見つけました。直接植民地にしてしまうのです。ただ同然で原料を調達し、奴隷労働で安価に生産し、世界中に売りつけて巨額の富を得る。帝国主義の始まりでした。

イギリスとフランスが帝国主義の植民地二大勢力でした。イギリスのセシル=ローズは「できるなら私は惑星をも植民地としたい!」などと放言しています。ベルギーは小国ですが、遅れて資源豊かなコンゴを手に入れました。ベルギーの国王・レオポルド2世は強欲な君主でした。生産が遅い黒人は見せしめのために手を切れ!からどんどん殺せ!になって人口が約3000万人から900万人へと激減しています!(Wikipediaより)

あまりの残虐性にイギリスから抗議がきて(どの口が言う)、コンゴはベルギーの国家統治となって、レオポルド2世は外れました。まあこの点についてはイギリスのお蔭ともいえますが。しかしレオポルド2世は公的に罰せられる事もなく1909年、74歳の天寿を全うしたのでした。神はいなかったのでしょうか?(続く)

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