第6回 ドイツの変遷
ドイツは近現代においてキーポイントの国でした。ドイツの急成長により第一次大戦そしてそのリベンジとしての第二次大戦があったともいえます。即ち、ドイツ対英・仏・米・ソ(露)の構図が2度ともありました。
原爆に関して言えば、第二次世界大戦が始まった頃(1939年)、ドイツが破壊力の凄い原爆を作り世界を制覇するのではないかという憶測が出、ドイツより先に原爆を!という事で米・英そして日本も着手しました。
そしてアメリカのオッペンハイマーを中心とした科学者が完成する直前、実はドイツは費用面などで原爆作製をやめていました。その後、完成した原爆は日本に落とされてしまうことになります。
さて、東フランク王国に端を発したドイツは、名ばかりの神聖ローマ帝国ー実態は30以上の領邦国家。皇帝を順番に選んでいくというものですから、すっかり英仏に差をつけられてしまってました。先行したスペイン・ポルトガルはただ金・銀などの収奪にかまけて産業を育成させなかったので衰えていってました。
ドイツ連邦の中ではプロシアとオーストリアが両雄でした。ここでビスマルクという名宰相が出て、オーストリアを撃破。そしてプロシアの勢いを止めようとしたフランスのナポレオン3世も打ち破って、1871年1月18日、ベルサイユ宮殿に乗り込んで、ヴィルヘルム1世を皇帝として即位させ、ドイツ帝国を宣言しました。フランスとしては屈辱だったでしょう。
ビスマルクの手腕は冴え、「光栄ある孤立」を謳って孤高のイギリスを尻目に、とにかくフランスを除け者にして、オーストリア・ロシアとも友好関係を作って、特に1878年のベルリン会議ではビスマルクは世界の調停役として花形でした。英仏にとっては中欧に巨大なドイツ帝国が出現した事は脅威だったでしょう。
しかし1888年3月、頼みのヴィルヘルム1世が90歳で亡くなると、ビスマルクの地位は暗転します。子が早世し、孫のヴィルヘルム2世が29歳で即位すると、新皇帝にとって73歳のビスマルクは邪魔でしかなく、2年後に更迭されます。そしてヴィルヘルム2世は「世界政策」を掲げ、オーストリアとの関係を重視し、ロシアとの再保障条約を更新しませんでした。困ったロシアは同じく孤立していたフランスと1891年露仏同盟を結びます。ビスマルクが一番恐れていた事でした。ビスマルクはドイツの将来を心配しながら1898年に83歳で亡くなります。
そしてドイツを警戒するイギリスは長年やりあってきたフランスと(古くは百年戦争以来)遺恨を捨てて1904年英仏協商を結びました。不仲でしたが、共通の強大な敵ドイツに対するものでした。1907年には英露協商も成立してドイツを英仏露が取り囲む形となったのでした。
第一次大戦の事は後日掲載するとして、最近私は意外な事をネットで見つけました。「反日国ランキング」というもので、1位北朝鮮、2位韓国、3位中国、4位ロシアまでは想定内だったのですが、5位になんとドイツがランキングされているのです。親日の1位台湾、2位トルコ・・・などもずっと見ていきましたが、親日の20か国の中にドイツは入っていませんでした。同じ勤勉という国民性ですし、敗戦を乗り越えてきたのでてっきり親日と思っていたのですが・・・
反日の理由を見ると「ドイツは戦後反省して取り組みをしているが、日本にはその態度が余り見られない」というのです。しかし終戦~現在にかけて、アメリカの巧妙な支配政策に縛られている日本の現状というのも少し理解してほしいですね。(悲) (続く)
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